第6話 白い鳥



 桜もすっかり散った頃、たっちゃんさんが

「遅くなったけど、レオのお誕生日と入学祝いでもしようか」

 と、飯に誘ってくれた。お誕生日は揺るぎない、かつ過ぎた出来事だが、入学は不確定な未来の予定、どっちにしろ中途半端なお祝い会だ。


 俺は、三月に十七歳になった。生徒手帳を持たない身になってもう八ヶ月経つ。相変わらず、元高校生フリーター未満という中途半端な立場で日々を謳歌している。でも、それももう残り五ヶ月だ。


 俺は周囲の、というか、母さんばあちゃんたっちゃんさんという三人の大人たちに、たっちゃんさんの母校の定時制高校に編入する、と断言した。

 またしても勝手に決めたわけだが、この「勝手」に対し、怒ったり異議を唱える人は居なかった。むしろ、一様にホッとした顔をしていた。二学期、九月から、俺は高校生活に復帰する。いや、まだ予定で願書も出していないけれど。


 ルイと喧嘩しそして仲直りをした日、俺は、美大に進学することを、いや美大に限らず、さらには大学に限らず、学ぶことから逃げなくていいんだと気づいた。どんな選択肢を取るにしても、まずは高校を卒業しておくに越したことはない。


「レオ、後輩になるんだねぇ。綺麗なトイレの場所とか教えてあげるね」

「たっちゃんさんの頃の綺麗なトイレはもう年季入ってるだろ」

「日本のトイレの耐久性、舐めない方がいいよ」


 俺もたっちゃんさんも、編入できる前提で話しているのが何だかおかしい。学校側から丁重にお断りされる可能性も無くはないのに。


 約束の数日前、たっちゃんさんから


“レオ、この店どう?!おいしいよ!
編み物好きだからいいかなと思って!”


 という文章と共に、ジンギスカン屋のリンクが送られてきた。この人どうかしてる、と思った。羊毛とラム肉は違う。

 一旦寝かせて、三時間後返信した。


“ギャグで言ってる?お笑い好きは誕生日にお笑い芸人焼いて食うのか”

“えー、羊繋がりで上手いこと考えたと思ったのに!でもふつうにおいしいよ?”


 まあ俺も、ラム肉は好きなので、結局その店に行くことになった。もうもうと煙の充満する店内で、鉄鍋を挟んで向かい合う。俺は肉の焼け具合がほとんど判別できないから、肉を焼くのはたっちゃんさんの仕事だ。確かに肉の鮮度が良くてうまい。


「ちょっと、レオ肉ばっか食べないでよ!そっちの領土の焦げた玉ねぎとかキャベツ俺が回収して食べてあげてるの分かってる?!」


 珍しくプンスカ怒っている。そう、プンスカ。この数ヶ月で見せた怒りの最大値が「プンスカ」だ。平和な人だ。たっちゃんさんと居ると落ち着くのはこういうとこなんだろう。ただ、それは俺だけじゃない。多分色んな人が、「たっちゃんと居ると落ち着くなぁ」と思っているんだ。


「たっちゃんさんは、俺のこと何だと思ってんの」


 言った後、あぁこれめちゃくちゃホラーじゃんと思った。倦怠期のカップルのどっちかが言うやつ、あるいは付き合ってるのか付き合ってないのか分からない人が言うやつ。恋愛経験ない俺が例えるのおかしいけど。


「えーっ、お友達って自分が散々言ってたじゃん」

 俺のホラー性に気付いてないみたいで助かる。

「俺は友達と言ってるとしてもだ。たっちゃんさんは、どう思ってんの。バディだ、とかも言ってたじゃん」


 首の皮一枚で助かったのに、また突撃してしまった。皮はちぎれかけだ。


「なるほどね、確かに今の状態はバディだよね」

 たっちゃんさん、自分から言っといて他人事みたいだ。

「じゃあさ、俺がフェアアイル編み上げて、高校入って図案も描かなくなったら、どうなるの」

「えらく追及するね……まぁ、弟、って感じかな?や、子ども扱いしてる訳じゃないけどね?」


 なるほど、弟。たっちゃんさんが弟分を量産していないと仮定したら、まぁまぁレアな存在ではある。と、こうやって自分がどう位置付けられているか聞いて安心する感じ、引き続き怖い。


「そっか。じゃあとりあえず今のところは、バディ解消しても、仲良くする気はあるってこと?」

「えー、レオどうしたの。そんなさぁ、簡単に縁が途切れたりしないでしょ」


 それは分からない。俺は、今時点で一年以上縁が続いてる友達がいない。「バディ」というラベルを剥いだ俺たちがどうなるか見えないという気持ちは、たっちゃんさんには分からないだろう。


 でも俺もまた、たっちゃんさんの言う兄弟分というものが、どういう位置づけなのかよく分からない。どうせ怖いんだから、と、もう躊躇なく聞いた。


「たっちゃんさんはさ、兄貴的な存在みたいな人、いるの」

「えっ」


 そう言って、黙り込んだ。スッとテーブル端のメニューを引き抜く。絶対動揺している。二十八年間、それなりに世間に揉まれて来ただろうに、つくづく無垢な人だと感心した。


「いるんだね」

「まぁ、いる、うん」

「そんな動揺するようなやつなの」

「は?別に動揺してませんけど?」


 痛いとこ突かれると逆に開き直って逃げるタイプなんだなぁ、と新たな発見があった。


「そう言えばさ、本格的に関門海峡行く予定立てないとな」

 俺も、話題を変えてやるという優しさと器用さを身に付けた。

「そうだねぇ、花火大会の日程もうそろそろ出るのかな」

「それがあったな。日程出たら考えよう。ホントに行くんだよね?」


 せっかく話題を変えたのに、また、たっちゃんさんが沈黙した。さっきの、兄貴分の話と同じ種類の空気感だ。分かりやすすぎて、ちょっと申し訳ないくらいだ。ようやくたっちゃんさんが口を開いた。


「行く行く、行きますよ。だって、俺の方が行きたい歴長いからね?」

「またマウントだ」


 身体中しっかり煙で燻されて店を出た。

「ご馳走様、旨かったです」

「いえいえ。来年もまた来れるといいねぇ。俺の誕生日はカウンターのお寿司屋さんに連れてってね」

「道案内はする」


 俺は、さっき一応話題を変えてやったものの、あの動揺ぶりが気になって、少し前を歩くたっちゃんさんの背中に、もう一度揺さぶりをかけてみた。

「ねぇ、たっちゃんさんの兄貴分と、関門海峡行くの、何か関係あんの」


 たっちゃんさんが、ピタっと歩みを止めた。そして、何も言わない。

 俺は、ジワリと嫌な汗が出てくるのを感じた。


「レオ、何かあると思ってるなら、そこは踏み込まないで欲しい」


 俺に背中を向けたままそう言った。これは「プンスカ」ではない。俺は、ごめん、と言うべきだった。でも、口から出た言葉は違った。


「隠し事してる人と、一緒に旅行はできない」


 たっちゃんさんは、困ったような笑顔で振り返った。そっか、ごめんね、とだけ言った。せっかくお祝いしてもらったのに、楽しく過ごして、先の約束までしたのに、なんで俺はこうなってしまうんだ。今からでもごめんって言えよ、言えよと胸の中では渦巻くが、それが言葉になることはなかった。


 それから一週間、俺は、ルイへのたっちゃんさん通信をお休みした。ルイに心配をかけたくなかったから、はじめのうちは「最近ネタがない」と言っていた。だけど、一週間も過ぎると流石に不自然すぎる。ルイに落ち度があると思われるかもしれない、という不安もあり、電話して話した。


「こないだ、たっちゃんさんと喧嘩みたいになったというか」

 そう切り出して、かいつまんで状況を話した。

「市原君は、人にどう思われているかを、ずいぶん気にするのね」


 まさか俺に焦点が当たるとは思わなかった。でも否定できない。ことの発端は、たっちゃんさんが俺をどういう存在だと思っているか、という話だから。


「そう、かも。いやだって、俺は他人から一方的にどうにか思われることに、翻弄されてたというか、振り回されてたから」

「確かにね。ただ、たっちゃんさんとか私は、他人と言えば他人なんだけど、市原君に一方的に思いをぶつける類の関係性じゃないと思うけど。だから……安心して付き合って欲しい、と思う」


 安心。言われるまで気づかなかったけれど、俺は人と付き合う時、真っ先に不安感を抱いていた。たっちゃんさんと初めて会った時の警戒心も、度を過ぎていたと思う。

 俺は、優しく対応され、毛糸選びを手伝ってもらい、一緒に作品を作って、ようやく関係性の置き所を見つけたけれど、ばあちゃんやルイは、すぐにたっちゃんさんに心を開いていた。


「大体の場合こういうことは自然に解決するけれど、市原君は明確な答えが欲しいタイプだから、自分から『謝った、仲直りした』っていう事実を作った方がいいんじゃないかしら。たっちゃんさんはそれこそ、自然体でいれば落ち着くでしょうってタイプだし」


 冷静かつ的確な分析だ。すぐ感情的になり動揺しやすい俺に、ルイのような友人がいてよかった。

 電話を切り、アドバイスを早速実行に移そうと思った。たっちゃんさんに約束を取り付けるためのメッセージを打っていたら、逆に向こうからメッセージが届いた。


“あったかくなってきたから、ピクニックでも行かない?”


 ルイの読み通り自然体……いや、本物の自然の中に行こうとしている。でも流石にここで茶化したり意地を張ったりはしない。


“いいね。どこに行こうか”

“新宿御苑でも”

“俺行ったことないや。いい感じなの”

“広くて気持ちいいよ”


 パン屋でサンドイッチとか調達して行こうか、と話がまとまった。しかし、男二人でピクニックって。一人は全身タトゥーのオニイサン、もう一人は身分不詳の長髪少年。なかなかの取り合わせだ。でも多分、そんなこと気にしてるのって、世界で俺だけなんだよな。みんな意外と、他人のことなんか見ちゃいないんだ。


 そう思ったが、当日、二人で新宿御苑に向かう電車に乗って、たっちゃんさんはめちゃくちゃ人から見られている、ということを痛感した。

 俺もまぁまぁ見られる人生を歩んでは来たが、たっちゃんさんは比じゃない。どうしてこういう視線を気にせずに居られるんだろうと気になった。でも、騒がしく人の多い車内で話す内容ではない。二人特に話すことなく、新宿御苑前駅で降りた。


「新宿御苑前駅ってあるの、知らなかった」

 俺が言うと、たっちゃんさんは、あるんですよねぇ、とのんびり返した。新宿御苑は入場料が必要ってことすら知らなかった。

 芝生の広場は遮るものが何もなく、確かに都心で、この広さの芝生の上でピクニックしようと思ったら、入場料も必要か、と思った。


 百均で買った小さいレジャーシートに座り、コーヒーショップで買った冷めかけのホットドリンクを飲む。たっちゃんさんはラテで、俺はカフェモカ。

「レオ、コーヒー飲めるようになったんだね」

「いや、モカだから。ほぼココアだから」

 言い終えると、会話も終わる。ただただ、いい天気だと思いながら、甘い飲み物を啜っていた。


「一服しますか」

 たっちゃんさんは、人差し指と中指を口元に当てた。

「絶対ダメだろ。場所的にも年齢的にもアウトでしょ」

「だいじょうぶだいじょうぶ」


 そう言って、カバンの中から、多分これも百均で買ったであろうシャボン玉セットを取り出した。

「ほら、吸うほうじゃなくて吹くほうの一服」

「本気?」

「本気も本気。ちゃんと二本あるやつ買ったから安心して」


 安心するしないの問題なのか。しかし頑なに断るほどの事でもない。容器の形も、吹き口も、子どもの頃に遊んでいたシャボン玉そのものだった。


 俺はフーッと強めに吹き、細かいシャボン玉を連続的に生み出す。たっちゃんさんは、ゆっくり慎重に、肺全体を使っているかのように、大きなシャボン玉をひとつ育てて、そして放ってやる。


「見てあれ、すごいの出来た」

「上手いね。まぁ俺とは流派が違う」


 風下で子どもたちが三人、手を伸ばしてシャボン玉を割ろうとしている。やっと歩くことに慣れたくらいだろう小さな男の子がこけたりしないか、ハラハラしながら見守る。


 こんな天気のいい昼下がりに、レジャーシート広げてシャボン玉飛ばして、俺ら何やってんだろう。たっちゃんさんは何がしたくてここに来たんだろう。


「俺、小さい頃ちょっと言葉遅かったらしいのね。だからよく、施設の先生とシャボン玉遊びしてたんだ。口が上手く動くようになる、とかって」

 懐かしむようにたっちゃんさんが言う。ややあって、また言葉を続けた。

「話したいこと、話しやすくなるかと思ってさ」


 別に、子ども扱いしてる訳じゃないからね!と慌てて付け加えた。俺がいつも拗ねたり突っかかるから、こんな気を回させてるんだなと改めて思う。

 青空の下、シャボン玉に包まれた後、意地を張ることなんてできない。ちゃんと、順番に、俺の気持ちを解きながら伝えなくちゃ、と思って口を開いた。


「こないだ、ごめんね。たっちゃんさんが触れられたくないのかもって、ちょっと分かってたのに」

「いやいや、気を使わせてごめんね。大人なのに、感情的になっちゃってさぁ。ダメだなぁ俺はって、思ったよ」

「大人とか、子供とか、線引かないでよ」


 せっかくお互い謝ったのに、刺々しく思われそうな言い方になってしまった。でももう、同じような失敗にしたくない。


「その、友達でしょ。弟みたいって思ってるだろうけど、年齢関係なくさ、嫌な思いさせたくないのは同じだよ」

 大丈夫、伝わってるよ、と、たっちゃんさんが微笑む。


 電車の中で気になっていたことを聞いてみたい、と思った。これは多分、カマかけとか、たっちゃんさんの領域に踏み込んでるとかではないはずだ。

「たっちゃんさんはさ、人にどう見られるとか、どう思われるかとか、気にならないの」

「あぁ、今はそうでもない、かも」

「今は?」

「うん、まぁ、ひとつはやっぱり、彫り師になってこんだけタトゥー入れたらさ、見られるよね」

 自覚はしていたのか。

「でも、それはさ、俺自身っていうより俺の見た目の問題だから。身長とかもね。だから、俺の思いとはちょっと違う部分でジャッジされてる訳で、あんまり自分事感が無くて。それが逆に楽なんだよねぇ」

「……そういう時さ、俺はその人との付き合いを諦めちゃうんだけど、たっちゃんさんはそうじゃない、んだね」

「うん、それでも後々仲良くなる時もあることが、経験的に分かってるからね」


 しばらく黙った後、俺をじっと見て言った。

「そう、経験しないと分からなかったよ。だから今のレオが、そうやって割り切れないのは、仕方ないことなんだからね」

 俺が思ってることはほとんど見透かされているのだ、この人には。


「人にどう見られるか気にならない、もうひとつの理由は……」

 たっちゃんさんに、躊躇の色が見える。

「俺が、自分のことを『こういう奴だ』と、はっきり思っているからかもしれないね」

「どういう奴なの」

 一度大きく息を吐き、たっちゃんさんが言った。


「人を、死なせた奴」





 ちょっと長くなるかもしんないから、レオ、トイレ行っといたほうがいいよ。

 大丈夫?えじゃあ俺行ってもいい?ゴメン、ちょっと待ってて。

 ……お待たせ、ゴメンね、話始める感じだったのに。どこから、話そうかな。

 俺はね、ずっと施設に居たんだよ。児童養護施設。いわゆる「物心ついたときから」ってやつ。そこはキリスト教系でね、ご飯の前にお祈りすんの。「父と子と聖霊のみ名によって。アーメン」。別に信仰心はないけど、今でもたまに一人の時とかに、何となくやっちゃうね。

 子どもの頃時々、お祈りするふりして、心の中で「お願い」をしてた。「誰かがお腹いっぱいになって、唐揚げ一つ残って、それが俺に回ってきますように」とか、「明日雨になって、体育の時間は体育館でドッヂボールになりますように」とか。結構叶うんだよ、これが。叶わなかったら、「あーまだお祈りポイント足りてなかったなぁ」って。お祈りでポイント貯めて、ある程度ポイント貯まったらお願い事と交換できるって思ってたの。

 中学生の頃、俺はしばらくポイントを貯めて、ひとつ大きい願い事をした。ああいう施設って、小さい子の方が多いんだ。上の学年になるほど、家の問題が片付いたり、親戚が引き取ったりして出ていく。だから、上の学年の子たちあんまりいなくなっちゃって。特に男子が居なかったから、寂しくてさ。

「お兄ちゃんがやって来ますように」

って、お願いした。そしたら、しばらくして、本当にお兄ちゃんがやって来たんだ。施設の子供たちと遊んだり、勉強を教えるボランティアの人達が、定期的に来るんだよ。お兄ちゃんはその中に居た。

 それが、あの、卒業式の写真の人。カズマさん、一匹の馬……じゃなくて、馬は一頭か。一頭の馬で一馬さん。大学、一年生、だったのか。

 一馬さんは、

「俺、かっちゃんって呼ばれてるんだよ。佐藤君はタツミだからたっちゃんだなぁ。タッチみたいだね」

って言ってた。レオの世代タッチって……え、分かるんだ!さすが、名作ー。俺は、ずっと「佐藤君」か「タツミ君」か「タツミさん」だから、あだ名付けられるの初めてで、すごい嬉しかった。しかも、お兄ちゃんみたいな、かっちゃんとセットのあだ名で。

 まあ、お兄ちゃんっつっても俺と背丈同じくらいだし、なんかポヤポヤしてお坊ちゃんぽくて、あんまりお兄ちゃん感はなかったけど。世間知らずな感じの人だった。門司から進学のために上京してきた人でね、東京で生まれ育った人とはちょっと違ったおおらかさがあったのかもしれない。そう、俺はね、関門海峡の下関側じゃなくて、門司側に行きたいんだ。

 かっちゃんは、週一回夕方に来て、俺とか、小学校高学年の子たちに勉強を教えてくれてた。いや、教えてくれてたっつーか、まず学習机に向かわせるだけで四〇分、ノート開かせるまでに一〇分、ちょっと書いたらタイムアウト、みたいな感じだった。俺と、同室の奴らは、かっちゃんに構って欲しいし、かっちゃんをいじりたいだけだったから。「かっちゃん彼女いんのぉ」とか、「お尻と胸ならどっち派?」とか。

 レオめっちゃ嫌そうな顔したね。まぁそうだよね、嫌なガキだったと思うよ。今はこんなことしないよ?あ、うん当たり前、そう当たり前なんだけどさ。

 でもかっちゃんは、こんな嫌なガキどもをハイハイって適当にあしらいながら、毎週必ず来てくれた。そんで、毎週学習机に向かわせるところから始めて。なんであんなに優しいって言うか、我慢強かったんだろうね。今でも分からない。

「たっちゃん字もっとちゃんと書け。字綺麗だったら、内容微妙でも、いいこと書いてある感じになるから」

とか、

「頭ん中で考えないで、ちゃんと途中式書け。自分も分かりやすいし、先生にも、こいつここまでは分かってるなって伝わるから」

とか教えてくれて。未だにそれは気をつけてる。計算とかはもうしないけど、考え事する時は、紙とペン用意して、ちょっとずつ考えを書きながら進めたり。

 俺の勝手な感覚だけど、かっちゃんは特に俺のことを気にかけてくれてた、と思う。

きっかけはよく分かんないけど、中三の夏頃かな。俺が当時付き合ってた彼女と別れた話をかっちゃんにしたんだ。

「別れちゃったー、何か俺の友達のこと好きんなっちゃったんだって」

 って。そしたらかっちゃんすごいびっくりしてた。何でそんなあっさりしてんだよ、って。

「まー、ややこしくなる前に自分から言ってくれて良かったんじゃん?」

って答えたら、

「たっちゃんは大人だな、すごいな」

って。そっから、結構対等に話するようになった気がする。まぁ、二人とも今の俺からすれば子どもだけどさ。

 かっちゃんは、大学一年の時に出来た彼女とずっと付き合ってたんだけど、結構めんどくさそうな人だった。飲み会とか行く度に、写真撮らせるんだって。浮気してないか証拠写真、みたいな。え?……まぁ、そこまで悪くは言わないでよ。そういう付き合い方してるかっちゃんからしたら、俺がアッサリ彼女と別れたのは、大人びてる風に見えたのかもしれないね。

 お小遣いの中から雑誌とか漫画とか買えたから、これ面白いんだよとか、このアーティスト好きなんだよ、みたいな話して。

「たっちゃん、英語出来たら海外アーティスト来た時通訳できるぞ、頑張れ」

「絵が上手いから、いっぱい練習して漫画家とかイラストレーターなれ」

 って、夢みたいなこと焚き付けて。俺赤点スレスレだったのにねぇ。目先の勉強はだるいけど、それを積み重ねたら、夢みたいな将来につながるかもよって言いたかったのかな。

 大学院に進学してたかっちゃんは、俺が高校を卒業するタイミングで、施設への訪問を終えることになった。最後に施設に来た時、かっちゃんは先生に、俺が通ってた定時制高校の卒業式の日程を聞いてた。そして、卒業式当日、保護者席にいる施設の先生の隣、スーツ着たかっちゃんが居た。先生に最後だからって頼み込んで出席してくれたんだって。照れ臭いけど、嬉しかったよ。

 その時に撮ったのが、部屋に飾ってたあの写真。撮る前にかっちゃんに聞いたんだ。

「彼女、この写真もチェックしたがるかな」

って。かっちゃんはわかんないって言ってたけど、俺は彼女が見た時のために、あっかんベーしてやった。

 高校卒業してすぐ、俺はタトゥーの師匠に弟子入りした。海外アーティストのタトゥーの写真見て憧れてたし、頭良くないから、手に職付けて生きていきたいって思ったの。でもそれ一本じゃ食べていけないから、別のバイトもして。すごい忙しいけど、ちゃんと前に進んでるぞって感覚があって、やっとこれから俺の人生が開けていく、って思ってた。

 かっちゃんとも連絡先交換して、普通の友達みたいにご飯食べに行ったりできるようになった。かっちゃんは忙しいから、たまにだったけどね。かっちゃんは、大学院で建築の勉強をしてたんだよ。大学院って勉強って言うのかな?まあいいんだけど。だから、デザインとか絵に強い人だったんだ。それこそ、絵見せあって、アドバイス貰ったりしてた。一緒に美術館行ったりとかね。俺とはだいぶ趣味が違って、絵を描く時も見る時も、すごく、たくさんの色を使う絵が好きだった。穏やかで真面目な人なんだけど、びっくりするくらい鮮やかな色使いの絵を描く。そういう所が新鮮で面白かったし、かっちゃんの絵を見るのが好きだった。

 ご飯食べに行く度に、かっちゃんは相変わらず彼女に見せる用の写真を撮るから、俺はかっちゃんと写真撮る時はあっかんベー代わりに舌を出すのが癖になってた。「安心してんじゃねぇよ」って。

 俺は、十九歳の時だったかな。初めて行った美容室で、美容師さんに携帯の番号渡されて。ナンパ?逆ナン?みたいなやつ。それで、ちょっと年上の、それこそかっちゃんと同い年くらいの人と付き合ったんだ。その人は美容師さんで、大人として色々教えてくれたよ。まぁ普通に浮気されてっていうか、俺が浮気相手だったのかもしれないけど、半年ちょっとで振られちゃった。

 かっちゃんから、箱根の美術館に行こうよって誘われたとき、俺は「レンタカーで連れてってあげる」って言ったの。施設にいる間に免許取ってたんだよ。多分今もそうだけど、児童養護施設に住んでる子供向けに、免許の費用出してくれる会社とかあって。奨学金みたいな感じで。俺もその制度使って取れたの。車校でも結構上手かったし、まぁ大丈夫だろ、って思って。

 一緒に展示見て。かっちゃん真剣な顔してんなぁって、眺めて。それから、高速代節約したいから、下道で、途中晩飯食べようって言って飯屋に入った。

 飯食いながら、今働いてる店こんな感じだよーって、写真見せたの。そん時、俺はスマホかっちゃん側に向けて上下逆から見てるからさ、思ってるのと逆方向にスワイプしてしまった。

画面に表示されたのは、例の、美容師の恋人が、俺を後ろからハグしてる写真。それはどう見ても友達の距離感じゃないし、恋人も「ボーイッシュな女性」とは言えないくらい、しっかりと、男の人だった。頭の中が真っ白になったね。かっちゃんには、一生言わないか、反応とかタイミング伺って、言ってプラスになりそうな時にだけ言おう、と思ってたから。

 一瞬間が開いたけど、かっちゃんが

「彼氏?めっちゃかっこいいな!」

 って言ってくれた。俺は、

「やめて、元彼だよ、こないだ振られたんだよー」

 つって。かっちゃんは、

「マジかごめんごめん、でも俺もこないだ振られたんだ、あの彼女に。好きな人出来たんだって。あんな束縛しといてさぁ。振られ者同士だな」

 とか言ってくれて。かっちゃんはすごいなぁと思った。

 そろそろ行きますかって言って、また車に乗り込んだ。かっちゃんは免許持ってないし、ずっと俺の運転で。

 俺は、急なカミングアウトで気が大きくなってたのか、ヤケクソになってたのか、よく分からないけど。運転しながら、かつての慎重さを忘れて言ってしまった。

「かっちゃん、俺は束縛もしないし、浮気もしないよ」

 って。この言葉だけ切り取ったら、宣言とか自己紹介だけど、前後の流れと状況考えたらさ、やっぱ違うよね。めちゃくちゃ真面目なトーンで言っちゃったしさ。

 そしたら、かっちゃんは、そっかぁ、って。そっかぁって言った後、

「俺はね、小柄な人が好きなんだよね」

って。上手いよね。笑っちゃった。頭いいだけあるわ、かっちゃんは。まぁ振られたんだけど、俺が男だからとかそういうこと言わずに、普通に振ってくれた。そういう優しくて、聡明なところが好きなんだな、って思った。

「そっか、それは無理だなぁ俺じゃ」

 って言って笑ってたら、全然気まずい空気にもなんなかった。

 俺は、怖かったんだ。もうこれまでみたいな、兄弟のような関係に戻れなくなるんじゃないかって。でも、かっちゃんのおかげで何とか取り繕えた。これからも、普通の友達みたいに飯食ったり、絵のこと教えてもらったりできるかなって思って、信号待ちの時、助手席のかっちゃんを見た。

 ブレーキランプの赤色に照らされたかっちゃんの顔は、はっきり、怯えてた。少なくとも、俺にはそう見えた。

 そりゃそうだ。車の中っていう密閉空間でさ、自分よりずっと体格いい男がハンドル握ってて、急に告白めいた事言ってきて。全然恋愛対象じゃないのに。こいつこれからちゃんと家まで送り届けてくれるんだろうか、って、怖くなるよね。今ならそれが分かる。

 でもその時は、「俺って全然信用されてないんだ」とか、「やっぱり前みたいな関係には戻れないんだ」とか、「何であんなこと言っちゃったんだ」とか、色んな気持ちがごちゃごちゃになった。悔しい、悲しい、ムカつく、あと絶望。全部の嫌な感情が一気に来た。俺は久々に神様にお願いした。

「神様、全部なかったことにしてください」

って。全部って、どこからどこまでか分からないけれど。ほんの数分前からか、元彼の写真を見せた時からか、かっちゃんを好きになった日からか、あるいは、出会った時からか。

 その場では、何も起きなかったよ。俺は、近くの駅で解散しよう、って言った。かっちゃんは静かに、そうだね、って言った。駅の三百メートルくらい手前のコンビニで下ろして、じゃあね、と言った時、俺はかっちゃんの顔を見れなかった。悲しそうな顔をしていたのか、それともホッとしていたのか。

 俺からかっちゃんに連絡は出来なかった。このまま距離を置いて、会わなくなったほうがいいだろう、かっちゃんもそれを望んでいるだろうって。それでもやっぱり、好きでなくなった訳じゃない。知りたかった、どう生きているのかを。だから、かっちゃんの大学とか研究室のホームページをチェックしていた。ホント、気持ち悪いよね……そうかな。ありがと、気を遣ってくれて。

 駅前で別れてから三ヶ月経った頃、大学のホームページに、かっちゃんの名前が載った。学内のコンテストで受賞したんだね。流石にこれは、お祝いのメッセージくらい送っても許されるんじゃないかと思って、送ってみた。結果的に、ずっと未読のままで、当然返信もなくて、ああ本当に俺との縁は切ったのか、って思った。

 俺が直接祝えないならせめて、かっちゃんが祝福されているところを確認したくて、繋がってもいないかっちゃんのFacebookを見た。いや、これは本当に気持ち悪いと思う。気持ち悪いと思うから、絶対しないようにしてたけど、その時は見たくなった。

 なんかちょっとおかしいな、と思った。色んな人がかっちゃんにコメントを送っているんだけど、すごくしんみりとしているというか。「もっと早くに受賞したかったよね」みたいな。そして、決定的な一言を見つけた。「生きていたら、お祝いに飲みに行きたかったな」って。

 生きていたら。つまり、かっちゃんは生きていないってことだ。震える手で、Facebookをもっと遡ったら、しんみりした、悼むメッセージは、三ヶ月前から書かれてた。どうして亡くなったんだろう。せめてそれだけでも知りたかった。「こんなに急に」「相手が憎い」「奪われた」。これは、事故か事件だと思った。

 知ってどうするんだ、知ったところでかっちゃんは戻ってこない。でも、手が止まらなかった。かっちゃんの名前でWeb検索したら、あの日下ろした駅周辺で、歩道に乗り上げた自動車と二十代男性の衝突事故の記事がヒットした。その男性の名前はもう、言わなくても分かるでしょ。

 あの日、俺がちゃんと家まで送り届けてたら。どんなに車内が重苦しくても。そもそも、変な告白しなかったら。俺のせいで、かっちゃんは死んだ。

……いや、やっぱりあれは、俺が死なせたとしか思えないんだ。ごめんね。

 神様はあの日の告白だけじゃなくて、かっちゃんまで、「なかったこと」にした。俺は、毎日頑張ってたぶん、思った以上にお祈りポイント貯めちゃってたんだね。

 事故を知って一週間は、俺はろくに食事してなかった。家に帰れば涙が勝手に出る。でも、生きてる。心の中でどんなに詫びても後悔して苦しんでも、俺は情けなくも生きて、仕事を出来ている。一ヶ月経って、俺は、普通に食事をしていた。やっぱり、ちゃんと食べないと仕事にならない。何よりお腹は空くからさ。夜眠れないけれど、食べることを手放せなかった。涙が出る回数が減っていく。俺は、悲しみが薄れていた。そういう自分は、最低だと思った。

 だから、きちんと自分に、かっちゃんの記憶を刻みたくて、休みの日に事故現場に行ったんだ。人がまばらな駅前の、花が手向けられた事故現場の近くには、ハトの群れが居た。その中に一羽だけ、真っ白なハトが居た。何かそれが、色白なかっちゃんのように見えたんだ。

 その日からしばらくして、兄弟子に彫ってもらった。「利き腕だから、慎重にモチーフ選んで彫ってもらおう」と思って、空けておいた左腕に、かっちゃんの墓標を立てた。一生俺がかっちゃんを、自分の罪を忘れることがないように、って思ったんだ。それが、この白い鳥さん。

 レオの部屋でガイドブック見て、一瞬頭が真っ白になった。俺が持っている本と同じシリーズ、だけど、俺の方とは違って、まっさらの、門司のガイドブック。この九年間、かっちゃんの生まれ故郷に、門司にこの鳥さんを連れていきたい、と思って、何度もあのガイドブックを開いた。結構具体的に検討したりもしてたんだ。でもどうしても行けなかった。

 それとさ、レオが編みたいって言った、カラフルなフェアアイル。あの色使いも、なんだかかっちゃんを思い出しちゃって。

 俺はね、レオに申し訳ないけれど、この子となら、門司に行けるのかもしれないと思った。逆に、ここで行かなかったら、一生行けないかもしれないって。

 だから、お願い、俺と一緒に、関門海峡に行ってくれない?ちゃんと、楽しませるから。現地で突然号泣したりしないから。





「いや、別にいいよ、号泣したって」


 俺は本心からそう言った。たっちゃんさんが号泣したら俺はどうするべきとか、ちゃんと見えてないけど、でも単にそれは俺の度量の問題だ。


「嫌だよ、普通に楽しく旅行しようよー。俺、涙耐性つけて行くから」

「無理すんの身体に良くないよ」


 俺たちはしばらく沈黙していた。

 沈黙から一分。俺は、美結との一件を思い出していた。あの件にまつわる嫌悪感や、太腿に乗せられた手の感触を。それは、たっちゃんさんの一馬さんへの告白を否定するものではないだろうかと思うと、「あんなの大したことない」と結論づけたい。でも、そんなことは出来ないほど、俺の中では大きく、苦しい記憶だった。


 沈黙から二分。俺はその嫌悪感を分解することを試みた。それは、意図せず恋愛感情を向けられた時の戸惑いと、あからさまに性的に見られる触れられる恐怖と、そして「男子高校生なら異性に性的な欲求を持つべき」という社会通念への怒り。


 沈黙から三分。たっちゃんさんが一馬さんに与えたものは、多く見積っても「意図せず恋愛感情を向けられた時の戸惑い」だけだ、と思った。俺はやはり、たっちゃんさんは、自分自身に責められるべきでは無いし、自分自身を責め続けるべきでは無いと思った。


 沈黙から四分。だが、俺がそう言ったところで、彼の心には浸透していかないだろう。たっちゃんさんは、俺がほんの少しだけ彼の心の表面を潤したことに「ありがとねぇ」と言うかもしれないが、多分それ止まりだ。


 五分経った。結局何も出来ない俺は、腹減ったから食べようぜ、と言って、ハードパンのサンドイッチを袋から取り出した。


「うめぇな」

「美味しいね、パンが良いよね、しっかりしてて」

「そっち何だっけ」

「えっとぉ、生ハムとクリームチーズとドライトマト」

「間違いないやつじゃん。俺は、オイルサーディンとオリーブとマッシュポテト」


 たっちゃんさん、うまいもの食ってうまいと思うのは、俺たちに許された幸せなんだよ。心の中でそう言った。


 食事が普通にできる。でもそれをもって、たっちゃんさんが完全に立ち直ったとは言えない。むしろ、自分の「罪」とやらが、しっかりと心に馴染んでしまって、引き剥がせなくなっているのだろう。あのタトゥーのように。


 たっちゃんさんは、一馬さんが怯えていたと言った。でも、俺はそうは思わない。俺は数ヶ月しかたっちゃんさんと一緒に居ないけれど、それでも、彼が振られた相手に強引に関係を迫ったり、腹いせに手を上げたり、そんなことをする人じゃないことは十分分かっている。思春期からたっちゃんさんの成長を見守った一馬さんになら、尚更それが分かるだろう。


 俺はもう一度、シャボン玉を吹いた。まだサンドイッチが残っているのに。大小二つくっついているシャボン玉が、風に吹かれて心もとなく飛んでいる。そのシャボン玉が消える前に言った。


「さっさと宿、予約しよう」

「えっ」

「あの花火大会、毎年あるんでしょ。どうせ日程予想つくし、外したらキャンセルして予約取り直せばいい。それより、早く予約しないと絶対宿埋まるよ」

 あ、うん、そうだね、とたっちゃんさんが戸惑っている。

「俺と、行きたいんだろ。自分で言ったじゃん。行くぞ」


 そこまで言って、俺は、さっさと予約サイトを開くためにサンドイッチに大口開けて齧り付いた。


 幸い、関門橋がよく見える、海のそばの高台にあるコテージを二泊予約出来た。古民家を改装した一棟立ての宿で、そう高くはないのに、台所もシャワー室もあり、立派なベッドルームもある。これ以上の宿はもうないだろ、とさっさと決めた。


 いや、さっさと決める直前まで、たっちゃんさんは数千円高い、二ベッドルームの棟の方がいいんじゃないか、と言っていた。

「なんで」

 うーん……と言ってしばらく黙ったあと、


「レオは、俺が怖くないの?」

 と、ぽつりと言った。


「何言ってんだよ。俺の部屋で遅くまでフェアアイル会議して、たっちゃんさんの部屋に泊まっただろ」

「その時は、レオは知らないじゃん、俺が」


「知ったからって、たっちゃんさんが何か変わるのか。十分前と同じ脳みそのたっちゃんさんだろ、あんたは」


 一回り上のオニイサンにあんたって言っちゃったなぁ、と思って

「あんたってのは違うね!ゴメンね!」

 と大声を出し、たっちゃんさんが怯んだスキをついて予約確定ボタンを押した。


「お、おぉ……レオ、今日の行動力すごいね……あ、でも、中野ブロードウェイ行ったときも、お母さんに俺の部屋来る来ないの話する時も、いきなり決めて実行したもんなぁ」

 たっちゃんさんが可笑しそうに俺を見た。

 もうたっちゃんさんを足踏みさせたくないし、そんな姿を見ているのはじれったい。


「レオは、なんか、俺を連れていく力があるね」

「そうかね」

「あのさ、前に俺の店で約束したこと、いつかお願い、って言ったこと、覚えてる?」

 全然覚えていない。何の話だろうか。

「その顔は全然覚えてない顔だね?レオに、俺のタトゥーの図案描いてって、言ったよね」


 あの日感じた、目の奥の強い光を思い出す。たっちゃんさんはもう笑っていない。


「描いてくれ、この鳥の上に。旅行して感じたことを、図案にして欲しい。関門海峡に行ったという証を、残して欲しいんだ」


 あの白い鳥がどんなものか聞かされて、そこに重ねて何か描ける人って、居るだろうか。でも、そもそも、あの話を聞かせてもらえて、図案を請われる人は、俺以外に居ないだろう。何故かそう確信していた。俺の図案が、たっちゃんさんの後悔を拭う手掛かりになるのだとしたら、断りたくなかった。


 どんな図案でも受け取ってくれるなら、という条件で引き受けた。


「九月から、フリーター生活も終わりなんだね。関門海峡は、卒業旅行ってことだねぇ」

「うん。……いや、卒業旅行だけじゃない。ご褒美旅行にしよう」

「ご褒美?何の?」

「フェアアイルの、完成の」


 たっちゃんさんに図案を授けたいのなら、そしてその図案で彼を救いたいのなら、俺は、フェアアイルを完成させなければいけない。完成させて、「バディとして助けてもらっている俺」に区切りを付け、新しい関係になりたいと思った。

 兄弟なのか、友達なのかは分からないけれど、俺は、門司にたっちゃんさんを連れていき、その証を授けるにふさわしい存在にならなきゃいけないんだ。

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