第13話 カラスカス帝国への花嫁
真夜中に、ブルーベルは離宮に戻ってきていた。
誰に告げることもなく、まるで逃げるように宮殿を後にした。
帰りたかった。
いつも通り、誰もいない、自分ただ一人で過ごせる場所に。
誰の目もなく、誰かが話しかけてくることもない。
朝になって、ブルーベルは離宮の庭に出て、お気に入りのベンチに腰を下ろす。
建物の裏側に広がる、深い森を見つめた。
(あの夜、わたしはここで、真っ白な毛並みのオオカミを見たのだわ)
屋内に戻り、二階にある自分の寝室に入り、窓ガラス越しにそっと見下ろすと、庭に佇むオオカミの姿が見えた。
頭を片側に傾げて、耳をピンと立て、まるで何かに耳を澄ませているようにも見えた。
やがて、しばらくすると、オオカミは驚くほどの跳躍を見せて、夜の森の中へと消えていったのだった。
あの、小さな出来事があった日は、ブルーベルにとって、最後の穏やかな日だったように感じられる。
ブルーベルは、そっとベンチに置いた、小さな手鏡を取った。
つい、寝室から持ってきてしまった。
ひとつ深呼吸をして、手鏡を覗き込む。
そこに映るのは、いつもと同じ、銀色の長い髪と、青紫色の瞳。
いつもと変わらない……顔の左半分は。
青紫色の瞳から、涙がこぼれ落ちた。
震える右手が、自分の顔の顎から頬、そして目元に触れていく。
そこには、金属の冷たく硬い感触があった。
手鏡に映っているのは、残酷な現実。
ブルーベルの顔の右半分は、額から目の周り、そして頬、最後に口元を避けて、顎の右半分まで、銀色の金属でできた仮面で覆われていた。
いや、それは仮面と言えるかどうかも、ブルーベルにはわからない。
なぜなら、その銀の仮面は、外すことができなかったからだ。
ブルーベルの顔の造作に合わせて、まるであつらえたかのようにぴったりとしたこの金属は、隙間ひとつなく、ブルーベルの顔の右半分を覆い尽くしていた。
さらに涙がこぼれ落ち、ブルーベルは手鏡を落とした。
何度も何度も泣いて、もう言葉も出なかった。
* * *
ブルーベルの意識が戻った時にいたのは、確かに宮殿の一室で、付き添っていてくれた男性は、医師であり、癒しの光魔法を操る魔法治療士でもあった。
彼によると、ブルーベルは離宮で、意識を失った状態で発見されたという。
その時にはすでに、顔の右半分には銀の仮面が付けられていたが、周囲には広く血だまりができていたため、仮面の下はケガを負っているものと考えられた。
確かに、ブルーベルはずっと顔の右半分に痛みを感じていたので、ケガをしていた、と言うのは納得できる話だ。
とはいえ、仮面が外れない以上、通常の治療はできない。
そこで魔法治療士の男性が呼ばれ、仮面の上から癒しの光魔法がかけられた。
「出血は止まりました。患部は直接見ることができないのですが、光魔法は金属を通して、患部に届くはずです。光魔法を遮るような効果は感じられませんでした」
医師の男性は、そう言って、ブルーベルに根気よく説明をしてくれた。
「ただ、他の魔法士も呼ばれましたが、この仮面が何なのか、どうして付けられているのか、その効果は何なのかは、一切わかりませんでした。仮面の下の患部については……」
そこで男性は、初めて説明する言葉を途切らせた。
「出血量から言えば、かなりの切断面があったかと思われます。光魔法はかけましたが、どの程度治療されているかは、未知数です。もしかしたら、たとえ仮面が外れたとしても、目に見える傷跡が残っているかも……しれません」
男性は深々と頭を下げた。
「ブルーベル王女殿下。とても……残念です。私の力が及ばなかったことを、心から申し訳なく思います」
そして、男性は退出し、部屋にはブルーベル一人だけが残された。
* * *
翌朝、侍女が部屋に入った時には、ブルーベルの姿はなかった。
彼女が過ごしていたベッドには、小さなメモが残されていて、彼女の手当をしてくれたお礼と、離宮に戻る旨が記されていた。
夜中のうちにブルーベルは久しぶりに離宮に戻った。
どこで自分が倒れていたかを知らないために、一人で離宮に入るのは少し怖い思いもした。
この中で、自分は何者かに襲われたのだ。
しかし、明かりを点けて各部屋を回ったブルーベルは、それがどこであれ、すでにきれいに掃除されているらしいことに気がつき、ほっと息を吐いたのだった。
ブルーベルがそっと右手で顔に触れると、そこには変わらず、冷たい金属の感触がある。
しかし、ブルーベルは軽く頭を揺すると、台所に入り、熱い紅茶を用意した。
大きな白いカップを持って、二階に上がる。
ようやく帰ってきたのだ。
今は、これで十分、ブルーベルはそう思った。
お茶を飲んで、ブルーベルは眠った。
翌朝、いつものベッドで目覚めたブルーベルには、体に少し力が戻っているような、そんな感覚があった。
再び台所に行って、紅茶を入れる。
そしていつものように、カップを持って、庭のベンチに座った。
まるで儀式のように。そうして、涙をこらえるのだ。
台所には、いつ届けられたのか、いつもと同じように、その日の食事が届けられていた。
また、別に小さな包みが置いてあり、それは医師が処方した薬草茶のようだった。
小さなメモに、丁寧に煎じ方が説明されていた。
ブルーベルが庭のベンチに座っていると、小鳥達がどこからともなく飛んできて、ブルーベルの周りに降り立ち、可愛らしい声でさえずる。
赤い鳥、青い鳥。黒地に緑が入った鳥。
ピピピピ……
ピチュピチュピチュ……
キュキュ、キュキュ、キュキュ……
それぞれに異なる鳴き声に、ブルーベルは耳を傾けた。
「わたしを慰めてくれているの……?」
ブルーベルが思わず呟くと、鳥達は一斉に可愛い羽を広げて、羽ばたきした。
ブルーベルはそっと小鳥に微笑む。
* * *
その日の午後、ドゥセテラ国王は、正式に、第一王女フィリス・ノワールをカラスカス帝国皇帝の花嫁とすることを決定し、使者を送った。
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