第10話


「無事でよかった」


とクロワ侯爵は言ったが、これほど平坦で心の籠らない無事を喜ぶ言葉はこの世に二つとないだろう。エクトルは毒気が抜けたような、拍子抜けした気持ちで礼儀として頭を下げる。


「ご健勝そうで何よりです」

「心にもないことを言うな。我が娘の容態はどうか」

「峠は越したと医者は言います」

「ふん」


と鼻を鳴らし、侯爵は安楽椅子に深々ともたれた。疲れ切ったため息は、むしろこちらがついてやりたいほどだ。


焼け残った一階の一画に倉庫に残ったありあわせの家具類を並べ、一応の応接間とした空間。堂々とくつろぐ姿勢をとってもなお、侯爵はどこか神経質な怯えを見え隠れさせていた。


彼は膝の上に腕を乗せ、声を低めた。


「単刀直入に言う。お前、ティレルに教わった技術の研鑽はどの程度だ?」


まるでごく普通の父親が子供に、学校の勉強はどうだと聞くような口調である。


エクトルは後ろに手を回し肩幅に足を開き、休め、の姿勢のまま淡々と答えた。教わった通りに。


「一通りのことは習得しました」

「人を殺したことは?」

「あります」

「ほう。誰をいつ、どんなふうに? そして何故だ?」

「……姉上の求婚者だった、成金の商人を。七百十一年の七月でした。不埒な真似に及ぼうと計画していたので」


侯爵の顔に奇妙な微笑が浮かんだ。彼は間違いなくエクトルのその行動を称賛していたが、それは決して娘の身辺と名誉が守られたことへの喜びではなかった。まるで研いだナイフの仕上がりに満足した研ぎ師のようだった。


「いいだろう、いいだろう。――よし、よし。うん。それではお前、予定通り来年から王立魔法学園に通え」

「お断りします」


エクトルは間髪入れず叫んだ。思わず凄む声音になったのは、無理もないことだろう。さすがに信じられない思いだった。


「育ててくれた姉が重傷だと言うのに、俺が傍を離れるなど人としてできません」

「断る権利はお前にない。もし断るというのなら、侯爵の権限において娘リュシヴィエールはどこぞの商家に嫁がせる。庭師ティレルとそれに付随する密偵どもは、そうさな、ゴッシュリックの子爵家にでもまとめて売ってしまうか。あそこは手駒を欲しがっている」


エクトルはぐっと喉の奥で感情をこらえたが、それが外からわかってしまうほど幼い動きになっていることには気づけなかった。


「卑怯者め……」

「なんとでもいうがいい。我が血に連ならぬ厄介者のお前をここまで置いてやったのはなんのためだと? 王立魔法学園にて王太子のために働け。クロワ侯爵家は王家のお役に立つのだと、ティレル仕込みの腕で証明してみせろ」

「それで今の没落がマシになるとは思えません」

「家のことなど知らぬわ!」


侯爵は吐き捨てる。


貴族とは家のために生まれ、家のために生きて死ぬ、そのための歯車に過ぎない人間たちである。稀にその重圧に潰れる者が出て、周囲みんなが迷惑する。エクトルの前にいる男のように。


「家が私に何をしてくれた? ふん。私には真に愛する妻と、子供たちがいる。私の残りの人生は本当の家族のために使わせてもらう。お前たちなどどうとでもなるがよい。――が、お前の働き次第では、姉の落ち着き先を考えてやらんこともないぞ」


血走った黄色い白目の目がエクトルを見据えた。その青い色がリュシヴィエールと同じ、貴族の空の色だと気づいて、心臓のあたりがざわざわする。


「返事は?」


エクトルはティレルの真似をして、彼に教わった通りの一礼をした。


「謹んで拝命いたします、侯爵閣下」


侯爵は立ち上がり、ぶつぶつと口の中で文句を呟きながら足早に部屋を、屋敷を後にした。早く汚い場所から立ち去りたがっているのは目に見えた。


彼が立ち去るまでエクトルは下げた頭を上げず、


(いつか殺してやる)


と腹の底で思うにとどめた。実行にうつさなかったのは奇跡だったかもしれない。リュシヴィエールが悲しむだろうと思えばこそ、手を止めることができた。――彼女はきっと、まだ、家族というものに幻想を抱き追い求めているだろうから。


(生かしておいたところで奴らがあなたを見ることなんてないのに、姉上。どうして)


歯がゆく、むなしく、悲しいことだった。けれどエクトルはリュシヴィエールのそういう甘ったるいどうしようもなさを含めて彼女を愛していた。


彼はリュシヴィエールの寝かされている小屋へ向かった。医者はおらず、助手が包帯を片手に振り返った。


「姉上は?」

「眠っておられますが、そろそろ眠り魔法が切れる頃合いです」

「わかった。あとはやっておくよ。休んでて」


と手を振る少年に、三十がらみの女の助手は困った顔をしたものの、最後には引き下がった。大人として子供の気持ちを汲んだのが目に見え、少しばかり腹がたつ。


パタンと扉が閉まってリュシヴィエールと二人きりになると、エクトルはその枕元に座り込む。どっと疲れた気持ちだった、あるいは引っ込めていた怯えが表に出てきたような。


「姉上、俺、学園に行くんですって。ハハ、あなたを見守ることさえできないや。俺……」


と軽口をたたき、包帯のあわいから覗くリュシヴィエールのくるりと丸い額を見つめる。……火傷あとは、残るだろうと言われていた。


治療魔法はあくまで延命のため、致命傷を避けるため体内の損害を先に治す。そうすると表の皮膚や髪の再生は後回しになる。魔法は万能ではないのだ。


エクトルはそうっと新しい皮膚が張り付いた姉の冷たい手をなぞった。指は焼け落ちるところだった。それが保たれたのだ。医者には感謝すべきだろう。


「あんなにお美しかったのに……」


と嘆く声が、潰れた喉から転がり出る。――皮膚がぐじゅぐじゅに融けて赤身が剥き出しの部分が、組織液や血液でしとどに濡れた残酷なその有様が、ひとまず、治ったのだ。元通りではなかったけれど。命の危機が去り、エクトルは安心していた。それは事実だ。その安心と同じくらい大きく、失われたかもしれないリュシヴィエールの美を惜しむ。それが彼のせいであれば、なおさら。


「……後悔はして、なくてよ」


小さな声がした。エクトルがハッとして顔を覗き込むと、リュシヴィエールの青い目が包帯の隙間からかすかに覗く。まだ定着しきっていない瞼が乾燥しているようで、上がらない手でどうにかしようとする。


エクトルは小机を探って医者の作った点眼薬を見つけ出した。見様見真似で目に入れてやると、リュシヴィエールは気持ちよさそうに見えた。


「姉上。具合はどう?」

「痛くはないの。麻痺させられていて」

「寝ている間も苦しんでいたよ。ありったけの魔法をかけてくれと頼んだんだ。意識がなくても痛い眠りは辛いだろ?」

「まあ」


リュシヴィエールの胸元からくぐもったコロコロとした音が聞こえ、それが今の姉の笑い声なのだった。


「後悔はしてないの。だから……おまえも後悔しなくて、いいのよ」


夢見るように潤んだ瞳が、以前と変わらない美しさで遠くを見つめる。エクトルは焼けた睫毛ごしの姉の目を覗き込んだ。自分と同じようで少し違う、古い血族の青い目を。


「おまえが……ちゃんと。学園で。ちゃんと、できるように」


リュシヴィエールは幸福そうに微笑んだ、顔の筋肉は動かなかったが、そのまなざしで彼には彼女の感情がわかった。


「美しい女の子と、おまえ……幸せな……花びらの舞う中で」


ふっとリュシヴィエールの意識が途切れる。エクトルはその場から動けない。


時間だけがむやみに過ぎていく。二人のための鳥籠のようだったクロワ侯爵領キャメリアは本格的に崩壊した。

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