番外編 ありがとう

 窓から差し込む春の陽光が書斎を柔らかく照らしている。私は机に向かい、手紙を書いていた。


『エレンヌへ』


 最初にペンを走らせると、彼女の面影が浮かぶ。私はこの手紙で、彼女に「ありがとう」を伝えたかった。


 エレンヌは侍女でありながら、姉のように親しく頼れる存在で、ずっと私の支えになってくれた。


 私がルドヴィクと結婚し、王宮で過ごすようになった今も変わらず、彼女は傍にいてくれている。


 心細い夜にそっと温かい言葉をかけてくれたこと、初めての社交界で緊張する私を陰ながら励ましてくれたこと、伯爵家を追い出された私を一人にできないと追いかけてきてくれたこと──彼女には感謝してもしきれない。


 けれど、改めて手紙で感謝の気持ちを伝えるのは、何だか照れくさい。私はそっと手を止めて、小さく息を吐いた。


「ステラ、何を書いているのかな?」

 静寂を破る低く落ち着いた声に、私は驚いて肩を震わせた。慌てて振り向くと、ルドヴィクが優雅に歩み寄ってくるところだった。


「あ、あの……!」

 思わず立ち上がるが、足がもつれそうになり、慌てて机に手をつく。あまりのドジっぷりに顔が一気に熱くなるのを感じた。


 ルドヴィクは、そんな私を見て微笑むと、軽く首を傾げた。


「そんなに驚かなくてもいいのに」


「お仕事に行かれているとばかり……って、もうそろそろお昼ですね」

 夢中になって手紙の内容を考えていたので気づかなかった。


 彼は忙しい仕事の合間にも、こうして二人で過ごす時間を大切にしてくれる人だ。


 私はそそくさとドレスの裾を直す。するとルドヴィクは、私のすぐそばにやってきて机の上の手紙に視線を落とす。


「感謝の手紙、かな?」


「……はい。今日は『ありがとうの日』でしょう? エレンヌに、改めてお礼を伝えたくて」


 かつてこの国には非常に優秀な王がいた。彼は民に尽くし、誠実な政治を行っていたが、多忙な日々の中で、最も大切な人である妻に十分な感謝を伝えることができていなかったという。


 ある日、妻は静かにこう言ったそうだ。


『あなたのおかげで、国の人々は幸せです。でも、私もあなたの言葉がほしいのです』


 その言葉に、王は初めて気づいた。どれほど愛していても、言葉にしなければ伝わらないことがあるのだと。


 その日以来、彼は「感謝の気持ちは必ず言葉にする」と誓い、毎年、春のある日を『ありがとうの日』として妻に感謝を伝え続けた。


 やがて、その風習は宮廷内に広まり、ついには国中に広がった。


 以来、この日は家族や友人、愛する人に「ありがとう」を伝える日となっている。


「君は本当に心の優しい人だね」

 彼はそう言うと、私の手を包み込むように握った。


 その大きく温かな手の感触に、私はまた顔が熱くなる。


「あ、あの……」

 何か言葉を返そうとするが、鼓動が早すぎて上手く言葉にならない。


 そんな私を見て、ルドヴィクは小さく笑った。


「君といると、私もたくさんの『ありがとう』を伝えたくなる」


「え……?」

 私は思わず彼を見つめた。


「ステラ、君がここにいてくれることに、感謝しているよ」

 ルドヴィクの言葉は、私の心の奥深くまで優しく染み渡る。


「君は私の人生に、光をもたらしてくれた。最初は遠く憧れていただけの存在だった君が、こうして傍にいてくれる。それがどれほど嬉しいことか……言葉では伝えきれないな」


「そ、そんな……! 私こそ、ずっとルドヴィクが憧れの人で……」

 私は真っ赤になりながら、ぶんぶんと首を振る。


 ルドヴィクが私に憧れていたなんて、そんなこと……!


「本当のことだよ」

 彼は穏やかに微笑むと、私の手を持ち上げ、その甲にそっと唇を落とした。


 その瞬間、私はますます動揺してしまう。


「る、ルドヴィクっ……!」

 声が裏返りそうになり、私は思わず手を引っ込めようとした。


 けれど、彼はそれを逃がさず、しっかりと握り直す。


「私のかわいい妻は、いつもこうして照れてしまうんだね」


「うう……!」


 からかわれているとわかっても、顔の熱さは引かない。むしろ、ますます恥ずかしくなってしまう。


 ルドヴィクは、そんな私を慈しむように見つめると、ゆっくりと抱き寄せた。


「ステラ、ありがとう」


 耳元で囁かれる低い声に、心臓が跳ねる。


「私を愛してくれて、ありがとう」


「……!」

 胸の奥がじんわりと温かくなる。私はそっと彼の胸に顔をうずめ、震える声で言葉を絞り出した。


「わ、私のほうこそ……こんなに愛されて、本当に幸せです……ありがとうございます」

 ルドヴィクの腕の中で、私はゆっくりと目を閉じる。この温もりが、ずっと続きますように。


 そして──。


 ふわりと顎を指で掬われ顔を上げた瞬間、静かに唇が塞がれた。


「っ……!」

 目を見開くが、すぐにルドヴィク様の優しい温もりに包まれて、力が抜け、瞼を下ろす。


 柔らかく、けれど深く、まるで「愛している」と伝えるかのような口づけだった。


 彼の唇が離れたとき、私は完全に思考が止まっていた。


「……ステラ?」


「あ……わ、あの……!」

 何か言わなければ、と思うのに、頭が真っ白で言葉が出てこない。顔は茹で上がったように熱く、どうすればいいか思考がぐるぐるする。


 夫婦になったのだから、いい加減慣れなければと思うのに、彼の色気は相変わらず暴力的で、私の萌えバロメーターの針はすぐに振り切れてしまう。


 そんな私の様子を見て、ルドヴィクは満足そうに微笑んだ。


「恥ずかしがる姿もかわいい」


「も、もう……! からかわないでくださいっ」

 ぷくりと頬を膨らませるけれど、彼の愛情が嬉しくて、私はたまらなく幸せな気持ちになった。



 ──その夜、エレンヌからも手紙を渡され、私たちは同じことを考えていたのだとくすくす笑いながら、手紙を交換した。


 彼女の手紙には、かわいらしい文字でこう綴られていた。


『ステラ様、あなたが幸せでいてくれることが、私にとって一番の喜びです。これからも、ずっと幸せでいてくださいね』


 私はその言葉を読み、改めて強く思う。


 私は、本当に多くの人に支えられている。


「ありがとう、エレンヌ。そして……ルドヴィク」

 私はそっと目を閉じ、心の中で何度もその言葉を繰り返した。


 出会ってくれて、私を見つけてくれて、応援してくれて、愛してくれて、ありがとう。


 私は一人じゃない。


 これからも、ずっと、みんなの愛を抱きしめて生きていく。


 ありがとう、またね。大好き。




 ―了―

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