テーブル・マナーをあなたに
悪夢じみた、その出来事の翌日の朝。エドが感じたものは、いつもよりも綺麗な太陽の光。いつもよりも綺麗な棚に、いつもよりも清々しい目覚め。
それまでとは明確に異なる感覚に戸惑いながら、寝巻き姿のままにぺたぺたと屋敷を歩く。足の裏にいつもしつこくまとわりつく埃が今日はまったく、無かった。鼻を向ければ、良い香りがする。その、変化すぎる変化に少年は居心地の悪さまで感じるようだった。
「あら、おはようございます、ご主人様。
私が行かなくても起きれるのね?偉い偉い」
「ぐっ…子ども扱いはやめろ!
起きるくらい誰だってできる!」
「くす。気に触れたならごめんなさい。
本当に褒めたつもりだったのだけど」
居間まで歩いて行けば、そこに居たのは、彼がロザリィと名付けた人形。どこから引っ張り出したのか、昨日に来ていたひらひらとした服は外し、代わりには汚れてもいいようなメイド用の服を着ていた。
そして、机の上には、良い匂いを漂わせる朝食。
「まったく…何も作るものが無いのね。それに洗剤もほっとんど無いし、水だって古いわ。エド。あなた、どうやって生きてきたの?」
「ふん。そんなことお前に教える必要があるのか?」
「『お前』」
「……ロザリィ」
「ん、よろしい。
それじゃ頂きましょう。冷める前に」
そうして互いに席に着く。
同じ席につく、など主従の関係においては不躾で不敬で、あり得ないことではあるが、少年にはそれに対する知識も無ければ、また主人と言われるような自覚すらなかった。ただそんなことよりも、気になることがあった、ということもある。
「……なあ、ロザリィ。
お前、その。あの後からずっと動いてたのか?」
「そうよ。大変だったわ、まったく」
「寝もしないで?」
「ふふ。私は人形なのよ?人形が寝ると思う?意外と、ロマンチックなところがあるのね」
「ち、違う!そういうことじゃ…
ああもう、笑うな!」
意地悪に笑うロザリィからふいと眼を逸らしながら、誤魔化すように目の前にあるオムレツを口に含む。何か、特別ではなく。ただ、美味しい。温かい食事をすることも久しぶりに思い、それも含めて静かに物を食べた。彼女の前には食事はない。机の上に用意されてるのは一人分だけだ。それもまた、当然なのだが。
人形、人形と。自称され、また色々なところから認識してはいる。そも出会いからして、分かってはいる。だがそれを改めて様々な方向から思い知らされると、なにか脳のどこかが齟齬を起こすような、不思議な不気味な感覚に囚われる。
と、そうして、すこし背丈に大きすぎる椅子にちょこんと座り、こちらを見ている彼女をまたぼうと眺めながら目の前の食事をかきこんでいる最中のことだ。ロザリィの目が、だんだんと険しくなっていく。どうやっているのか眉根を顰めるように、そうして少年をじっと、目付きの悪く見つめた。
「…なんだよ」
「…エド。あなた、食べ方が下品」
「は?」
「あなた、マナーはどこで教えてもらったの?そのフォークの握り方はなあに。ナプキンをそんなに汚す人がある?頬にまでついてるわよ。全く、だらしのない」
「なっ、なっ、なっ…!」
怒涛の、礼を失した言葉に、怒りよりも先に困惑と混乱が色濃く出つつ、それでも辛うじて憤怒が出てかあと赤くなる。だがそんな、出る言葉にも悩んで困っている様子などつゆ知らず、更に口を開き続ける。
「…いいえ、わかったわ。きっと貴方、今までまともに習う機会もなかったのね。うん、それなら頷けるわ。この館の惨状も今の貴方の様子も」
「お前、ロザリィ!ボクをどれだけバカに…」
「どういったことか、私を手に入れられるというのに、ステップガールを雇うお金も無さそうな貧乏家主ですものね。ナースメイドもいないのなら、しょうがない…
…よし、決めたわ」
ぴん、と指を弾く。その陶器じみた音は彼女のヒフや肉が、柔らかでなくタンパク質以外の物から作られている事をさし示していた。
「私が、あなたを教育してあげる」
「…はぁ?」
ちょ、こん。椅子から飛び降りるようにして降りてから、彼女の言う主人のもとへと歩き出す。木靴の後は規則的で、それでいてテンポアップしていく。少しなりとも高揚しているように。楽しみなことのある子供のように。
「うん、うん!それがいいわ!ふふ、喜びなさい?エド。あなたはこの世でも二人といるかわからない、人形にマナーを教えられた男の子になるのよ!」
「はぁ!?なんだよ、それ!ボクが呆気に取られてる間に勝手に話を進めるんじゃない!それに、マナーだと?ばっかばかしい。口に入れば同じだろ!それに、何より…」
「何より?」
「……そんなもの、今から整えたところで見る奴なんていないのに。無駄が過ぎるだろ、馬鹿め」
「あら、ダメよ」
ぼやくように、諦めるように、自嘲するようにそう目を逸らしながら言う事を咎めるかのように。ロザリィはその逸らした視線の先に割り込んで、彼の額をその硬い指先でとつん、と少しだけ強くつついた。
「良いこと?たかがテーブルマナー。されど、マナー。礼儀と作法というものは、人を人らしくしてくれるものなの。何より、それを学べば、周りが貴方を人として扱ってくれるようになる。それはつまり下らない人間に触れないで済むための、盾にもなるの。まだわからないかもしれないけど、ね」
「教養とマナーは、身を守る為につけるもの。それは見せる相手がいなくてもあるべくものだし、何より…」
「……何より、なんだよ」
「エド、貴方はもう私と暮らしてるんだから。見る人が誰もいない、なんて悲しい事を言わないで頂戴」
そう、言われて。
がたん。
激しく席を立つ。
何が、彼の逆鱗に触れたのかはわからない。彼自身、どうしてそこまで苛立ちを覚えたのかわからないだろう。ただ分かることは、眉間をつつき、そうして諭すように言葉を紡ぐ人形の彼女に、エドは拒否反応のような、嫌悪のようなものを感じたのだ。
「エド?」
「はっ!何が!人を人らしくだ。何が『私がいるから』、だ!くだらない、くだらない!お前は、お前はっ!ただの人形だろうが!人でも無い、作られたものが偉そうな口を利くんじゃないッ!ボクになにか一端の口を利くんじゃない!!」
「見捨てられて、捨てられたおんぼろのドール風情が、知ったようなことを言い散らかすなッ!」
ぜっ、ぜっ、と息を切らして言う少年。それを言い終えてから胸を抑える。それは身体の不調というものというよりかは、自らのその発言や、慣れない大声の発散に自家中毒じみて、過呼吸になっているのに近い。
言い終えて、から。エドは伏し目がちに顔を上げた。それもまた、子ども故。言ったはいいが、言ったからこそ、その発言に負い目を感じて、遅まきに怯える。
だがそんな危惧を、それこそ嘲るように。
ロザリィはまるで、オペラでも聴くかのように、目を閉じて心地よさげにそれを流していた。
あら、もう終わりなの?とでも言いたげに。顔を上げたエドに首を傾げて、そうしてから微笑んだ。
「ええ、そうよ。私はお人形さん。人じゃないモノが、人を語るなんて滑稽に見えるかもしれないわね。でもね。胸を張って言えるわ。私は貴方より、人間」
「……っ、なんだと、この…!」
「まだ、ね」
転げ落ちるように動いた椅子が、テーブルから落とした食器を拾い上げながら人形がささやく。成程確かに、そうして音も傷も付けずに拾い、そうして席に再び着く姿は美しく、そうして人より、人らしくあるだろう。
「だけれど、それもほんのすぐだけよ。貴方は素敵な紳士になれるんだもの。私が証明する。その為にはまず、座り方から変えましょうか」
そうして、幾つかの指示が出される。
それに、おずおずと。されど素直に従ったのは、つい先に行った暴言に負い目を感じていたからか、はたまた、そのドールの言うことにむしろ反発したいがための従順であったかもしれない。
「…うん。それだけでも、さっきよりずっと素敵よ、ご主人様。気品がある顔立ちだわ、貴方は」
「…おためごかしは要らない」
「うふふ。本心よ?
お人形が、嘘を言う事なんて出来ないったら」
椅子に座りながら、そう笑うロザリィと、また、目を逸らして話すエド。たださっきまでの視線とは違い、それは照れ隠しが多分に含まれていた。彼のまだ短い生涯、褒められる事は無かった。故に軽く褒められただけで、そう頬を染めてしまう。
ただ、その体験こそが、彼には大切で。
褒められる、ということ。
それはエドにはとても、新鮮で。
虜になる感覚であった。
「………なあ、ロザリィ」
「なあに?エド」
「……お前が言う事は、正直全然わかんないよ。だけど、その。もし、お前の言う通りにそういう礼儀とかを、知る事ができたのなら、さ」
「うん」
「…ボクは、本当にその。少しでも紳士になれるかな」
「ええ、もちろん。なんてったって、私がいるんだもの。それに…」
「…それに?」
「それにね。ちゃんと話を聞く素直さが、貴方にはある。だから、絶対大丈夫よ」
「だ、誰が!素直に話なんて…!」
「うふふ、そうね。最初はそれこそ、素直なんかじゃなくていいの。人間はいつだって大変で、何かを抱えて、鬱屈が溜まるものだもの。ねじくれだって、する」
「だけどそれでいい。それでも貴方には、対話が出来る。出来ている。それならいつだって貴方には、素晴らしい道が開けているの」
そう言って、ロザリィはいつの間にか彼女たちの前にあったティーを一口啜った。人形には、ありえない行動。食事も睡眠も必要ないのに、しかしそれはある。
「ああ、よかった。
私は主人に恵まれてるわ」
だけどそんな細やかな疑問は。
その、可憐な笑みに溶けて消えてしまった。
呪いのように、まじないのように。
「……そんなこと、ない」
また、頬を赤くして。
少年は目を逸らしてそうぼやいた。
…
……
「それじゃ。早速初めましょう。何も身についてないのは事実なわけだから、ビシバシ行くわよ。泣いても止めないんだから覚悟してね、ご主人様」
「なぁっ…!なんだよその鞭!?どっからそんなの持ってきたんだ!?まさか失敗したらそれで叩いたりするんじゃ…」
ぴしん。そう指を指した途端に、その腕を打つ小さな鞭。少年はその痛みに、手を抱える。
「いっつ!…ほ、本当に打ちやがった!」
「人に向かって指を指してはいけません。それに言葉遣いも改めなさい。少なくとも今の、授業中は。フォーマルとプライベートを使い分けられるようにね」
「くそ、この悪魔め!呪いの人形め!こうまでする必要があるか、本当に!?」
ひいひいと、言うその横で、ロザリィは笑う。その笑顔はまた少し意地悪で、否、それを通り越して少し嗜虐的ではあった。人工物の顔では、ありえない表情。
「当然。私のご主人様なんだもの。私に見合うくらいの、素晴らしい男になってもらわないとね?」
…諸々のマナー、教養に学問。小さな主人は、それらを文字通り『叩き込まれ』る、こととなる。
きりきりと、少年を追い込む様子は、まさしく呪いのドールだった。
誰かが、そう、後に語ることとなる。
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