№34 最後の切り札
№34 最後の切り札
戦線が突破されつつある。
本営にて、鮫島魁童は腕を組んで葉巻を吸いながら戦況を見ていた。無線ではあちこちから『敵』通過との報告が上がってきている。現場は混乱していた。
まさか『人間の盾』を煽動し、逆手に取るとは。自衛隊が国民を守るために存在している以上、攻撃はできない。ただ向こうが素通りしていくのを見ていることしかできないのだ。
由比ヶ浜の作戦が、完全に裏目に出た。
当然ながら、こんな事態は想定していなかった。『敵』が『人間の盾』を味方につけるほどのこころざしを持っていたとは思わなかった。紫涼院侑という男は、アジテーターとして優秀らしい。
しかし、民衆の行動がすべての答えだった。民衆は、『敵』の正義を認めたのだ。自分たちの正義は間違いだと判断された。
いつだって、歴史を動かすのは政治家や軍人ではない。
民衆が歴史を作るのだ。
腐った果実はついに枝から落ちようとしている。
絶対的権力は絶対的に腐敗する。ジョン・アクトンもうまいことを言ったものだ。今まで社会の頂点にいたものが、亡者たちの手によって引きずり下ろされようとしている。取るに足らないと消費してきた亡霊たちの逆襲だ。
一度ついた火は燃え広がり、すべてを焼き尽くすまで消えはしない。いくら火消しに奔走したとしても、勢いのついた群衆を止めることはできないだろう。
最後の最後に大逆転をされてしまった。
しかし、鮫島個人の胸は今、晴れ渡るようだった。
よくやってくれた、と拍手を送りたい。
胸糞悪い由比ヶ浜の奸計を、見事打破してくれたのだ。胸のすくような、とはまさにこのことだ。これ以上、由比ヶ浜の手のひらで踊らされるわけにはいかない。
しかし、鮫島が、自衛隊統合幕僚長が退くには、まだ理由が足りなかった。もうひとつだけでいいのだ、なにか、撤退するに足る理由がほしい。
……そんな折、鮫島の個人的なスマホが鳴った。この番号を知っている人物は限られている。
すぐに電話に出ると、馴染みにしている官僚からの報告が上がってきた。
「……ああ、わかった。これでワシらもお役御免だな。連絡、感謝する。またメシでも食いに行こう」
それだけ言うと、鮫島は通話を切った。
最後の手札が出揃った。そろそろ潮時だ。
『全隊員に告ぐ。ただちに撤退せよ』
無線に向かってそう告げると、血相を変えた由比ヶ浜がつかみかかってきた。仏顔も剥がれかけている。
「なにをしている、鮫島!? 攻撃させろ! 蹴散らせ!!」
まだ神様気取りでいる手首をつかんで、鮫島はその場に投げ伏せた。目を白黒させている由比ヶ浜を見下ろして、葉巻を吹かしながら、
「ワシも老いて少々なまったようだ。相手を見くびっていた」
「蹴散らせ、と言っている!!」
「民間人には攻撃を加えられん。あんな外道の作戦を立てたお前さんだ、知らないわけでもなかろう」
「……っ!!」
お前の作戦が裏目に出たんだぞ、と暗に言いながら、鮫島はまだずいぶん残りがある葉巻を消して、各員に撤退の具体的な指示を出し始めた。へたりこんでくちびるを噛んでいる由比ヶ浜のことなどどこ吹く風だ。
「……防衛大臣の命令だぞ!?」
ここぞとばかりに伝家の宝刀を抜く由比ヶ浜だったが、それも最後の手札で無効になっている。
「ああ、あの防衛大臣……いや、元・防衛大臣か」
「なんだと!?」
息巻く由比ヶ浜に、鮫島はサメの笑顔で告げた。
「なんだ、夕刊を読んどらんのか? 防衛大臣は今日解任されたぞ。とある伝手でスキャンダルが漏れてな、マスコミは大騒ぎだ。内閣も早々に切り捨てた。こと保身に関しては、政治家というのは見切りが早いな」
皮肉げに笑う鮫島は、『とある伝手』とやらのことも聞き及んでいた。マスコミに情報をリークしたのは匿名希望者だったが、電話をくれた政治家が独自に調べたところ、とある狸爺の存在が浮かび上がったのだ。とっておきの隠し球を、これ以上ないタイミングで爆発させたのは、『敵』の上司だった。
とんだ昼行灯がいたものだな、と鮫島は愉快そうな顔をする。まったくの死角から飛び出してきた最後の一刺しによって、由比ヶ浜の計画は完全に崩れたのだった。
愉快痛快、これだからこの世は面白い。
「鮫島あああああああ!!」
またも由比ヶ浜が鮫島につかみかかるが、防衛大臣の件に関しては埒外のため、これは単なる八つ当たりだ。怒りのぶつけどころを見失った由比ヶ浜は、手近にいた鮫島に般若の形相で詰め寄る。
対して、鮫島はゆったりとした動作で葉巻の先端を切り落とし、火をつける。撤退前の最後の一服だ。
「貴様、貴様ああああああ!!」
鬼気迫る様子で鮫島を睨みつける由比ヶ浜は、もう仏の顔を保っていられなかった。『令和のブッダ』も堕ちたものだ。思い通りにいかないことなど初めてで、取り乱している。一旦折れた強者は脆い。柳は弱々しくても雪の重さに耐えるが、立派な松の木は耐えきれずに折れる。
怒りをぶつけられた鮫島は、ぶはあ、と由比ヶ浜の顔面目掛けて煙を吐いた。咳き込んで手をゆるめる由比ヶ浜を思いっきり笑ってやる。
「かかかかか! 思い知ったか、若造が! せいぜい今まで驕り高ぶってきたツケを払うといい!」
「くそっ、くそおおおおお!!」
「いいザマだな。防衛大臣の任が解けた以上、自衛隊がここに残る理由はない。撤退させてもらうぞ」
由比ヶ浜の手をこともなげに振り払い、鮫島は部下たちをまとめて撤収の準備に入った。
「ま、待て! まさか、私をここに置いていくつもりか!?」
一転、すがるような口調になった由比ヶ浜に、鮫島は冷たい視線を向ける。
「言っただろう。ツケを払え、と。亡者たちはお前さんを目指してやって来ている。責任者は詰め腹を切るべきだろう。そのための地位、そのための給料だ」
その一瞥のあと、鮫島は由比ヶ浜のことを一切無視して淡々と撤収に当たった。
「残っている武器弾薬はすべてトラックに詰め込め。本営を含めた施設は破棄、機器類は持てるだけ持って、残りは徹底的に破壊して捨てておけ」
「ま、待て! 待ってくれ!! 置いていかないでくれ!!」
「殉職した隊員の親族への手紙はワシが書く。ゾンビ化したもののことは忘れろ。ワシもそろそろ撤収する。各員、トラックに乗って帰投せよ」
「ひどいじゃないか! こんな、こんなことは……!! この私に、選ばれた人間に死ねと言うのか!?」
わめき続ける由比ヶ浜のことを気にする通信兵に、鮫島はあごをしゃくって『行け』と命じる。
「これは放っておいていい。帰るぞ」
「やめてくれ!! あいつらが来る!! 私はまだ死にたくない!!」
懇願の言葉を聞かず、鮫島は部下たちと本営テントを後にした。
ヘリやトラックの音が遠ざかっていく。
見捨てられ、ひとり取り残された由比ヶ浜は、絶望の表情で立ち尽くしていた。
あいつらが来る。
今まで取るに足らないと足蹴にしてきた連中が、一大勢力となって自分を狙っているのだ。
次第にがたがたと震え始め、少しでも遠くに逃げようとした、その時だった。
いつかと同じように、本営のテントを突き破ってバイクが現れる。しかし、今回は三人乗っていた。それに無数の鬨の声が続いている。
破壊された機器類をなぎ倒し、ぎゃぎゃぎゃ!とタイヤをきしませてバイクが停車した。たちまち武器を構えた群衆やゾンビたちが由比ヶ浜を取り囲み、右手を潰された紫涼院侑、左手を吊っている鉈村アヲヰ、バイクを走らせていた五億寸釘叫の視線が由比ヶ浜をとらえた。
うそだ。
ここでおしまいなんて、そんなの。
自分は選ばれた人間のはずなのに。
どうして。
真っ青になりながら、由比ヶ浜はただ状況を理解せずに問いかけ続けた。
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