第3話 目玉




 バイトを初めて三ヶ月ちょっと経ち、季節の限定商品は、しっかりと焼き込んだリンゴのタルト・タタンから、苺のタルトに変わった。人気商品だし、たくさんは作らないから、昼過ぎには売り切れてしまう。


「あ、アケミさん、いらっしゃいませ」

「おはようレオ君、いらっしゃいませなんて堅苦しいわよぉ」

「すいません、おはようございます。今日、苺のタルトありますよ」

「あらっ、好きなのよ覚えててくれたの?嬉しいわねぇ。今ね、こんな苺色のセーター編んでるのよ」

 手から下げたバッグに入った、編みかけのセーターを取り出す。

「長女のとこの孫の、ヒナちゃんにと思ってね。うちの娘、子供に渋い色とか白黒ばっかり着せたがるのよぉ。たまにはこういうかわいい色も着せてあげないと、って」

「そうですか。喜んでもらえるといいですね」


 俺にしてはずいぶん長い会話をするようになった。まぁそれは俺だけの力じゃない。明るくおおらかで、話好きなアケミさんのおかげだ。

 アケミさんは、中学生の頃から編み物を続けているらしく、もう俺が助けたり教えることなんてないような手練れだ。


 しかし、おおらかな性格ゆえに、トラブル対応もかなりおおらかというか、おおざっぱではある。

「あらー、五段前から編み目一つ抜けちゃってたわぁ。ま、いいわね、ここから一目増やしましょ」


 俺には考えられない。俺は怠惰なくせに妙に完璧主義だから、こういう「数段前のミスが発覚する」という事態が起きれば、迷うことなく解いてやり直す。その方が断然すっきりするから。編み物には性格が出る、とつくづく思う


 フェアアイルを編んでいるときもそうだ。目が細かく、色を間違えれば取り返すのに相当時間がかかる。どれだけ手がノッてても、三段まででぐっと堪える。そして、閉店後のたっちゃんさんの店に持って行ってチェックしてもらう。

「レオ、残念なお知らせ」

「だーっ!」

 ミスがあるとテーブルに突っ伏すほど悔しいけど、潔く解きなおせば、これまでよりもっと完成度の高いものが出来上がる、という喜びと爽快感がある。ゆっくりとした歩みで、少しずつ編んでいった。


 ある日の夕方、たっちゃんさんから、スマホにメッセージが届いた。


“レオさん、ご指名ですよ”

“え、何”

“リサさんのタトゥーの投稿見た人が、こんなふうに彫って欲しい、って問い合わせしてくれたよ。俺だけじゃたぶん厳しいから、レオもまた協力してくれない?”


 もちろん、と即答したいが、一瞬迷った。たっちゃんさんの仕事に、素人の俺が手や口を出しすぎるのはどうなんだろうか、と。でも、求めてきたのはたっちゃんさんだからと思い、


“いいよ、別に”


と返した。

 後日たっちゃんさんが店に来て

「おばーちゃん、ちょっとレオに話したいんだけど、いいかな?」

 と言った。

「あら、寒いでしょう、入って入って」

「いや、ちょっと、外で」

 普段と様子が違う。店の前のベンチに腰掛ける。二人とも、軽めのダウンを羽織っただけだが、冬とは言え暖かい日差しの中では十分だった。たっちゃんさんが切り出した。


「こないだ言ってた、レオに手伝って欲しいお客さんの件なんだけどさぁ」

 何だか歯切れが悪い。

「タトゥー入れる箇所がね、胸なんだよ。女性の胸。胸元だけじゃなくて、バスト全体をぐるっと囲むような形でってオーダーなの」

「あー……」

「ティーンの男子の前でさ、本人を前にして、胸の話をするって、やっぱあんまり良くないと思うわけ。だからまぁ、カウンセリングは俺がして、レオに後から意見があれば出してもらうみたいな」


「いや、俺も同席したい」

「え」


 突然口から出た言葉に、俺自身もちょっとだけ驚いた。メッセージで打診を受けた時の躊躇が消え去り、代わりに意地に近いような強固な意志がやってきた。


「俺も同席するから」

「断言するじゃん……俺まだ検討段階だったよ?てか消極的だったけど話聞いてた?」

「デザイン料までもらった時点で、あれは仕事だったんでしょ。俺の仕事を見て、それと同等のものをと求められているなら、責任持って関わりたい。たっちゃんさんからの伝言だけで、お客さんの意向を汲み取れるほど俺は器用じゃない」


 たっちゃんさんは、えでも教育上……俺も大人として責任が……とモゴモゴ言っている。どうしよう、言うべきか、と迷ったが、「無い」ことは決して恥ずかしいことではない、と思って、言った。


「たっちゃんさん、俺は、目の前の女性の胸を見て、興奮したことがない」


 五秒くらいの沈黙のあとたっちゃんさんが

「そうなんだ……」

 とだけ言った。

 言葉足らずだったかもしれない。たっちゃんさんなら、別にもう少し詳しく言っても大丈夫か、と思った。


「この女子の身体に触りたいとか、思った事がない。かといって、男子の身体を目の当たりにしたところで、同じく何も感じない。だから、腕や脚にタトゥーを彫りに来た人と同じ感覚で接すると思う。まぁ、そうだっていう証明はできないけど」

「いや、証明なんていらないよ」


 たっちゃんさんが、いつになく真剣な顔をしている。少し安心して、俺は続けた。


「俺はさ、自分が関わった仕事を、最後まで見届けたいんだ。でも、もし目の前で、何と言うか……セクシーな話になって行ったら、俺はすごく、気持ち悪いと感じる、と思う」

「いやいやそれはレオがどうとかじゃなく良くないでしょ。お客さんも、病院行くのと同じ感じですって言ってくれてるし、絶対そんな雰囲気にはしないから」


 小学校高学年になり、周りが少しずつ異性に興味を持ち始める中、俺は、たまに誰かがこっそり持ち込む雑誌のグラビアを見て、騒ぐ友人たちと自分との温度差に気付いた。クラスの女子を好きになったことすらなかったから。

 案の定、中学生になったら周囲との温度差はどんどん開いていった。レオはノリ悪ぃな、と言われることもあり、必死で話を合わせた。そうする自分や、自分が発する言葉に対する嫌悪感がどんどん強くなっていった。

 合わせきれず、周りが俺を「レオってアレなんじゃん」と言っている気配を感じ始めた。


 一方で、体育の後や修学旅行の大浴場で、同級生の半裸や全裸を見ても、俺は何も感じなかった。俺にとっては、女子のシャンプーの匂いはただのフローラルの香りに過ぎず、男子の汗の匂いは普通に汗臭いだけだ。


「うーん、でも性的な感じじゃないとは言え、青少年の前で胸の話するってやっぱどうなんだろ。ねえ、おばーちゃんに一言言っといたほうが」

「絶対やめて、マジでやめて。たっちゃんさん、自分の身内に『来週のいついつ、この子の前でおっぱいの話します』とか言われたいか?」

「あ、えっと、俺身内ってか家族居ないから分かんない感覚だけど、うーん、おばーちゃんに言われるのはなんか嫌かも?」


 瞬間、言葉を失ってしまった。たっちゃんさんの愛嬌や人懐っこさは、おばあちゃん子だからかなとか、家族に愛されて育ったからかなとか勝手に思っていた。


「……そうなんだ。えと、まぁ俺は、すごい恥ずかしいから、絶対やめて」

「分かった、じゃあおばーちゃんには言わないね。ていうか、カウンセリングで話するだけだしね、モロに見せる訳じゃないし、仕事の話だし、レオが問題ないならいっか」

「いいよ、いい。めんどくさいし。なんでもかんでもばあちゃんに報告することないでしょ」

「うーん、いやでもなぁ」

「しつけぇな、当日押しかけるぞ」

 冬の青空の下、俺たちは流れで、微妙にオープンにしづらい身の上話をすることになった。


 そのお客さんは、ユイナさんと言った。姫カットって言うんだろうか。顔周りの髪が頬辺りでぱつっと切られていて、それ以外はかなり長めの、ワンカールのロングヘア。ベースの髪色は暗めで、裾だけ青い色に染めてある、そのグラデーションは深海のように美しいと思った。


「どーも、よろしくお願いします。たっちゃんって呼んで下さい。えっと、胸元とバストの周りに、ぐるりと彫りたくて、メインは胸元、と言うかバストの上側に目を、ということですけど。イメージ固まってらっしゃいます?」

「実は、そんなに固まってなくて。あの、魚たちのタトゥーがすごく可愛かったから、それ考えた人に一緒に考えて欲しいなって」

「目、って言うのは何か意図があってですか?」

「はい、あの、あたし、自分の胸が嫌いで。大きいのが嫌で。ジロジロ見られるんです、街中とか電車の中で。だから、見られるなら睨み返してやりたいなって」


「なるほどぉ、じゃあまさに『目ヂカラ』ってやつがあったほうがいいですね」

「ですね。だから、この前の金魚ちゃんは可愛いけど、あそこまで可愛いと睨みが効かないから、ちょっと違う系統で」


「よくあるのは、こういう、肌に目がもう一つ増えたみたいな……」

 たっちゃんさんが、図案のカタログを開き、「リアルな『三つ目がとおる』」って感じの、第三の目のような図案を指した。

「あー……なんかもっと、見てテンション上がる、ちょっと怖いけど可愛い、みたいなのがいいです」


 なかなか難しい。もう少し深堀りして聞きたいと思ったので、たっちゃんさんの方を向いた。また、優しい目で「どうぞ」と言ってくれたので、遠慮なく聞いた。


「第三の目っぽい感じじゃないってことなら、あの、『目玉おやじ』みたいな独立した存在はどうですか?」

「その二択だったら、目玉おやじ系かなぁ。マスコット?妖精?みたいな。睨み効かせて胸守ってくれる存在、みたいな」

「目玉の妖精か……じゃあ、目玉おやじみたいに、眼球に身体が付いてるけど、髪生えててヘアスタイル可愛かったり、とかってどうですか?それこそ、ユイナさんみたいに」

「髪型お揃いか!嬉しいかもー。まぁ衝動的にボブとかショートにするかもしれないけど、ロングの時期の思い出にはなるし」


 あ、それなら、とたっちゃんさんが口を開き、紙に鉛筆で正円を描いた。そして、その正円の上に眼球サイズの丸を描き、大きな正円の円周三分の二くらいを、ゆるくカーブを描いた線で囲んだ。


「こんな感じで、ロングヘアで胸囲うとか。所々にお花足したりして」

 髪の毛に花を挿していく。まるで、花畑に座って遊ぶ少女のように可愛らしく、まさに妖精だった。

「かわいー!これがいいー!!」

「背景にお花足したり、ちょうちょ飛ばしたりも良いかも」

「あ、お願いします、盛り盛りで!」

「後ろのカールの具合はこんな感じですかね。前髪巻きます?」

 もう、美容室みたいだ。


 最終的に、長い髪で身体を隠した目玉が胸の上に横座りし、さらに目玉のロングヘアが胸の外周を包み、髪の毛の間や背景に花と蝶がたくさん描かれている、という図案になった。


「わーめっちゃいい、超かわいい。しかもちょっとグロい。目指してた感じです」

「よかったぁ。これ綺麗に描いて、メールでお送りしますね。次回の予約いつにしましょうか」


 今回はロケをすることもなく、スムーズにまとまった。俺が口出しした量も少なく、もちろんセクシーな雰囲気になることも全くなかった。たっちゃんさんのラフをもとに、俺が清書することになった。


 帰宅してから、部屋で、ユイナさんの言葉を反芻していた。「大きい胸をジロジロ見られるのが嫌」。俺は、勝手に共感した。他者からの望まない性的な視線の気持ち悪さ。そこに共感した。


 高校に入学して割とすぐ、俺にしては珍しく、かなり仲のいい友達が出来た。その子は美結という同じ美術部の女子で、俺と同じくらいアニメが好きだった。

 美結は、生活態度が良く成績優秀で、模範的生徒というやつだった。課題も予習復習も適当で、毎日毎週深夜アニメばっかり見てた俺と同等に、アニメを観る時間をしっかり確保出来ているのが不思議だった。

 俺たちは「今期はあの作品が気になる」とか話したり、時に同じ番組を観ながらスマホでメッセージを送り合い、「実況」するくらいの仲だった。男女含めて、今までで一番仲の良く、日常的に笑い話をする友人だった。

 美結が客観的に整った容姿をしていたこともあって、頻繁に

「お前ら付き合ってんの?」

「良いなー俺も美結ちゃんと仲良くしてぇわ」

などと言われるのが、とても、とても鬱陶しかった。


 高一の夏休みが終わる頃、美結が「課題ちゃんとやってんの?勉強教えてあげる」と言ってきた。俺は

「平日の昼間なら親居ないし、ウチ来てもいいよ」

と応えた。

 正直俺は、勉強はどうでも良かった。

 久々にアニメの話が思いっきり出来ると思ってワクワクし、中学時代に好きだった作品のBlu-rayを引っ張り出したりした。


 当日、初めて見る美結の私服は、夏とはいえそれじゃ肌寒くない?というくらい、肩が出ていて、短めのスカートだった。実際、冷房寒くない?と言って、ひざ掛け替わりのタオルケットを渡したぐらいだ。


 俺の部屋で一応ノートと参考書を広げて勉強をしたが、どうにも、距離が近かった。いつも通りフランクに話しかけても、「うん……」と言って沈黙し、じっと見つめられる。俺は、何かを期待されているようで、そしてそれが、異性としての期待のような気がして、じわじわと居心地の悪さを感じた。

 思い違いだ、と打ち消したかったけど、教室でこんなに顔を近づけたり、腕に触れられることはなかった。

 太腿に手を置かれたとき、居心地の悪さがはっきりとした嫌悪感に変わった。耐え切れず、十六時半だけど

「もう遅いし送るよ」

と言って、無理やり帰らせた。美結は、別に送らなくていい、と言って、振り返りもせず玄関のドアを閉めた。


 それ以来、美結に連絡しても、かつて五行だった返信が一行になり、もう俺はこの子と友達では居られなくなったんだな、と悟った。


 夏休み明け、俺は美術部内では「美結に散々期待持たせて冷たく振った男」になり、さらにしばらくするとクラスの男子の間では「部屋で女子と二人っきりなのに怖気づいた男」になった。


 こんなこと考えるって本末転倒な感じだけど、もし俺が女で、美結が男だったら、皆はあんなふうに噂したんだろうか。思い出と言えるほど古びていない記憶をかき消すために、ユイナさんの図案に向かい合った。


 リサさんの金魚の図案同様、絵の輪郭をしっかり描き、立体感はあまり付けない。髪の毛はグラデーションにするよう指定を出す。微妙な色味はたっちゃんさんにお任せ。

 自画自賛だけど、もし俺に豊かな胸があったなら、こんなかわいらしい額縁を纏ってみたい、と思った。


 数週間後、閉店作業後にたっちゃんさんの店に顔を出した。ユイナさんの施術後の写真を、「デザインに携わったんだし見たいでしょ」と言って、たっちゃんさんが見せてくれた。

 胸の大部分は手で隠し、タトゥーの入った外周や胸の上だけ見える写真。この写真を見た人は、「セクシーだ」と思うより先に、「キュートだ」と思うんじゃないかな、と思った。まぁ、俺が一般的な男性の性的欲求の程度を知らないから、そう思うのかもしれないけれど。


「いいよねぇ。いやらしさとか全然ない。可愛くてちょっと怖くて、おとぎ話みたいでさ。ユイナさん、自分の胸が好きになった、大好きなアクセサリー付けた時みたいに、胸だけじゃなくて自分全体のこと、可愛くなったみたいで好きになった、って言ってくれてたよ」

 タトゥーにそんな効果があるなんて。嫌いなものを好きにさせる、そして一生傍にいる。たっちゃんさんは、本物の妖精を授けたのかもしれない。


「俺、知らなかった。タトゥーが、そんな風に誰かの気持ちを救う力があるってこと」

「今回もさ、リサさんの中野ブロードウェイの図案もさ、レオが居ないと出来上がらなかったから。俺と、レオと、半分ずつの力だよ」


 たっちゃんさんが、写真に目を落として言った。

「いつか、さ。俺にも、図案描いてくれる?」


 その言葉の重みに怖気付いた。同じ一生残るタトゥーでも、お客さんに対価を貰って描くのと、よく見知った人のために描くのは、ずいぶん心持ちが違うのだということを知った。でもたっちゃんさんは日常的にそういうものを描いて、さらに彫っているから、感覚が俺とは違うんだろうか。

 たっちゃんさんは、いつもの穏やかな目だけど、その奥に、求めるような、こちらを射抜くような光を感じた。うん、と、言わざるを得なかった。


「ありがとう。いつか、だからさ。あんま構えないでね。じゃ、俺はこれから、自分の彫るからさ」

 そう言ってたっちゃんさんが切り上げようとした。

「何、自分で自分の身体にタトゥー彫るってこと?俺見てていい?」

「えぇっ、興味あるの?いや、いいけどさ、ちょっと怖いかもよ?別に楽しいもんでもないと思うよ」


 いいじゃん、見るだけだしと押し切って、ソファに座った。動かないぞという姿勢を示せばもうこっちのもんだ。


 今回は脛に彫るらしく、毛が綺麗に剃られていた。両手にゴム手袋をはめ、脛の空いている部分に図案を転写していく。全体的に濃いグレーの羅針盤の絵。

「今塗ったの何」

「ワセリン」

 いつものにこやかさは消え、俺の方を見ることはない。左手に歯医者さんのドリルのような、電動らしき針を持つ。ユイナさんの図案を描くところを見ていたはずなのに、そういえばこの人は左利きだった、と今更思い出した。左腕の白い鳥が、腕の動きに伴って少しだけ歪む。


 転写した線の上を、ゆっくりだけど、俺が想像していたよりはずいぶん早く、丁寧にペンで絵を描く時、くらいのスピードで彫っていく。電動カミソリのような音が、静かな店内に響く。意外と全然、血とか出ないもんなんだなと思いながら、じっと見ていた。線の周りの肌が、かすかに盛り上がっている。

 見ていて、「うわ、痛そう」という感じが全然なかった。


 たっちゃんさんが身体を起こし、針を置いてふう、と息を吐いた時、ダメ元で聞いた。


「俺も彫りたい」


「え、ダメだよ!未成年にタトゥー入れたら犯罪だよ?」

「そっちじゃなくて」

 それ、と針を指さす。


「俺持っちゃダメ?」

「はぁ~?! 絶対絶対絶対ダメだから! 俺の肌彫るってことでしょ? 彫師としても安全上も絶対ダメです」

「じゃ俺が持つんじゃなくて、たっちゃんさんが持ってるとこにちょっと手添えるだけとか」

「えー……いやそれもダメでしょ、危ないし」


 一瞬間があった。こういう時、たっちゃんさんは押せばいけてしまう、ということを俺は知っている。


「じゃあさ、未成年の俺がこうやって日常的にタトゥースタジオに出入りして、果てはアルバイトみたいなことしてるのって、法律とか条例的にオッケーなの?」


 たっちゃんさんが、「やば」「確かに」「ぐぬぬ」「こいつ……」をミキサーにぶち込んでスムージーにした顔をしている。

 本当は、未成年にタトゥー彫るのは条例で禁止されてるけど、出入りに関しては特に禁じられていない、まぁ俺の調べた範囲だけど。詳細は知らん。たっちゃんさんが動揺しさえすれば、それでいい。


「ちょっと左手添えるだけだから。誰にも言わないから。ね、お願い」


「誰にも言わない」ことの範囲をどう捉えるかは、たっちゃんさんにお任せだ。ボッコボコの穴だらけの論理なのに、たっちゃんさんの心が揺れているのが手に取るように分かる。


「何なら、彫ってる手に触れるだけだと思ってもらってさ」

「えー……。え、本当に、ほんとに誰にも言わない?」

「言わない言わない。俺言うような友達いないし。ばあちゃんになんて言う訳ないし」

「うーん。うーん。じゃあ、じゃあほんと今回だけよ?手も添えるだけよ?絶対針本体には触らないで、力も入れないでね?!」

 ほらね、と思った俺は、たっちゃんさんの優しさと押しの弱さを利用した、とんでもないクソガキだ。たっちゃんさんは、こんなクソガキの策略に乗らないよう、今後気をつけて欲しい。今後。


 俺もゴム手袋をはめ、たっちゃんさんの左斜め後ろに立ち、肩越しに左手を重ねた。

「ホント絶対力入れないでね!完全に無になってよね!神様、レオの手からすべての力を奪い給え……」

 たっちゃんさんって気軽に神様召喚しがちだよなぁと思ったけど、真剣だということを示すために黙っていた。


 たっちゃんさんの手を伝って、針の振動が伝わる。針先が皮膚に刺さり、スススと線を描く。ただ手を添えているだけだからか、元々そういうものなのかは分からないけれど、皮膚に針が刺さる感触はない。


 でも確実に、俺はこの人の肌を刺し、線を彫り残したという、奇妙な満足感があった。征服感に近い、と思った自分が、少し恐ろしくなった。俺はサディスティックな気質があるのか?と。


「はい、ここまで!もうダメだから!ほんと誰にも言わないでよ?あーめっちゃ怖かった、レオっていきなりグッ!って力込めそうだもん」


 なかなか察しがいい。別にしないけど、それに近い気分にはなっていたかもしれない。

 これは多分、絶対に伝わってはならない感情だと思った。


 俺は、今後このタトゥーを見る度、あの線は俺が彫ったと思い返す気がする。これが腕でなく、服に覆われて、そうそう目にすることはないだろう脛で良かった。



そして俺はこの12時間後、震える指でたっちゃんさんにメッセージを打つことになるなんて、まだ知る由もなかった。

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