第4話


さて、一年が経ってアルトゥステア歴七百十三年、七月一日。昼下がり。


庭が見えるテラスでリュシヴィエールはお茶を嗜んでいた。クロワ侯爵領キャメリアは北部にあって気候は冷涼。よってまだ暑い盛りというわけではない。


エクトルがティレルを引き連れて近隣の森に兎罠を仕掛けに行ってしまったので、有り体に言ってヒマである。彼女の毎日はおとうとを中心に回っているのだ。


そこに、年嵩の侍従がやってきて来客を告げた。いったい誰? とリュシヴィエールが不思議がると、侍従は無感動に侯爵様です、と言った。もはや顔さえ忘れかけていた父クロワ侯爵のことだと、咄嗟に分からなかった。リュシヴィエールはびっくりしすぎてお茶を取り落としそうになった。


「はわわ」


と腕を支えてくれたのはアンナという名の十六歳のメイドだった。三つ編みにした赤毛にそばかすの散った顔、茶色の目ばかり大きい小鳥のような娘である。ひどい皮膚病の祖父がいて、その治療費のために身売りのようにクロワ家に奉公に来たのだった。


「ええ、わかったわ。こちらにお呼びして……」


リュシヴィエールがなんとか頷くと、侍従は慇懃に了承して去っていく。


アンナがあたふたテーブルクロスを引っ張るのをやめさせて、リュシヴィエールは新しいお茶を頼んだ。


「早くね。お願いね」

「は、はいぃい。お姫様」


ぺこんとお辞儀して去っていくアンナは、果たしてうまくやれるかどうか。


最近、リュシヴィエールの世話をするのはもっぱらアンナの役目だった。古参の使用人たちが家に見切りをつけて次々辞めていったのだ。もはや残っているのはクロワ家に借金があるだとか、先祖代々侍従侍女で仕えているだとかの理由がある者ばかり。新参者も、アンナのように他の家では務まらないだろうと思われる者ばかりだった。


リュシヴィエールは庭を眺めた。手入れがされていない薔薇の垣根、数年前エクトルが棒を振り回して破壊したガラスの温室、放棄された東屋に雑草に負けそうなマーガレットの花壇。クロワ侯爵はおそらく激怒するだろう。だが仕方ない。彼は金の面倒は見てくれたが、リュシヴィエールのような小娘ごときがそれを正しく運用できるかといった点は考えてくれなかった。人生のほとんどの時間を誰かに世話されることで生きてきた男だ、そこまで思考が及ばないのだ。


彼はせかせかした前のめりの姿勢でやってきた。目止めからぼうぼう雑草が生えたタイルの上へ、リュシヴィエールは立ち上がった。


「父上、お久しぶりでございます。父上におかれましては――」

「あれはどこだ!?」

「は……」


侯爵は鼻息荒くリュシヴィエールの真ん前に立ち、その飛び散った汗がかかりそうなほど近くに顔を近づけてフウフウ言った。


「あのガキ、妻が生み捨てた私生児はどこだ!」

「――わたくしのおとうとでしたら今は森に行っております」

「すぐ呼び戻せ!」


唾が頬に飛び、口臭が鼻をつんざく。リュシヴィエールは内心、悲鳴を上げた。


「ご用件は、父上」

「お前には関係ない、とっととせんか。父が命じておるのだぞ!」


クロワ侯爵はきゃんきゃんと吠えたあと、ふと庭の惨状に目を留めた。口があんぐり開いた。その上に似合わない口髭がちょこっと生えていること、彼の服装が少なくとも母の趣味ではなくなっていることをリュシヴィエールは認め、ああ、


(新しい女と家庭を作って長いのねえ)


なかなか冷静にその事実を受け止めた。ひょっとして家に帰ってこなくなってからずっと、その女に身の回りの世話をさせていたのかもしれない。服装のあちこちにその人の趣味が現れるほど。


アンナが湯気の立つポットとカップを銀の盆に乗せてしずしずテラスへやってきた。父が腕を振り上げ、やはりというべきかそれはアンナの鼻先をぶんっと通った。


「きゃあっ」


少女は悲鳴を上げて肩をすくめた。銀の盆はアンナの手を離れてひっくり返り、お茶がこぼれる。父の怒声よりも割れるポットの音の方がリュシヴィエールの耳に大きく響いた。


「この庭はどういうことだ! どういうことだ、リュシヴィエール、ええ!? よくも私の育った家をこんな無惨にしてくれたな。クロワ侯爵家の娘だというのに庭の手入れもできんのか、やはりあの女の娘だ、お前は! 何もできんくせに態度は一人前に育ちおって!」


父は手を振り上げる。リュシヴィエールは平手打ちを覚悟する。アンナの腕を押して押しのける、このおバカな女の子がとばっちりを食らわないように。


と、父は手を止め、リュシヴィエールの胸元を押し上げる乳房の大きさにしげしげと目を細めた。嘘だろこのオッサンお前娘だぞわたくしはオマエの。


ぞわあっと恐怖が身体じゅうを駆け巡り、リュシヴィエールの背中と手のひらにどっと冷や汗が沸いた。彼女は眼球だけを動かし助けを探した、いない。侍従も侍女も誰一人姿を現さず、まだ下働きで見習いのアンナに面倒を全部押し付けている。


「ほう……本当になかなか……。身体だけは一人前だな、ほう」


金髪の根本をざわざわさせながら、リュシヴィエールは必死にその場から動かないよう努力した。もし半歩でも後ろに下がったら、父が乳房を鷲掴んできそうだったのだ。よだれでも垂らしそうな目だった。こればっかりは年増娘の自意識過剰ではない、はずだ。乙女の本能はあるとき理屈を超えるものだから。


リュシヴィエールは空の色の目をアンナに向けた。父を無視する形である。


「アンナ、怪我は?」

「い、いいえ。お姫様」

「お茶がこぼれてしまったわね。誰か呼んでおいで。急いでと伝えなさい。掃除してもらわなくては。陶器の欠片で父上がお怪我なさってはことですから」


と、後半は父に花を持たせ、走り去るアンナのスカートの裾が消えるのを待って彼に向き直る。


少なくともアンナを逃がせてほっとした。まさか令嬢がこれほど言いつけたのに姿を現さない使用人はいまい。すぐに人が集まるはずだ。そう、きっと大丈夫だ。


目の前の父がいかにもつまらなさそうな風情を見せながら、その腹の中で何を考えているかわからず不気味だとしても――きっと大丈夫。ここはリュシヴィエールの家、彼はその父親。万が一はありえない、そうでしょう?


リュシヴィエールの心情としては、追い詰められていた。それを態度に表すのは危険だと分かっていた。エクトルにここにいてほしかった。驚いたことにリュシヴィエールは、彼の小さな背中の後ろに隠れたかった。リュシヴィエールが彼を守るのであって、彼に彼女を守る義務なんてないというのに……。


「それで、あの子になんのご用ですの」


父はいくぶんか落ち着いた様子に見えた。だが口調はねっとりと恨みがましい。


「まるで母親のような口をきくな。お前、ふん。だがしょせんは義理の姉にすぎん」

「まあ、わたくしはあの子の本当の姉ですわ。父上があの子を戸籍にお入れになったんじゃありませんか」


父は蔑む目をして何かを言いかけ、そして目を見開いた。リュシヴィエールと同じ空の色の青。後ろから聞こえた若く通りの良い溌剌とした声。こんなに背筋がぞっとしたことはない。幼さが残る声なのに恐ろしく硬く、抜き身のナイフのように尖っていた。


「お久しぶりです、侯爵様。お元気そうで何よりです」


エクトル、と笑顔で振り返ったリュシヴィエールは凍り付く。


エクトルは血まみれだった。片手に首を半分切断された兎の死体。もう片手には巨大なナイフを持っていた。白い刃がぬめぬめと黒い血に染まっている。彼の腰にはもう三羽、こと切れた兎がぶら下がっていた。うつろな白目が空を睨むのを見て、リュシヴィエールは悲鳴を噛み殺した。


エクトルは少し不思議そうにしたあと、合点がいったと微笑んだ。リュシヴィエールが自分を見て笑わない理由がわかったと。――ああもう。


「いったいどうしたらそこまで汚してしまえるの? エクトル、お行儀の作法は身に着けたと思っていましたよ」


ため息をこらえながらリュシヴィエールはエクトルに近づき、ハンカチで頬の血を拭う。つんと鼻にくる鉄のにおい、それに混じる彼自身の甘酸っぱい少年の匂い。彼女はなんだかんだと言ってもエクトルのことを愛しているのだから、目が慣れてしまえばそこにいるのはいつもの少年に過ぎなかった。


だが父親の方はみっともなく足を震わせ、怯え隠しが見え見えのカン高い声で叫んだ。


「こらっ、こらっ! そのザマはなんだ、ええ!? リュシヴィエール、リュシヴィエール! お前のせいだ! お前の責任だぞ、そいつが礼儀を知らんのは!」


リュシヴィエールは父に向き直り、スカートを摘まんで完璧なお辞儀を見せる。


「申し訳もございません――」

「ごめんなさい、父上。ついつい熱中してしまって、兎を追いかけすぎてしまったんです。僕が悪いんだ。本当にごめんなさい」


エクトルの小さな背中が前に出て、リュシヴィエールはぎょっとした。そりゃ、彼に任せて隠れてしまいたいと思ったことはあったがまさか実現するなんて。まだ小さな肩を慌てて掴もうとする間にも、エクトルはどこか舌足らずに続ける。


「ああ父上、僕は興奮しています。ちっとも会いに来てくださらないあなたにこうしてお会いできて。きっと姉上だっておんなじだ。そうでしょ?」


振り返る仕草で陽光にきらめく銀の髪。リュシヴィエールより色濃い青の目。さっきと打って変わって愛らしい子供の声だった。


「え、ええ」

「でしょう! ねえ、父上? 今日はいつまでいてくださるんですか? 色々お話したいです。今までのこと、これからのこと。……ああそれから、ねえ父上! 今はどちらにお住まいなんですか? この家を放っておいきになってしまうほど、きっと楽しいところなんでしょうねえ!」


もし彼がもっと大人であれば、痛烈な皮肉に聞こえたに違いない。リュシヴィエールは彼の腕を掴もうとしたが、肩に触れられなかったのと同じ、エクトルは素早い身のこなしでそれを躱した。いったいいつの間にこんな動きを身につけたのだろう? 人の意識の隙を突く、自然で優雅な動き方。


父はといえば、ぐうの音も出ない様子である。目の奥でちらちら計算が瞬くのがリュシヴィエールにさえわかった。これがゲームで有能な宰相キャラだった人だろうか? おもかげもない……。


「お、お前に言いたいことがある――」

「この僕に? 嬉しいです! ねえ姉上」


エクトルはくるりと反転してリュシヴィエールを上目遣いに見上げた。


「な、なあに?」

「僕と父上だけにしてください。父上が僕に構ってくださるなんてはじめてだもの。とっておきの時間を、ふたりだけで過ごしたいのです」

「いいえ、だめよ!」


彼女は反射的に叫び、目の前の少年の頬にようやく触れた。ひんやりと冷たく、りんごのようになめらかで、だが陶器のように白い頬だった。冷徹なまなざしが彼の言葉全部を裏切っていた。エクトルがクロワ侯爵を愛することは、決して決してないだろう。


「だめよ。あなたまだ子供じゃありませんか。父上にどんな粗相があってもなりません」

「姉上は僕のこと信頼してないんだ。ちぇ。ひどい。僕のお行儀はあなたに教わったんだのに」

「――猿芝居はもうたくさんだ!」


クロワ侯爵は大声を張り上げた。


エクトルはかすかに眉を震わせた。まるで王侯のように余裕綽々の態度だった。リュシヴィエールは絶句しているというのに、彼は彼女の前に出て小首をかしげる始末。


「お前たち、お前たちは、どこまでこの俺をばかにすれば気がすむのだ!」

「ごめんなさい、父上。お気に障ったなら謝ります。ただ、嬉しくて」

「この……っ」


父がエクトルを殴ろうとしたので、リュシヴィエールはその拳の前に立ちふさがろうとした。しかしできなかった。


彼女が何かをするよりはるかに早く、少年は戸籍上の父親である男の手首を掴み、ふっと小さく笑う声がした。


「落ち着いてください、父上。僕はあなたに何もしません。姉上もです。僕らはただの世間知らずな子供たちですよ」


父の全身が震えた。


「この屋敷で、姉上と暮らせるだけの金銭を用立ててくださっていることには感謝しております。ですからこのままお話を続けましょう――ご用件を」


どうしてだろう、どうしてリュシヴィエールの目にはエクトルは知らない人に見えるのか? 彼は見知った少年でなくなってしまったようだった。まるで目の前の大人の男に十分渡り合える力があると知っているような、そう、ゲームでヒロインを格好良く助けてみせたエクトルのような風情。まなざし。背中から発される威圧感。もし回り込んで顔を見れば、何度も何度も見返したイラストのように酷薄な微笑を、その美貌に浮かべているのだろう。


(まさか……)


彼女は直感的に悟る。


(まさか、まさか、まさか、もう!?)


エクトルは、クロワ侯爵を恐れないでいいだけの力を身に着けているのだ。――暗殺術を。少なくともフィジカルでしょぼくれた中年男に負けやしないとわかっているのだ。だから、彼は、こんな余裕を!


(噓でしょ噓でしょ噓でしょ……)


頭が回らなくなった。リュシヴィエールは棒立ちだった。エクトルがちらりとこっちを見て、はっと胸を突かれたような顔を一瞬だけ、する。彼は多分何かを勘違いした。おそらくは箱入り娘のリュシヴィエールが、目の前の後継に心を痛めるあまり動けなくなったと思ったのだ。違うのに。


前世の彼女は身一つでクレーマーに立ち向かったし、交通事故にもあったし、子供の頃からおてんばで親に手を焼かせていた。断じてエクトルが思っているような令嬢ではない、はずだ。なのにリュシヴィエールは動けなかった。


父が怖いのではない。怒鳴り声が怖いわけではない。そういう生得的な、身体の反応ではなくて――ああ、リュシヴィエールは彼を守れていたはずだったのに。彼女は知らなかったのだ。


(この子はゲーム通りの【冷徹な少年】になってしまうの?)


それはエクトルが紹介されたときのキャッチコピーで、ヒロインがその凍り付いた心を溶かすための設定で。リュシヴィエールはそれを許さないと誓ったはずだった。わたくしのエクトルはヒロインとの恋愛を盛り上げるためだけに残酷な過去を背負うだなんて? なのに結局、彼女の知らないところでものごとはゲームそのものになるように動いていたの?


(守れていると思っていたのはわたくしだけだったの?)


あまりの空回りにくらりときた、そのとき、ふっと背後に人の気配がして振り向くとティレルがいた。庭師の革のズボンに白いシャツ姿で、彼は肩をすくめる。


「こっちへ、お嬢様。ここにはいない方がいいですよ」

「そんな……だって、エクトルが。あの子が」

「はいはい」


と簡単に肘を握られテラスから連れ出される。それが悔しくてならないのに、どもりながら抗議しながら、テラスの二人をちらちら見るだけしかできない。


(わたくし、ってこんなに弱いの……?)


思考停止しそうな身体で、彼女は必死にもがいた。


「お、お放し、ティレル! 不敬ですよ!」

「ええ、そうでしょうね。でも侯爵の旦那はあなたより俺の方を取って、あなたの抗議を一笑するでしょう。お嬢様」

「な、なに?」


これと言って特徴のない顔、瘦せぎすの身体。なのにリュシヴィエールは彼の手を振りほどけないでいた。身体を抑え込むこつを知っている手だった。


「いい加減にしなさい」


リュシヴィエールは絶句した。彼女は貴族で、ティレルは平民だったからだ。そして気づいた。自分がこの世界の社会にあまりに馴染んでいることに。前世のアドバンテージを使いこなせないまま、幸せに浸りすぎていたことに。


「あんたが我儘放題に動くせいで、エクトルがどういう不利益を被るか考えたことはありますか?」

「え……」


彼女は動けないままでいる。ぽかんと無精髭の浮いたティレルの顔を見上げたまま。テラスから父の怒声と、エクトルの嘲るような澄んだ笑い声が聞こえる。空気中を舞う埃の群れがきらきらと綺麗だった。使用人たちは足音さえなかった。みんな知らんぷり。


ここはリュシヴィエールの生まれた家だったが、彼女の家族はエクトルだけだった。


青い目に涙が浮かび、やがて悲鳴のような嗚咽が漏れた。あーあ、とティレルは天井を見上げる。


「泣いてもすむ問題じゃないですぜ。あんたはいつだってあいつを赤ん坊扱いしたがるが、もうそんな時期は過ぎたんだ。十三歳。男の子ですよ。いい加減に手を放してやりなさい」

「だって、だって――!」


リュシヴィエールはひっひとしゃくりあげる。


彼女はもっと先手を打つべきだった。ゲームのストーリーが開始する前に、できることなんて無数にあったのに。たとえば王太子に接触して、王立魔法学園の庭師をしている男は実は先王の王弟であると伝えるだけでゲームでいう秋の王家お家騒動イベントを潰せただろう。数学の教師は病気を隠している。それがヒロインである伝説の【癒しの歌の聖女】を目覚めさせるきっかけになると聖職者に伝えれば、半信半疑ながらヒロインを発見、保護し、それだけできっとストーリーさえ変わっただろう。


できることはあった。だがリュシヴィエールは動かなかった。何故?


「わたくしたちはここにいるだけで幸せだったのに――!」

「人生、それだけではすまない」


ティレルはきっぱりと言い放つ。これまでリュシヴィエールにこれほど真摯に向かい合ってくれた人が果たしていただろうか? いなかった。いなかったから、今、こうなっている。


リュシヴィエールは使用人たちのことが好きだ。出入りの商人、稀に相談に訪れる領民、父のことだって母のことだって、呆れ果ててはいるものの好きだ。たとえ誰も彼女を助けてくれなくても……。彼女はエクトルが傍にいてくれればそれでいい。満たされて、幸せだ。だから他人のことをごく当然に好きだと思える、憎まなくてすんでいる。


だがティレルはそれではいけないと言う。


「人間、戦う力も持たずそのすべも知らずして生きてなどいけない。あんただってこのままこの家で朽ちていくなんて、本当に許されると思うのか? よく考えなさい。奴がどんなことを言い出しても、受け入れてやりなさい。それが家族としてのあんたの義務だろう」


まるでこれから起こることを知っているかのようだった。リュシヴィエールはイヤイヤとかぶりを振って、ティレルを突き飛ばした。そんなはずはないのに彼はわざとよろめいたふりをしてくれた。


リュシヴィエールは踵を返し、私室に逃げ帰った。ティレルの視線が背中に突き刺さり、それは彼女がよく知る目つきだったからひときわ堪えた。――人を憐れむ目だ。


そう、リュシヴィエールはこれまでたくさんの人をその目で見守ってきた。横柄な使用人の態度にも、アンナのうっかりにだって。全部、優しさから出たものではない。彼女はただ優しい自分が好きだっただけだ。エクトルに優しくする自分が好きなのと同じように。


部屋に入るとアンナがいて、リュシヴィエールの様子にぎょっとしてアワアワ駆け寄る。そんな少女に気を遣う余裕がなかった。それだけでリュシヴィエールの虚飾がいかに脆く脆弱なものだったかわかるというものだった。


彼女は寝台に突っ伏すと、金髪を振り乱して泣いた。

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