第9話 レシート




 翌朝目を覚ますと、もう九時だった。中途半端に昼寝し、また、初めてたっちゃんさんの剥き出しの苦しみに触れ、俺は三時近くまで眠ることが出来なかった。俺の寝坊はイコール、同行者の寝坊でもある。二人とも口には出さないが、九時起きらしくないむくんだ顔をしていた。のそのそと準備をし、出発する頃には十時前になっていた。


「微妙な時間だねぇ、朝ごはんどうする?」

「コンビニで何か買って、食ってから渡るか」


 宿から関門トンネルの入り口まで歩いて三分もしないから、どこかカフェにでも寄って朝食を、という感じでもなかった。

 コンビニで菓子パンを買って、海沿いの遊歩道の東屋に座って食べた。もう日が高くなり、海の照り返しでずいぶん暑い。


「昨日さ、ごめんね」

 乾いたパンをパックのコーヒー牛乳で流し込んでいたら、たっちゃんさんが言った。

「何が」

「気使わせちゃって」

「別に、そんなこともたまにはあるだろ。あと、一年半はさ」


 少なくとも一年半は隣に居るんだし、と言おうとして、それは全然違う、ということに気付いてしまった。俺は何も確約された訳じゃない。あと一年半は何事もなく隣に居ないと、スタート地点にも立てないんだ。

 そしてその一年半のカウントダウンすら、まだ始まっていない。カウントダウンは、門司に渡って帰ってきてからようやく始まるのだと気付き、その道程の長さに気が遠くなって、何も言えなくなった。


「関門トンネル人道入口」という看板の下に、大きなクジラと、その周りに三十頭くらいの小さなクジラの絵の描かれたエレベーター扉があった。身体の半分くらいの大きさの口でにっこりと笑うクジラの表情や、周りの小クジラの多さに思わず笑ってしまった。


「すげーな、ふぐばっか見てんじゃねぇぞっていうクジラサイドの圧感じるわ」

「ここまでたくさんクジラ居たらさ、逆に一匹位ふぐが……あ、いる」

「うそ、どこ」

「あのさ、おっきいクジラのしっぽの下」

「マジだ、やられたな」


 よくよく見れば、小クジラの群れの中にさり気なく三~四匹ふぐが混じっていた。

 定員四十名のこの大きなエレベーターが、ただの無機質な銀の扉だったら、俺たちは黙ったまま乗り込んで海底に行っていたかもしれない。ふぐ探しに気を取られて、エレベーターの矢印ボタンを押すのを忘れる位には盛り上がっていた。

 緩んだ空気と俺たちを乗せたエレベーターは、地下五十五メートルまで下降していった。


 扉が空くとそこは、「海底」という言葉からイメージする光景とはずいぶん違う、公共施設だな、という空間だった。

 丸い太い柱がいくつか並び、柱の周りには陶器の腰掛けが置いてある。壁には、下関の観光案内や、関門トンネルの説明が展示してあった。


 関門トンネルは、エレベーターを降りた左手にあった。黄色い路面に白線が引かれた、明るいけれども天井の低い、出口の見えない四角いトンネル。俺は呟いていた。


「消失点だな」

「えっ?」

「あのさ、中学校の美術の時間、遠近法の話の時にやっただろ。一点透視法っつって、一点に向かって線引いて、それに沿って部屋とか本棚とかの奥行きを描くっていう。その点が、消失点」

「あー、あったね。立方体の描き方とかやるやつだぁ」

「そうそう。このトンネルの、道がどんどん狭くなって向こうで点になって見えなくなる感じさ、一点透視そのものだなぁって思って」


 この道の先にあるはずの門司の出口は、消失点のようだと思った。その先に行けたのなら、俺たちは心の滓を置いて来ることが出来るのだろうか。


「たっちゃんさん、頭ぶつけんなよ」

 そう言って、全長七八〇メートルの「←門司」と書かれた黄色い路面に、一歩足を踏み入れた。


 海底のトンネルは、夏でも蒸し暑さはなく、かといってひんやりともしてはいなくて、散歩にちょうどいい温度だ。

 お盆シーズンで、しかも寝坊して出遅れたから、閑散とはしておらず、俺たちの前に五組の観光客がいるな、というくらいの混雑具合だった。


 目の前には、若い夫婦と小さな男の子、もっと小さな女の子が手をつないで歩いている。女の子のアンパンマンのサンダルが、歩くたびにキュッ、キュッ、と音を立て、その音がトンネル内に響く。俺達もその音に合わせてゆっくりと歩いた。

 いや、たっちゃんさんはその歩調より少し遅く歩き、前の家族と距離を置いた。


「どうした?」

「いや、女の子が振り返って俺居たら、びっくりしちゃうかなぁって」

「たくさん絵描いてあるおもしろいお兄さんだと思うんじゃない?」

「あ、でも、顔まで見えるか怪しいかなぁ、目線の距離的に」

「お姉さんだと思う可能性あるか」

「子どもは先入観持ってないからねぇ」


 男の子とお母さんの会話がうっすらと聞こえる。近県から来たんだろうか、お母さんも男の子も語尾にすこし訛りがあり、ああこんなに小さい子どもも、生まれた土地の言葉で話すんだよなという感動があった。

 今この土地には、俺と全く違う地域で生まれ生活を営んでいる人たちがいるのだ、という当たり前のことに、旅行二日目にしてようやく気が付いた。


 五~六分歩いたところで、福岡と山口の県境に到達した。道を横断する線が引かれ、奥に福岡県、手前に山口県と書かれている。多分ここは、観光に来た人なら必ず撮影する場所だろう。

 たっちゃんさんに「撮ってあげようか」と声を掛けようか迷ったが、やめた。何故だか分からないけれど、ここで撮ってはならないような、残すなら記憶の中に留めたほうがいいような、そんな気がした。

 たっちゃんさんも「撮って撮ってー」なんて言わない。どちらからともなく線の前で立ち止まり、たっちゃんさんは左脚を、俺は右脚を踏み出した。

 今、俺たちは、門司に来た。


 地上へのエレベーターを降りると、そこは下関側と変わらない建物だった。

 辺りは下関側より閑散としていて、灰色の鳥居越しに海を見れば、やっぱり、対岸に建物が見える。吹いている風も下関とさして変わらないんだけれど、俺は遠い国に来たような、いよいよここからは俺達二人だけにかかっているという妙な緊張感があった。


 観光列車で、門司のメインの観光地「門司港レトロ」へ向かう。ロイヤルブルーの機関車のような観光列車はずいぶん可愛らしくて、ちょっと気恥ずかしかった。そして、ファンタジーの世界の様で、ますます知らない場所に運ばれるのだ、という緊張が高まった。

 たっちゃんさんは

「風が気持ちいいねぇ」

 と静かに言った。


 列車が出光美術館駅に到着した。道を渡って広場の端に、ガイドブックで見たレンガ造りの建物と、その向こうに海が見える。建物の影の辺りで、バナナの叩き売り実演、と書かれた看板を立て、法被を着たおじさんが朗々と歌い上げながらバナナを売っている。


「さあさあ、御用とお急ぎでない方は見てらっしゃい

 面白可笑しく節付けて 

 故郷の土産に買わすのが

 門司港名物バナナ売り

 さあさあ買うた さあ買うた」


 俺たちも緩く拍手をしながら見守る。おじさんはどんどん値を下げていく。


「なんかさぁ、つい買いたくなっちゃうね」

「流されやすすぎだろ、あの量買っちゃってどうすんの」

 ぼそぼそと喋っていたら、つい買っちゃったおばあちゃんが「良かったらもらってぇ」と、俺たちにも一本ずつお裾分けしてくれた。おばあちゃんが去った後

「えーラッキー、ここで食べていいかなぁ」

 とたっちゃんさんが言った。


「ダメ、絶対宿で食うぞ」

「ええ、ここで食べたほうが感じが出るでしょ」

「いや、ダメ。何かダメ」


 よく分からないけれど、これは下関に渡って食べなきゃ、と強く思った。たっちゃんさんは渋々、バナナをバッグに仕舞った。


「ねぇ、俺らさ、門司に渡ることばっか考えて、着いて何するか全然考えてなかったな」

「ホントだね……これからどうしよっか」

 ガイドブックの門司港レトロのページを開く。

「展望室あんじゃん。とりあえず、観光地と言えば高いとこ登る、だろ」


 銀色の大きなエレベータに乗り込めば、ドアの反対側には大きな窓がある。

 さっき、五十五メートル下降し、海底を渡りここに辿り着いた俺たちが、次は地上一〇三メートルの展望室に向けて上昇している。

 門司港レトロの広場は遠ざかり、俺たちは少しずつ、雲に近づいていく。


 すぐ下の海と広場、そしてその向こうの門司の街並みを見渡す。観光エリアだな、という区域の外、マンションや家々が立ち並び、ここにも俺の知らない生活が繰り広げられている、と実感した。

 あの街並みの中、高校生の一馬さんは自転車で駆け抜けたのだろうか。話でしか知らない俺ですらそんなことを思っているんだ。俺は今、たっちゃんさんの顔を見ないのが礼儀だ、と思い、すぐ下にある跳ね上げ橋がゆっくりと上がっていくのを眺めていた。


 三分くらい黙って街並みを見下ろしたあと、そろそろいいかなと思って口を開いた。

「あの橋、渡ってみたいな」

「いいね、何かロマン感じるね!」

「たっちゃんさんロマン好きだな」


 展望台を出て、隣の大連友好記念館に向かう。それは、レンガと白い石材のコントラストがくっきりとした、尖った屋根が特徴的な洋風の建物だった。二階の休憩スペースには、大きな窓が並び、光に溢れている。

 が、それは今日のような真夏にはいかんせん眩しすぎる。壁側の一人掛けのソファは重厚感があり、是非ともそこに座りたいと思ったが、お盆休み真っ只中で、ソファは大人気だった。隣のスペースの、座面の厚い椅子で涼みながら、また話を振ってみた。


「ここは、来ただろうね」

 もう、誰がとは言わない。

「そうだね、建築勉強してた人だし。というか、こういう建物が近くにある環境だから、建築に興味あったのかもねぇ」


 大連友好記念館は、建物の床や暖炉の縁に、葉のような花のような模様の四角いタイルが貼られ、ツタのようにひとつに繋がる柄を描いている。

「これは多分、なんとか様式みたいなカテゴリー名が付いてるやつだよねぇ」

 なんとか様式とか、カテゴリーとか、ふわふわしすぎだろって突っ込みたいけど、俺も全く建築に明るくないので、何も言えない。

 上部がアーチを描く観音開きの窓は、白い窓枠が優雅で、でも太くて堅牢な雰囲気もあり、海風に負けない強さを感じた。


 きっと俺とたっちゃんさんでは、この広場にいくつかある古い建物たちの魅力の、深い所は分からない。一馬さん居たらな、と、俺たちの長兄を懐かしむような気持ちになった。俺は、たった一枚の写真を見ただけなのに。そして、たっちゃんさんがずっと好きだった人なのに。


 大連友好記念館を後にし、橋の方へ歩く。

「一馬さんは、訛りはあったの」

「ああー、普段は出ないけど、食事中とかふとした時に出てたなぁ。お酒飲んだ時とか」

「お酒、飲んでたんだ」

「まあ俺が飲めない年齢だし、ちょこっとだったけどね。かっちゃんお酒強いわけじゃなかったし。九州の人なのにね」

「九州の人は酒強いのか」

「皆が皆じゃないけど、なんか世間的にそういうイメージない?……って、レオは飲めないしまだ分かんないか」

 昨日コンビニで、あと二年半後には一緒に飲んでくれるのか、と考えたことを思い出した。あの頃のたっちゃんさんも、なんて、考えたくもない。そして「考えたくもない」と微かに苛立った俺自身に驚いた。


「……一馬さんもさ、この辺来たかな」

「えー、でも地元の人は観光地来なくない?」

「いや、社会科見学とかで絶対来そうじゃない?」

「あ、確かにね。紅白帽被って、バインダーとか持って来たかもね!」

「バインダー、懐かし!」


 多分、たっちゃんさんと一馬さんの話が出来るのは、俺くらいだと思うから、ちゃんと話をさせたかった。東京じゃきっと、こんな風に何気なくは話せない。

 最後の別れ以外はこうやって、歩きながら穏やかに話せる「思い出」になっている。いつか、ずっと先、あの悲しみも、こういう思い出の延長の、乾いた苦い思い出に変わっていくだろうか。

 そのためには、少なくともあの鳥に宿る一馬さんの幻影を、解き放たなければならないと思った。こうして現実の一馬さんを偲ぶことが、幻影を解き放つ助けになるような気がしていた。


 歩いていくと、潮風に混じってカレーの匂いが漂ってきた。近くの建物に「門司名物 焼きカレー」の看板。カレーライスにチーズをかけて焼き上げたものだ。

「えーこれ絶対美味しいやつだよ。カレーとチーズ合わせたら、美味しいに決まってるじゃん!お昼ここでもいいんじゃない?」


「絶対ダメ」

 間髪入れず答えてしまった。


「えーなんでぇ。レオ今日、食に厳しいね……」

「寿司食おうって言ったじゃん。唐戸市場で」

「あぁそうだったね、ごめんごめん」

「焼きカレーなら俺、神楽坂に美味い店知ってるから。今度連れてってあげるから」

「大丈夫だって、お寿司にするってば」


 神楽坂の焼きカレーと門司の焼きカレーは全然違うって、さすがに俺も分かってる。門司の地元民に聞かれてないかヒヤッとした。

 その後も、今日俺寿司の口になってるから、しかも暑いし、と主張し続けた。

 たっちゃんさんにハイハイ、と流されるけど、そりゃそうだよなクドいもん、と腹も立たないくらいだった。 


 門司港レトロを離れ、近くの商店街をぶらぶらと目的もなく歩く。栄町銀天街、と書かれた大きなアーケードは、古びてはいるが立派な作りだ。きちんとこの土地の人の生活に溶け込んでいる空気を感じ、俺は異国の地に迷い込んでしまったような心許なさを覚えた。


 今どきなかなか見かけないような、個人商店の小さなおもちゃ屋さんがあった。

 たっちゃんさん、寄るかな、と思った。何せおもちゃ好きな人だから。

 たっちゃんさんは、その軒先に掛かっているボールを見つめてはいるけれど、それは買いたくて吟味している人の目じゃなかった。俺は目を逸らし、カプセルトイの筐体を、あぁ最近こんなの売ってんだ、なんて思いながら眺めていた。


 数軒先の洋品店のショーウィンドウの前で、またたっちゃんさんが足を止めた。その中には、近くの高校の制服が飾ってあった。

 俺にとっては、ただの、旅先で見つけた近隣の高校の制服。足を止めて、二〜三分眺めるようなものじゃない。でも、たっちゃんさんには。


 緊張と、哀しみとも苛立ちともつかない重さと、それらを包む自己嫌悪。そんな感情のかたまりを、俺の中にこんな気持ちがあったのか、と、遠くから観察しているような心地がした。


「お腹空いたねぇ。そろそろ行こうか」

 振り返った顔は、いつものたっちゃんさんそのものだった。それが尚更、悔しかった。俺にはどう足掻いたって踏み込めない。踏み込ませてももらえない。

 ただ、そういう領域が無くなってしまったら、それはたっちゃんさんではないから、俺は

「そうだね」

 ということしかできなかった。

 これから下関に帰り、俺は、たっちゃんさんが一馬さんの思い出を大切に抱えたまま、それでも自分を赦せるような図案を作らなければいけない。


 いや。それは、違う。

 俺は、たっちゃんさんが自分を赦して、そして、俺の方を向いてくれるような図案を授けたい。この気持ちを、心の奥底に沈めていたことに気付いた。


 もうこの世に居ない人に、俺は嫉妬している。昨日怖ろしいと思った「嫉妬」が、こんなにも早く、俺の中にやって来るなんて。

 でも俺は、知っているから。

 この感情は、幸福と隣り合わせのものだと、知っている。だから、たっちゃんさんに俺の方を向いて欲しいなら、こいつと、うまく付き合っていかなきゃいけないんだ。 


 観光列車で関門トンネルまで戻り、再び黄色い路面の前に立った。たっちゃんさんは何事もなく踏み出そうとしたが、俺は足を止めたまま言った。

「あのさ、この先下関に着くまで、振り返らないって、出来る?」

 トンネルの中反響するざわめきが、ふっと遠ざかる。少しの沈黙の後、たっちゃんさんは小さく、そうだね、と言った。黙ったまま歩き出す。もう、一馬さんの話はしない。この後の昼飯の話を、しようと思えば出来るけど、しない。

 深い森の中の一本道を歩くように、一歩一歩足場を確認するように歩く。本当は、早歩きをしたくてたまらないけれど、たっちゃんさんの歩調で遠ざかるべきなのだと言い聞かせ、ゆっくりと歩いた。


 俺は今、海の底に居るのだ、ということを急に思い出した。このトンネルの上に、大量の海水があるのだろうか。いや、あるんだ。トンネル内の空気と、トンネルの外の海水と、その均衡が保たれていることが奇跡のように感じる。どうか俺たちが渡り切るまで、その奇跡が続きますように、と強く願った。


 下関に到着し、トンネルの外の舗装を踏みしめた時、俺はようやくすっと息が出来るような、肺が伸び伸びと膨らんでいくような心地になった。後ろを振り返れば、往路と同じように遠くに消失点が見えた。


 昼どきを少し外して、唐戸市場の活きいき馬関街に行った。市場の中、魚屋の店先の寿司を売るケースが、屋台街のように何店舗も並ぶ。その中から好きな握りを一貫から買うことが出来る、バイキング形式になっている。


「わー、わー」

「レオすごい、語彙失ってるね」

「えーどうするこれ、どっから行く」

「とりあえず端から見ていきましょうかね」


 目移りどころじゃない。多すぎて何をどうすればいいか分からない。ひたすら本能の赴くままに選んでいく。


「ねぇレオ何にした」

「俺は、大トロ、中トロ、トロ炙り、えんがわの炙り、サーモン」

「若。俺がそのラインナップにしたら三貫目あたりであっついお茶必須だわ」

「そっちは」

「えっと、とらふぐと、ヒラメ、のどぐろ、うに、アワビ」

「うわ、大人の選び方だ。本気でいいネタ食べようとしてる」

「本気でしょ。ここで遊んでどうすんの」


 ひとまず五貫ずつに留め、食べ終わったら二周目行こうぜと言いながら、ウッドデッキに座る。ウッドデッキが熱々だし、そもそも真夏で暑いんだけど、冷たい寿司は旨い。


「流石にトロ三連発はきつかった」

「そうでしょうね、残りもえんがわとサーモンでしょ?まぁここでヒカリモノと貝挟んでちょっとこなれたチョイスにされたら、それはそれで食べ慣れ感あって小憎らしいね」


 小憎らしい。的確なワードチョイスに、たっちゃんさんさては日常的に俺のこと憎たらしいと思ってるんじゃないかと、若干のムカつきを覚えたが、憎たらしいのは多分事実だから飲み込んだ。


 二周目も五貫選び、そこに焼いたホタテやカキ、みそ汁まで追加したので、流石に腹がぱんぱんになった。


 ほぼ毎食だが、大量に炭水化物を摂取し、また眠気が襲ってきた。宿に戻ると早々にたっちゃんさんは、「寝まぁす」と言って昼寝体制に入った。俺も昼寝したかったが、今の内だ、と思って、写し取ってきたたっちゃんさんの鳥の図案を広げた。


 嫉妬も傲慢も、自覚している。でも、それと共に確かに「たっちゃんさんを救いたい」という、本心からの綺麗事も、この胸の中に在る。

 白い鳥が新しい命を得て、リサさんのように前に進めるような、ユイナさんのように守ってもらえるような、そんな図案になれと祈るように、頭の中に描く。


 外から聞こえる蝉の声が変わる頃、たっちゃんさんは長めの昼寝から目覚めた。


「おはよ。図案、出来たよ」

「うそっ、早。でもレオ、昼寝してないってこと? ゴメンね俺だけ」

「出来た、けど、まだそれは俺の頭の中にある」


 まだ寝ぼけ顔のたっちゃんさんが、へ? と言った。


「左腕に、直接描いていい?」


 たっちゃんさんの脳と表情筋がにわかに覚醒していくのが分かる。俺のペースで話して申し訳ないと思いつつ続けた。

「油性ペンと染料インクだからしばらく残るけど」

「すごい、何かレオに彫ってもらうみたいだ」

「そう、俺が彫る。だからきっと、烙印になると思ってくれ」


 烙印という言葉の強さに、たっちゃんさんの顔からゆっくりと笑みが消える。そして、どういうこと?と尋ねてきた。俺はいつかルイの言った「烙印」の話をした。彫る側彫られる側の思い入れのバランスが傾いていると、それは烙印のように重い意味を持ったタトゥーになってしまう、という話。


「なるほどね、ルイちゃんはさすが、鋭いね」

「俺は、生半可な気持ちでデザインしない。そして、針は使わないけれど、俺が彫る。前にどんなデザインでも、受け入れるって言ったね。だから、俺の描く図案は、たっちゃんさんの意図に反するかもしれない。烙印になる条件は、揃ってんだ。それでも、いい?」


 ずっと俺の目を見て聞いていたたっちゃんさんが、左腕を見るように目線を落とした。明らかに逡巡の色が見える。


「……そうだね、約束したもんね。門司に来た証のデザインなら、どんな図案でも」

「いや」


 たっちゃんさんの言葉を遮る声は、俺の想像以上に大きく部屋の中に響いた。


「門司に来て、そして、白い鳥を門司に納めた証のデザイン、だよ。それでも良ければ描く。受け入れられないなら、この話は無しにしよう」


 たっちゃんさんがまた、じっと左腕を見つめている。左腕の白い鳥は、たっちゃんさんの心臓を見つめる。お前は、ただのかわいい鳥になってくれるか? 心の中で尋ねてみるが、もちろん返事は無い。


 俺に見られてちゃ、考えも纏まらないだろうと気を利かせたつもりで

「散歩、行ってくる」

 と言った。立ち上がった瞬間

「待って」

 と、腕を掴まれた。たっちゃんさんにしたら普通の力加減だったんだろうが、俺にとってはすごく強く感じた。あぁこの人は俺より随分体格が良いんだった、と思い出した。


「は? いや、気利かせて一人にしようと思った、ん、ですが」

「彫り師さん、客のカウンセリングに付き合ってよ。黙り込みがちですけど」


 たっちゃんさんが、花火を見た時の、関門海峡に臨む窓際の籐の椅子に腰かけた。今日は、右側。俺は突っ立ってる訳にもいかないから、その左に座る。たっちゃんさんと、鳥と、俺の三人が並んだ。


 関門海峡というのは不思議なものだな、と思う。昨夜花火を見ている時は、確かに対岸に門司の灯りが見えていたはずだけれど、目のフィルターに遮られていたのだろうか、その存在を感じなかった。歩いて渡った時は、果てしない、というほどではないけれど、トンネルの出口は見えないほど遠く、いつ辿り着くか分からないまま歩いた。

 そして今は、目の前に迫って来るほどに、近く感じる。此方と彼方は、思った以上に近く、少しの力で引きあっている。


 貨物船が関門橋を潜り抜ける時、たっちゃんさんが口を少し開いた。二秒ほどのブランクのあと、

「俺は、受け入れていいのかな」

 と言った。


「受け入れて欲しくなきゃ、描かないよ」

「そう、そうだよね。……でも、受け入れるってことは、俺は、自分を赦すことになる。だから、迷って、いる」


 俺は、赦してはいけない理由が知りたいし、そもそも責めるべき理由も知りたい。でも、真っ向から対立する意見をぶつけたところで、彼の心を此方に引き寄せる力はないから、考える。たっちゃんさんの目を通して感じられる、赦しの理由を。


「昨日さ、たっちゃんさんは、レオはすごいって言っただろ。でも、すごいのは俺じゃない。俺はあの時、たっちゃんさんはたとえ振るにしても、あの部屋の空気が重苦しくならないように振ってくれるって、信じていたんだ」


 言葉の着地点が見えないまま、話し続ける。


「俺の人生を、好転させたんだよ。ひとりの人間の心を救ったんだよ、たっちゃんさんは。俺は、たっちゃんさんが罪を負ってるなんて思ってない。でも、たっちゃんさんがそう思うんだとしたらさ、俺を救ったってことで、チャラにしてくれない?」


「……でも、俺もこうして、連れてきてもらって、救われてるからねぇ。そこでトントンってことに、なっちゃうんじゃないかなぁ」

 何で、そんなに自分を追い詰める理由付けばっか上手いんだよ。腹を立てたい、でも、堪える。逃げてかわし続けても何も変わらないけど、感情のままぶつかるだけでもダメなんだって、この十ヶ月で学んだから。


「自分を救うような相手を見つけた自分を、好きになれよ」


 俺が言った言葉が、空気を震わせ波になり、また俺の耳に返って来る。この波はたっちゃんさんの耳から、脳に届き、そしてその先どこまで行き着いただろうか。

 俺にはこれ以上、持ち合わせる言葉はない。今の俺とたっちゃんさんの境界はここが限界という所まで、来てしまったから。


「……ありがとう。うん。ありがとう。きっと、さ、今すぐ、心から赦せるわけじゃないと思うんだよ。でも、いつかそこに辿り着きたいって思うために、受け取ってもいいかな」

「俺はさっきから、受け取れって言ってる」


 ここまで来てもまだ疑問系なのかよって、苛つきそうになった。そして俺も、全身の力が抜けそうになってるくせに苛つくのかよって、ちょっと感動した。

 相変わらず「我」が抜けない。俺はずっと、何が起きても引き続き、俺だった。たっちゃんさんも、引き続きたっちゃんさん。

 白い鳥だけが、色を纏うことになった。


 俺はふと思い立って言った。

「あのさ、外で描いていい?」

「外?」

「あの、海沿いの遊歩道のベンチで描きたい」


 朝パンを食べた東屋よりもっと海寄りにある、石で出来たベンチを指差す。

 たっちゃんさんは一瞬きょとんとしたが、ハハ、と笑った。


「そっか、針じゃないから、外でも彫れるか。いいよ、関門海峡見ながら描いて、そして」

 そして? と俺は尋ねる。たっちゃんさんは、俺の目を見てはっきりと言った。


「ちゃんと白い鳥さんを、門司に返しましょう」

 この真剣さに適う図案を俺は、彫る。これは俺の仕事だと思うから。


 たっちゃんさんは少し顔を緩めて言った。

「じゃあ、ちょっと腕の毛剃って来るね」

「うそ、そこまでする?」

「そりゃそうでしょ。レオ本気でしょ。俺も、本気だよ」

 たっちゃんさんが洗面所にいる間に俺は、筆タイプの染料インクのペン何本かと、油性のボールペンをバッグに入れた。


 外は、まだ気温は高いけれど、海風が吹き、室内から眺めているよりは涼しかった。たっちゃんさんが右、俺が左に腰掛ける。俺は右足を立膝にし、その上にたっちゃんさんの左腕を乗せて安定させた。


「これ、傍から見たら大分おかしな二人だよな」

「まぁ、いいじゃない。旅の恥はかき捨て……いや、恥でもないか」


 たっちゃんさんの剥き出しの肌に手を添える。そして濃紺のペンをスッスッと滑らせ、鳥の頭頂部から首辺りまでグラデーションを作る。多分結構くすぐったいはずだけど、たっちゃんさんは少しも動かない。俺の手元をずっと見つめている気配がある。


 海風を左頬に受けながら、俺は随分前髪が伸びていたことに気付いた。鼻や唇をくすぐる髪が鬱陶しく、耳に掛けて、そしてペンを別の色に変えた。

 晴れた夏の空と海の青色。濃紺のグラデーションが途切れる鳥の首元から、腹の少し下辺りまで、またグラデーションを描いていく。そして最後に、鮮やかな黄色のペンを、足元から上に滑らせ、頭とは逆に、足元が一番濃くなるようにグラデーションさせる。

 鳥全体が、濃紺から青、黄色のグラデーションを纏った。俺は、ペンのキャップをカチッと閉めて、ベンチに置いた。


「……わぁ、すごい、綺麗。これ、何の色なの」

「昨夜の花火が終わった時の空と、今日の海と、海底の関門トンネルの路面の色」 

「なるほどね、え、すごくいいよ。全然、ありがたく頂戴しますよ」

 たっちゃんさんがにっこりと笑った。


「いや、違うんだ。まだ、完成じゃない」


 え、と言うたっちゃんさんの顔は、笑っているが少しずつ笑みが消えようとする気配がある。俺は、黒いボールペンをノックし、ペン先を出した。


「点を打ってくれないか。ここに」


 俺は、鳥の心臓がある辺りを指差した。


 たっちゃんさんが、息を吸う音が聞こえる。ゆっくりとその目を見た。俺は、関門海峡を目の前にして、相当に残酷なことを言っている。


「この点を、消失点にする」

「消失点?」

「関門トンネルを初めて見た時、一点透視みたいだねって、トンネルの先が消失点みたいだって話しただろ。だから、この鳥の心臓を」


 鋭い言葉になりそうで、少し間をおいて言った


「消失点の向こうに置く。出来なければ、俺はここまでしか描かない。その先を描くか、たっちゃんさんが決めてくれ」


 正直、未完の絵を人の肌に残すなんて考えられない。完成させてくれよ、と心から願うけれど、どうしてもここはたっちゃんさんに委ねなければならないと思った。


 左利きのたっちゃんさんの右手に、ボールペンを渡す。

 使わないはずだった針は今、たった一本だけ、たっちゃんさんの手の中にある。


 俺はただ、鳥を見つめて黙っていた。

 波の音、蝉の声。耳に風が当たり、ぼうぼうという音になる。汽笛の音がこだまする。どうか受け取ってくれという祈りと、申し訳なさそうにボールペンを返されたら俺たちはどうなるのだろうという悲観が、波と風に合わせて去来する。


 もう、待つのを止めようか。そう思って、顔を上げかけた。


 俺の視界の左上から、スッとボールペンのペン先が入り、ゆっくりと、鳥の心臓を刺した。


 自分の心臓が刺されたような衝撃と、でもたっちゃんさんが確かに自分を赦したのだという喜びと安堵と、どうにもならないいとおしさと、あらゆる感情が押し寄せる。俺は、軋む音を立てるようにぎこちなく首を動かし、今度こそ顔を上げた。目が合った。


 俺たちは、やっぱり傍から見たら大分おかしな二人だ。ボールペンの先を腕に刺して、目を合わせ、二人で泣いてる。その理由は、何文字費やしても、通りがかった誰にだって伝えられない。でも、伝えたいとも思わない。


 俺はボールペンを受け取り、二つ折りにしたコンビニのレシートをガイドにして、消失点を中心とした八本の集中線を描いていく。たっちゃんさんが

「おかパーのレシートだ」

と笑う。

「何が役に立つか分かんねぇな……はい、出来たよ」


 美しいグラデーションと、集中線を纏った鳥が生まれた。これは、烙印かもしれない。でも、それでもいい。これは、たっちゃんさんが誰のものでもなくなった、という烙印だから。


 たっちゃんさんが、しみじみと、綺麗だねぇと言った。俺は、ひとつの仕事を終えたのだ。


 そう思ってボールペンを置いたその時だった。

 山側から強く風が吹き、コンビニの白いレシートが、吸い込まれるように海へ飛んでいった。


「あっ」

「やべ」


 レシートは嘘みたいに遠くにまで飛んで、そして見えなくなった。


 海抜五メートルのベンチで、俺たちは乱反射する海面の輝きを見ている。波の向こうの、出会ってすら居なかった一馬さんに、俺は心の中で「さよなら」と言った。


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