第13話
不吉な森で最悪な出会いをした、と思いながら家に逃げ帰ると、塀の前に馬車が止まっていた。
――イヤな予感が、する。全身の毛穴から冷や汗が滲み出るような。火傷あとがピリピリと痛み出した。
リュシヴィエールはアンナと目を見合わせた。おそるおそる中へ踏み入れ、ああ――リュシヴィエールは深い深いため息をついた。歯の隙間、頬の傷からそれが漏れた。
見覚えのある、だが覚えているのよりずいぶん古くなったトランクがひとつ、無造作に放り出されている。アンナはおろおろとリュシヴィエールの顔色をうかがう。しんと静まり返った室内に、埃がキラキラ舞った。
この屋敷は屋敷とは名ばかりの小規模なもので、平屋で二階がない。前世でいう学校の体育館くらいの広さはあり、そこが正方形の部屋に区切られている。手前から応接間兼玄関、食堂、使われていない客間や何の用途にも使える小部屋たちに使用人が寝る。一番奥がリュシヴィエールの部屋で、……このようにこの家では主と使用人が同じ空間を共有する。あの人には耐えられないことだろう。
リュシヴィエールは家の奥へと足を進めた。杖についた泥を玄関マットでこすり落とすのももどかしい。胸がざわざわと悲しかった――悲しい? 本当に悲しみだろうか、これは? 怒り、ではなくて?
応接間を出もしないうちに、向こうから扉が開いた。怒りに潤んだ目がリュシヴィエールを睨みつけたが、すぐにその顔は驚愕に変わり……母は小さな口を大きく開いた。。
「――キャ、キャアアアアアアアアアアアア!! イヤアアアアアアアアアア!!」
と叫んで母はへなへなと膝をついた。リュシヴィエールはそれを支えたくても腕力がない。
「母上、大丈夫ですか」
「ひっどーいいぃ!」
と叫びながら母は絨毯の上でのたうち回る……ような仕草をする。社交界、とくに夜会で貴婦人が殿方の気を惹くためによくやる、失神ごっこの動作だった。これをされた場合、紳士であればすぐさま彼女を助け起こし甲斐甲斐しく介抱しなくてはならない。
「母上、お声を低めてください。【暁の森】が驚きますわ」
「いやああああーん、きゃああああん、ひっどぉーいいぃ! リュシー、ああ、リュシー! ひどい顔だわ!! ほんっとひっどい顔ねぇぇえ! キャーかわいそうっ、かわいそぉおねええええええ!?」
記憶にあるより老けた、だがじゅうぶん美しく母はなまめかしい仕草でくねくねする。アンナはリュシヴィエールの背中に隠れるようにして、ひたすら目を丸くする。
とたたたた、と軽い足音が屋敷の奥、母の後ろからやってきた。母にそっくりのかわいらしい少女だった。五、六歳くらいだろうか。少女はその場の状況をしばらく眺めていたが、そのうちリュシヴィエールに気づいてぽかんと口を開けた。
そして子供らしい、潰れた蟻を見るような残酷な好奇心でもってしげしげと彼女の顔を、身体を一通り眺めると、
「きゃああああっ。おばけー。んきゃーああああ! おかあさまをいじめるなぁっ!」
金でできた鈴のような声だった。すでに身についた貴婦人らしい社交と立ち回りのための演技は完璧で、頬に手を当て母親の身体に寄り添う。小さく美しく幼い顔に似合わない下卑たにやにや笑い。そんなところまで彼女たちは瓜二つだった――すなわち、リュシヴィエールと同じ顔ということである。
「突然の訪問に驚きましたわ。どうしたんですの?」
「どうしたもこうしたもないわよォ。娘が大怪我したって聞いたもんだから来てあげたのにぃー、なんでそんなひどいこと言うの? ひどいっひどいっ!」
「ひどいひどいっ!」
「――一年も経ってから?」
苦笑して肩をすくめるリュシヴィエールに、母は冤罪に立ち向かう戦乙女のようにキリッとした顔で立ち上がった。
「聞、い、た、のが昨日だったの! 仕方なかったんだもぉおん!!」
立ち上がった彼女はまだまだ豊かな胸を張った。振り乱される金髪の巻き毛、誇り高く顎をあげる表情もキリリと勇ましい。少女が母のスカートの裾にまとわりついて、キャッキャと楽しそうに迎合の笑い声をあげた。
「仕方なかったー、仕方なかったんだもおーん。おかあさまを許してよー」
「アンナ、こちらのお嬢さんにお茶とお菓子を。そうね。裏の木の下がいいでしょう。他の人と協力してテーブルを出して。おまえがお相手なさい」
アンナが明らかにひきつった作り笑いを浮かべたが、頷いて子供の前にかがみ込んだ。子供はきゃーあああ、とカン高い悲鳴のような声を上げた。
「やーっ、使用人なんか汚いよっ。サンドラちゃんに触らないで!」
リュシヴィエールは母を見たが、彼女は興味なさげに前髪を赤く塗った爪で直した。確かに、子供の躾は貴婦人の仕事ではない。だがそれを専門にする乳母や子守りメイドはいないようだった。
最初の衝撃が去ると、母のくたびれ具合がリュシヴィエールに一抹の寂しさをもたらした。顔に浮かぶ小皺、指に刻まれた節の線。下品な光沢のシルクのドレスは薄っぺらく、レースも工場の量産品だ。靴は群青色で瞳の色を引きたてていたが、エナメル塗装がところどころ剝げている。色合いもとりあわせも浮かれた若い娘のように蓮っ葉で、貴婦人らしくはない。ありていに言って、娼婦に見える。
クロワ侯爵夫人の社会的地位を投げ出してまで、母はこの姿になりたかったのだろうか?
アンナがどうにかこうにか子供を宥め、足を蹴られながらも少女の手を引いて下がっていく。少女はげしげしアンナの脚を蹴り、スカートを破れそうなほど引っ張っていた。
「きゃはははっ。お前メイドのくせになんで服が茶色いの? メイドは黒い服着なきゃだめなんだよおっ?」
「おやめ、あう。おやめくださいお嬢様ァ……」
かわいそうに、あとで手当てを出そう。
リュシヴィエールは母にソファを示した。
「なにこれえ? 犬の寝床?」
と母は鼻を鳴らしたが、座るところがそこしかないと知るとしぶしぶ腰を下ろした。さも汚いところにイヤイヤ座るのだと、全身で示していた。
「それで――」
「こんなとこしかないの? ほんとに? これしかないの、ほんとにないの? 侯爵夫人たるあたくしに――ああ、ああ! 耐えられないわ! なんて不幸なのかしら」
母が両手で顔を覆うと、ふわふわと娘のような髪型に結い上げられた金髪がふわふわ顔の周りを彩った。ゆるくうねる膝までの巻き毛は天使の羽根のよう。リュシヴィエールと同じ色の青い目が楽し気に輝くのは美しい男と語らうときだけ。
リュシヴィエールはスカーフを取り、頭巾姿のまま静かにお茶を待つ。台所女が太った身体を引きずってやってきて、ティーセットを机の上にえっちらおっちら並べ、無表情に一礼して去っていく。母は使用人の汚れたエプロンを見、露骨に表情を歪めた。
「母上、感情は抜きにいたしましょう。何をしにこんなところまでいらしたの?」
フン、と美しい女は膝を組む。美しい造形の顔の向こう、露骨な感情がちらちらと見え隠れする。
「何を言わせたいわけぇ?」
「ただ真実を。いったいどうなさったというの、母上?」
「あたくしは不幸だわ! 不幸なのよ!」
「怒鳴らないで。ええ、お伺いしますから」
母はリュシヴィエールが生まれてからの結婚生活の不満を並べた。クロワ侯爵と離婚してやっと幸福になれたと思った、なのにまた不幸に転落したのだと。
「なにもかもお前のせいよ! お前みたいな傷物の欠陥品が娘だって知られたからっ、だからみんなあたくしのことバカにするようになったの! お前のせいっお前のせいっ」
母の喉の奥に絡むごろごろした音が、そのまま声に滲んでいた。
ふと、前世の記憶を思い出した。クレーマーとか、入院中にこうやって見舞客に当たり散らしていた患者さん……。
(わたくしに相応しいのはやっぱり、エクトルがいる世界ではなくこっちなのかもしれない)
と思い、お茶を啜った。気を抜くと口に入れたものが頬の傷からあふれてしまうので、慎重に首を傾けて。
母は礼儀を守ってカップを手にしたが、口に運ぶことはなかった。欠けた縁を嫌悪の表情で見つめ、それが次の怒りを呼び起こした。
「あたくしたち、ここに住むからっ」
と放り投げるように言う。それからにまにまと前かがみになり、聞いている者もいないのに声を低め、
「お前はもう結婚は無理でしょう? あたくしが世話してあげる。どう? 嬉しいでしょ。生まれたとき以来のおかあさまの愛情よ」
「結構です。父が使用人とお金をくださいましたから。手は足りております」
母の顔に明らかな嫉妬が浮かんだ。
「ふうん? まだあの男と繋がってるんだ。へええ? そんな顔で? 貴族の女の義務は結婚よ! 結婚できないくせに生意気ィ」
リュシヴィエールはちらりと老けた水気のある美貌を見つめる。
「今朝、森で貴族の男性にお会いしました。あの方はあなたの恋人ですか」
「は? だから何? あたくしのこと馬鹿にしてる?」
リュシヴィエールは黙りこくった。母の表情が異様な熱を帯びている。こういうときに迂闊なことを言うと泣くまで怒鳴られ続けるはめになる。
(占いクッキー)
を、作った誕生日を思い出した。赤ん坊のエクトルがやってきた日のことを。食べてもらえなかったクッキーはどうなったのだろう。せめて使用人か、小鳥のお腹に入っていればいいのだが。
「あの子はサンドラというのですね? 父親は誰です?」
「なあに? サンドラちゃんはずるーいってこと? あたくしと一緒にいられたから。ウフッ、あたくしに愛されないからって拗ねちゃって。コドモー。かわいそ」
母はじろじろとリュシヴィエールの姿を、簡素な麻のドレスと風変わりな頭巾、潰れた爪のついた手や上手く動かない身体を眺めた。頭の上からつま先まで。そして視線を外し、鼻で笑った。
母の中にも一人前の人間として、母親としての情はあるのだと思う。ただそれらを塗り潰してしまうほどに王宮の闇は深く、そこに適応した母はもはや元には戻れない。もちろんお妃様や王女様、侍女の方々みんながみんなこうなるわけではないと思うけれど――
(母上はお心がお弱い。こうなる以外、生き残るすべがなかったのだわ……)
かわいそうに。
リュシヴィエールは同情する。自分の組み合わせた手をじっと見つめる。魔法は万能ではない。歪んだ爪や皮膚が元通りになることはない。それを可能にするのは【奇跡】だけだ。それでもリュシヴィエールは今の自分を嫌いではない。絶望していない。
母はその憐れみを敏感に察知した。老い始めてもなお麗しい美貌が真っ赤になり、親への尊敬の念が足りない娘を怒鳴りつけてやろうと腰を上げかける。
「あれ? おや、ここでいいのかい? おおーいサンドラ。おじさまだよーう。いる?」
と、玄関から足音も軽く男の声がした。【暁の森】で出会ったセルジュ、あの青年の声だった。外からは馬のいななきと、従僕の声もする。
母のドス黒かった怒りの顔が女になった。驚くほど綺麗な角度に口角が上がり、目じりが下がり、皺が消えた。往年の美貌が余すところなく浮かび上がる。彼女は小鳥が遊ぶように足取り軽やかに玄関へ向かい、
「セルジュさまぁっ。遅かったですのねえ」
「はははっ、あなたはいつまでも若い娘のようだ」
と、青年と抱擁しあうのだった。
リュシヴィエールの胸に静かな……なんだろう、これは。呆れ、ともまた違うし、絶望、のざらざらした悲しみは含まれない。
前世で見たワイドショー。今世の新聞のゴシップ欄。いい年して不倫と離婚再婚子宝をやらかした俳優とか、売り出し中のアイドルがプロデューサーと枕営業とか、そういうものを見たときの感情に似ていた。あーあ、としか感想が浮かばない、そんな気持ち……。
セルジュはきらきらした安っぽい誠実さをまとい、
「ああ、またお会いしましたね、ご令嬢!」
と笑う。
彼の腕にかじりついた母が、娘と青年を見比べ歯を剥き出しにして威嚇の表情を浮かべる。
リュシヴィエールは部屋を立ち去った。挨拶もなにもしなかった。裏庭から少女に髪の毛を引っ張られるアンナの悲鳴が響いていた。
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