走馬灯で会う日まで

佐田おさだ

#1

 休憩から戻ると店内は相変わらずにぎやかだった。

 さも喫茶店らしくコーヒーの匂いが充満していて、吐き気がした。客の話し声がガヤガヤと耳に障る。まるで、小さな虫が耳の周りを周回しているような気分だ。

時計を見る。十時ちょうど。あと六時間は、仕事をしなくてはいけない。それですんなり帰れたらいいが、どうせ残業する羽目になるだろう。今日だけで、あとどれだけの数のコーヒーを入れなくてはいけないのか。どれだけの数の作り笑顔をしなくてはいけないのか。考えるだけで気が遠くなりそうだった。

 床に突き刺さるような深いため息が出た。

 早番のシフトが終わる十三時まで、ただひたすらに、お客に呼ばれたら行き、注文を聞いて提供し、席が空いたら片付ける。それを繰り返した。

 十一時には少し客足が引いたが、十二時が近くなると朝よりもさらに客足が伸びた。

 店長と僕とアルバイト二人の四人体制でなんとか対応していたが、正直目が回りそうだった。のどが乾いて舌が張り付いたが、水分を補給する時間すらなかった。

 その時、店内にガシャンという食器の割れる音が響いた。次に、男性の怒鳴り声が聞こえてきた。

 視線をやると、どうやら学生アルバイトの北村さんが食器を落としたみたいだった。

「危ねえだろ!」

 男性客が、北村さんに向かって言った。

「すみません!」

 北村さんは女の子らしく甲高い声で謝ると、深々と頭を下げた。

「すぐに片付けますので」

「まったく、ふざけんなよ」

 男性客は、周りの様子を気にしながら声の音量を下げた。

 僕は、ちり取りとホウキを手にとり、割れた食器を片付けに向かった。

 店長も、すぐに状況を察知して、男性客のもとへ謝罪に向かった。

「もう、いいよ」

 男性客は、多少イライラしつつも、さらに何か言ってくる様子はなかった。

 あまり大事にはならなそうだった。僕は胸を撫で下ろした。

 イレギュラーなことがあったがすぐに切り替えて通常業務に戻った。もう一人の男性アルバイトの柳田さんは、意にかえさず食器洗いをしていた――柳田さんは少し変わった人だ。いつも顔がうつるくらいに念入りに皿を磨く。イラストレーターをしているという噂があるが正確なところは誰も知らない――それでも、変に動揺されるよりは良かった。

「北村さん、どこ行った?」

 客対応から戻ってきた店長が言った。

 あたりを見渡すと、北村さんがいなかった。

「分からないです」

 僕は言った。

「さっき出ていくのを見ましたよ。トイレじゃないですか? 怒鳴られて泣いているのかもしれませんね」

 柳田さんが言った。手についた泡がつかないように、手首のところで、メガネを押し上げた。

「西田、ちょっと見てきて」

「でも、まだ、忙しいですよ」

 お昼のピークは過ぎたが、まだ客が来る時間だった。

「もうすぐ次のシフトの人がくるから大丈夫。いいから、北村ちゃんに声かけてやって」

 僕は、北村さんを探しに休憩室に向かった。

 休憩室にも、北村さんはいなかった。更衣室やトイレをノックしてみたが人の気配は感じなかった。

 職員用の裏口から出て、店舗の裏手側に行ってみると、室外機の横で北村さんがしゃがみ混んでいた。

 膝を抱え込み、顔をうずめている。

「北村さん、大丈夫?」

「大丈夫じゃないです」

「お客さん、帰ったから、もう大丈夫だよ。それにそんなに怒ってなかったよ」

「いや、もう大丈夫じゃないです」

 グスグスと鼻をすする音が聞こえた。

「あんなに大声出されたら怖いです……」

「接客やってたらそういうこともあるよ。あんまり気にしないで」

「もう、嫌です。私、バイト辞めます」

 僕は、かける言葉が見つからず、沈黙した。

 北村さんはその間もグズグズと鼻をすすっていた。

 しばらくして、「どうして黙ってるんですか?」と北村さんが言った。

「いや、なんて言葉をかけていいかわからなくて……」

 急に北村さんは、立ち上がって「帰ります」と言った。

 トボトボと店内に戻って行った。僕も続いて店内に戻った。

 北村さんは、すぐに帰り支度を始めた。

「気をつけて帰りなよ」

 一応声をかけると、

「……はい」

 暗い返事が返ってきた。

 僕は、エプロンを外して、リュックサックに詰め込んでいる北村さんを横目に、休憩室を出て、厨房に戻った。

「遅いぞ」

 思いがけず店長に注意を受けた。

「……すいません」

 いくつもの反論が頭に浮かんだがどうにか押し込めた。

 今日は厄日だ、と思った。

 店内では、すでに次のシフトのスタッフが慌ただしく働いていた。柳田さんは、帰ったみたいだ。

「悪いけど、あがるわ」

 店長は、エプロンを取りながらそう言った。

「北村ちゃん、大丈夫だった?」

「まあ、ちょっと泣いてましたね。でも、もう帰るって言って行きましたよ」

「今日は、悪かったな。いろいろ頼んで……」

「まあ、はい。大丈夫です」

 いつものことじゃないかと心の中で呟いた。

「だけどな、いつまでもお客様は待ってくれないんだよ。かといって、職員をないがしろにしてもいけない。配分というか、バランスが大事なんだよ」

 僕は、空返事をして聞き流した。もちろん、相手にバレない程度の演技を入れて。

 店長は、ただ忙しかったイライラを誰かにぶつけたかっただけなんだと思う。「行け」というから行ったのに、それはそれで注意されるなんておかしな話だ。

 店長が帰った後は、三人体制でなんとか仕事をこなした。

 一人はベテランのパートタイマーなので心配なかったが――三人体制なんて忙しすぎじゃない! とグチグチ文句を言ってはいた――もう一人は、先週入職したばかりの高校生だった。

 元気のいい男の子で、やる気はあるが、物覚えが悪かった。なので、途中から皿洗いと食事提供に専念してもらうことで、なんとかなった。

 午後のシフトが終わり、交代した時には、かなり疲れていた。しかし、ベテランパートタイマーと高校生は帰ったが、僕はまだ店に残った。

 本来であればもう帰っていいはずだが、会計報告などの事務処理がまだ終わっていなかったのだ。正直、今日のような状態で、客対応以外の仕事をするのは不可能だと思う。

 僕は、休憩室でパソコンに向かった。

 椅子に座った途端、全身の力が抜けた。まるで、体の所有権を誰かに奪われたみたいだった。無機物のような手がカタンとキーボードの上に置かれた状態になった。不思議と力が入らず手を動かすことができなかった。

 僕の指が「f」を押していて、パソコンの画面には「f」が増え続けていた。

 虚脱感だ。

 力が入らない。

 まただ、と僕は思った。

 最近こういうことが時々ある。急に、体の力が抜けるような感覚。その後、しばらく動くことができなくなってしまう。金縛りに近いかもしれない。疲れがたまっているのだろう。仕事が終わって家に帰った時や、休憩中になることが多かった。

 画面が「f」でいっぱいになった頃、ようやく手を動かすことができた。

 時計を見ると七時半をまわっていた。

 僕は、冷蔵庫からお茶を取り出して飲んだ。

 それから、パソコンの前に戻った。まずは、大量の「f」を消してから作業に取りかかる。

 結局、仕事が終わった時には、時計は九時を指していた。十二時間以上この店にいたことになる。車に乗り込むとこれ以上ないくらい深いため息が出た。疲労感は限界まで高まっていた。

 何より、嫌だったのが明日も仕事だということだった。

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