雨のち晴れ

 予報は晴れだった。彼は、雨の気配があると言っていた。

 彼が言うならと折り畳み傘を持って出たが、予想を上回る雨量と強風を前に脆弱な折り畳み傘では二秒も持たなかった。

 長い黒髪から、私立高校の夏服から、避けきれなかった雨水が滴り落ちる。道行く人は皆身を縮めながら駆け抜けていて、どうやら朝の天気予報を疑って出てきた者は殆どいないらしい。


「困ったな。今日は早く帰ると伝えてしまったのだが」


 ふむ、と声を漏らして灰色の天を仰ぐ。

 帰路の途中にある店の軒先を借りての雨宿りを始めてから、三十分が経とうとしている。雨量は増すばかりで、雨雲がやってきた果ての空を見ても晴れ間は見えない。恐らくは通り雨の類だろうが、いつ止むとも知れない雨をぼんやり眺めている時間はあまりにも退屈だ。

 風は止んでいるのでもし傘が無事だったならいまのうちに帰れたかも知れないが、残念ながら千円の折り畳み傘は見るも無惨な有様になってしまっている。自分自身は壊れた傘と違って雨に濡れた程度で故障するほど脆弱な作りはしていない。しかし、だからといって積極的に雨の中を突っ切って行きたいとも思わない。なにより自身は良くとも鞄が良くない。濡れては困るものがいくつも入っているのだ。

 此処まで濡れていては、雨の中に飛び出そうと待ち続けようと際限なく体が冷えることに変わりはないのだが。

 進退窮まったな、と溜息を零したときだった。


「ミサ、やっぱり此処にいたな」


 ばしゃん、と水たまりを踏みしめる音がして、声が降ってきた。

 顔を上げれば、出がけに雨を予見した男が大きな傘を掲げて立っていた。

 派手な金髪に、紅い瞳。胸元が開いた柄シャツと細身の黒いパンツという格好は、商店街よりも繁華街に多くいるタイプに見える。


「わかっちゃいたが、既にずぶ濡れだな」

「風が強かったんだ」


 ミーミルというのはそんなことまで予見できるのかと感心していると、その内心を読んだイスカが「お前がわかりやすいだけだよ」と笑った。


「ほら、いいから入れよ。宿舎の風呂、六時過ぎると混むだろ。ったく……部屋にもあるのに何だって部屋風呂で済まさないんだか」


 鶍の掲げる傘に入りながら、ミサゴはふて腐れたような鶍の横顔を見上げた。


「サウナと立ち風呂はさすがに部屋にはないだろ」

「はぁ? お前、その体でサウナ入ってんのかよ」

「人間がいられる程度の熱で壊れるような、柔な作りはしていない」

「そりゃ、そうだろうけど」


 視線を感じて、隣を見る。鶍はまだ納得いっていない表情で鶚を見ていた。


「君な、私の体を市販のパソコンやスマホと同等に見るのはやめろ。何なら君の体で試すか?」

「わかった、悪かったって」


 右腕内部の仕込みナイフを覗かせて言うと、鶍は傘を持っていないほうの手だけで『お手上げ』のポーズを取って鶚の威嚇を制した。器用なことに、鶚が濡れないよう傘を傾けながら。


「何度見てもお前の内蔵武器は謎だわ。そのちっせえ体にどんだけ詰め込んでんだ」

「小さいは余計だ」


 軽口をたたき合いながら歩いて、歩いて。

 寄宿舎が見えてきたところで、傘にぶつかる雨粒の音が止んだ。


「いま止むのかよ!」


 役目を果たした傘の雫を振り落とし、くるくると回して畳みながら、鶍が叫ぶ。

 遠い西の空には夕陽が見えていて、間もなく空は濃紺に染まっていくだろう。


「まあ、いいじゃないか。貴重な体験も出来た」


 鶚は濡れた傘を丸めている鶍の後ろ姿を眺めながら、満足げに笑って言った。背を覆うほどある黒髪を軽く絞り、ついでにずぶ濡れのスカートも雑巾のように躊躇なく絞って叩く。

 彼の左肩と右脇はすっかり濡れて色が変わっていた。鶚はとうに濡れていたのに、身を寄せて雨が当たらないようにしてくれていたのだ。そして彼は、自身の気遣いを誇ることもしない。当然のように鶚を支え、守ろうとする。

 無意識の行動だから鶚も指摘はしない。ただ、代わりに別のことで感謝するだけ。


「君も早めに温まってくるといい」

「そうする。晩飯は簡単なのでいいよな」

「ああ。私は別に、社食でも構わんのだが」

「それだとお前、季節のデザートしか食わねえだろ。却下だ却下」


 SIREN上級職員専用寄宿舎の、六階最奥。

 高級マンションもかくやという広々とした部屋に、二人揃って帰宅する。鶍がまだ十代の少年だった頃から暮らしている、二人のための部屋だ。年齢差のせいで成人と女子高生という間柄になってなお、彼らは離れることなく二人暮らしを続けていた。

 互いに戦闘時だけでない、日常の中でも当たり前の存在となって久しく、下世話な噂が立ちようもない家族同然の存在だからだ。

 窓の外に煌めく星空を背に、鶚は大浴場へ向かった。

 きっと鶚が長風呂から戻る頃にはテーブルに温かい食事が並んでいることだろう。それが彼の日常で、当たり前の生活だから。


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