第2話


さて、いくら原作が乙女ゲームだったからといって、ここはただの現実である。


たっぷり泣いてわめいた記憶などどこかへやってしまったのか、あれから母であるクロワ侯爵夫人はエクトルを置いてさっさと王宮に戻ってしまった。もう戻ってこないだろうというのは、リュシヴィエールに前世の記憶がなくても使用人たちの態度でなんとなく察せた。


父であるクロワ侯爵はリュシヴィエールが床を転げ回って抗議したことなど意に介さず、エクトルを北の塔に入れてしまった。二百年も前に建てられたおんぼろの、かろうじて雨漏りは修理されたけれど日当たりの悪いじめじめした、ぜったい赤ん坊の環境としてはよろしくない場所へ。使われてないけれど地下牢まであるのだ。リュシヴィエールとしては許せないことだった。


そんなわけだったので、リュシヴィエールは強行突破を図ることにした。つまり家庭教師やメイドや侍女が口をすっぱくして遠ざけようとする北の塔に、彼らの目を盗んでこっそり足繫く通っているのだった。


「エルちゃーん、こっちおいでぇー」


と、パンパン手を叩く姉に弟はきゃらきゃら笑いながらはいはいして近寄る。その下に敷かれた絨毯も窓のカーテンも壁のタペストリーも、リュシヴィエールが自分の部屋で使ったあとのをひそかに侍従に運ばせたものだった。代金として装飾品やお小遣いの一部をくれてやり、他言無用を誓わせた。


父がどう思っているのかはわからない。元々あまり屋敷に寄りつかない人ではあったけれど、一応毎日寝に帰ってきてはいるらしい、くらいに存在感が希薄になってしまった。道や廊下ですれ違っても、かつてのようにリュシヴィエールに元気かと笑ってくれることもない。……母のしでかしたことに、心を閉ざしてしまったようだった。


リュシヴィエールとしては父に優しくしてあげたいが、今まで以上に侯爵として事業に打ち込む父に会いに行ってもすげなく追い返されるだけ。心の傷が癒えるまで待つしかないようだった。


淑女としての教育が終われば自由時間である。そのほとんどを赤ん坊の相手をして過ごすことに苦痛はなかった。おしめも変えるしガラス瓶からミルクも飲ませる。気分はすっかり母親である。


「おう、お嬢さん。今日も来てたんですか」


キイ、と音を立てて部屋の扉が開き、ティレル・コガンが笑った。


偽名なのかもわからないほど特徴のない名前と、見た目。中肉中背に誰の印象にも残らないような平凡な顔のティレルは、北の塔周辺の庭の管理を任されている庭師だ――というのは名目で、実は多数の部下を束ね侯爵に情報を提供する密偵頭である。それだけでなく、エクトルに暗殺術を教えられるくらい腕の立つ暗殺者でもある。


リュシヴィエールの目下の目標の一つは、ティレルがエクトルを暗殺者に仕立て上げないようにすることだった。なんでってエクトルルートの血生臭さは確かにストーリーをシリアスにしたけれど……ぶっちゃけその設定、必要だった? て首を傾げる意見が多かったりもするのだった。


正直、暗殺術とやらが活躍したのは姉を殺したスチルのシーンくらいである。学園でのヒロインのなくした生徒会の書類探しイベントだとか、むしろ密偵としての技術の方が目立っていた印象が強い。


エクトルの生存に暗殺術が必須でないのなら、リュシヴィエールは絶対そんなもの習わせない。


ただ、残念ながらティレルによる指導がエクトルが何歳の時に始まるのか、これがわからない。ゲームでもそのへんはぼかされていた。やっぱり悲壮感を盛り上げるためだけの設定だったんじゃ……。


リュシヴィエールはとびっきりの笑顔をティレルに投げかけた。


「うん。エルちゃんね、ときどきたっちするのよ。もうすぐ歩き出すかしら?」

「ははあ。ま、そろそろじゃありませんかね」

「なんでティレルがそこをわかってないのよ。わたくしはこられるのは一日数時間しかなくて、とくに夜はおまえが添い寝してあげるしかないんだもの、おまえが一番この子のことをわかっててくれなきゃ困るじゃありませんか」


まるきり乳母に文句をつける若奥様である。


降参降参、とティレルは両手を挙げた。


「悪ぅございました。ご心配になるようなことはございませんよって。――といっても俺ぁ妻子がおりませんからねえ。たまたま弟妹が多うございましたんで、子供に慣れてて、旦那様からお世話を命じられただけですんで」

「信頼されているのね。いいことよ」


と言うだけにとどめた。本当は信頼どころか、ティレルはクロワ侯爵家になくてはならない人材である。密偵を束ねる彼がいなければ、クロワ家はたちまちのうち政治競争に負けてしまうだろう。


リュシヴィエールが抱き寄せると、エクトルは大喜びで姉の金色の髪の毛を掴み、引っ張り出した。


「エルちゃん、痛いからやめなさい。――そうだ、今日は絵本を持ってきてたんだった。はいこれ。ティレル、字は読める?」

「はいぃ? え、まあ読めますが」

「今日から夜寝る前にこれを読み聞かせてあげてね。字を覚えるのにいいのよ」

「は、はあ。なんですって?」


彼は薄っぺらい絵本を矯めつ眇めつしたあと、


「お貴族様はこんなもんを使うんですねえ……」


と感心する。リュシヴィエールは胸を張った。


「そうなのよ。わたくしも使っていたものなの。――本当はエルのために新しく買えないか、予算は組まれていないか家令に聞いてみたの。でも、ないのですって。そんな余裕は。失礼しちゃうわ。クロワ家のような名門家庭が、どうして子供に使う程度のお金もないと言うのでしょう」


リュシヴィエールは悔しさのあまり爪を噛んだ。


「忌々しいったら。エルはわたくしの弟よ。父上が戸籍にお入れになったんだもの。名実ともに我が両親の子。わたくしが成人して、自分で管理できる財産ができたら、エルの欲しがるものはなんでも買ってあげるつもりよ」


ティレルはちょっと面白そうに眉をあげる。彼の目にリュシヴィエールは大人の事情に精通した、奇妙に達観した少女に見えるのだろう。その一方でやれやれ、と思っているのが子供心にも感じ取れる。お嬢さんが物珍しいおもちゃに興奮していなさる、いつまでこの関心が続くことやら、と。


リュシヴィエールは作り物めいた笑みでにっこりした。


「わたくし、なんとか父上にお願いするつもりなの。この子をお屋敷に入れてあげてくださいって。そしたらわたくしの家庭教師だって教育を断るわけにいかないわ。うんと言うまでわたくし、泣きわめいてやるんだから。そしたらこの子の将来だって少しは明るくなろうというものよ。でしょ?」

「いったい全体、どこでそんな知恵をつけたんですか、お嬢さん?」


原作ゲームで見たもの。と思いつつ胸を張った。


「侍女たちの噂話を盗み聞きしたのよ!」

「そりゃあ、怖いお嬢さんだ」


と彼は苦笑するのだった。


そうして矢のように月日は過ぎていった。子育ては毎日が戦場、と呟いた前世の姉の気持ちがよくわかった。それでもリュシヴィエールがエクトルに関わったのは休日や授業の合間だけで、そのほかの時間はティレルやその密偵仲間らしい使用人姿の誰かしらが見ていてくれたのだから、頭が下がる思いである。


お茶会デビューも社交界デビューも果たした。王宮から侍女の誘いが来たこともあるが、クロワ領キャメリアを離れようなんて気は起きなかった。ただエクトルの傍にいたかった。


父は一年の大半を愛人の家で過ごす。母も王都で大切な恋人と、もしかしたら新しい子供たちと仲良くしているようだった。


そんな父母の現状を見ても、リュシヴィエールの胸に悲しみは訪れなかった。そんなものが入る隙間がないくらいエクトルが可愛かったのもあるし、八歳のあのときの諦めが――大人だった頃の記憶が、すっぱりと全部に軽蔑という名の別れを告げてくれていたのもある。クロワ侯爵夫妻よりも前世の自分の方が、よほど仕事や大人としての責任感があったとリュシヴィエールは思う。


仕方ないことなのかもしれない。父母はどちらも十代で親に政略結婚させられ、愛どころか恋も知らないままリュシヴィエールを産んだのだ。ようやく自由になったように感じているのだろう彼らを、まあ普通その幸せは子供を(特に男の子を)産んで成人するまで育ててから味わうものだよ、とは思うものの、憎んでいると言えば嘘になる。


もうなんの期待もしていない。それだけ。


十二年が過ぎ、リュシヴィエールは二十歳に、エクトルは十二歳になった。


アルトゥステア歴七百十二年の、五月十二日。さわやかな風の吹く午後の中庭でリュシヴィエールは憂鬱なため息をついた。いやな客を出迎えねばならなかったのだ。


中庭にしつらえられたテーブルセットは貴族令嬢たちのお茶会そのものだったが、出されている食器や花瓶の質はさほど高価でもない。


いやな客、というのは求婚者だった。どこかの子爵家の放蕩息子。本来ならリュシヴィエールに求婚できる立場の青年ではない。彼と生家に借金があることも、領地経営が破綻し農地が抵当に入っていることも貴族社会では公然の秘密だ。普通なら父親が断るべき相手だった。しかしながらリュシヴィエールには、守ってくれるべき親がいない。


乙女ゲームに限らず恋愛ゲームって都合よく親がいないことが多いよね……と遠い目をする。親のない、侯爵家の世間知らずのお嬢様は、格下貴族でもギリギリ手が届く逆玉の輿候補として界隈で有名らしかった。


「こんにちは、リュシヴィエール嬢! 今日もあなたは水晶の珠のごとくお美しい」


と、第一声がそれである。きらきらしい装いをしているが、上着はどう見ても父親のお下がりらしい古めかしさだし、シャツの前面が絹で背面が安い綿である。頭も整髪料をつけすぎててらてらしている。のっぺりした白い顔には、こちらを見下しすぎて子供扱いした笑顔が張り付いていた。


「私の恋文は読んでくださいましたか? ぜひともお返事をいただきたく、居ても立っても居られず参上したのです」

「左様ですのね……」


と、気のない素振りを見せ、リュシヴィエールは扇で顔の下半分を覆った。社交界であれば察した男はこれだけで離れるところだ。


放蕩息子もそれはわかって、あえて無視をしてまま天気の話など始めた。すでに退屈だ。顔見知りの貴婦人からの紹介なので、断り切れないのを知ってぐだぐだと居座って。


「最近、雨が多かったですねえ。令嬢はどのようにお過ごしでしたか?」

「特に何も」

「ははあ、雨音を聞きながら家でくつろぐのも良い時がありますもんねえ」

「左様ですわね」


自然、会話もこんな調子である。


リュシヴィエールは扇で表情を読ませず、足を組み、視線を外し、言外に早く帰れと告げているのに、だ。


それでも彼はまだましな方だった。何せ無理やり迫ってこないのだ。


家に親がいないという目に見えた欠点のせいで、リュシヴィエールには変な縁談ばかりくる。いわく、すでに内縁の家族がある成り上がりの商人の妻だの、没落した伯爵家の七十の当主の後妻だの。いつぞや無理に手をとられ、手首に痣が付くほど引っ張られたときは思わず悲鳴を上げてしまった。それからだ、あの子が困ったことになる前に飛んでくるようになったのは。


「――姉上ぇ! 見てください、こんな綺麗にピン留めができました! 見て見て。ねえ、姉上!」


と、元気な、元気すぎるくらいの元気を装った声がした。


男女は揃って屋敷の方を振り返った。丁寧に手入れされたバラの花壇を猟犬のように飛び越え、エクトルは俊敏にテーブルに駆け寄ってくる。


十二歳のエクトルはすんなりした手足の少年だった。この年頃にしては体格がよく、十五歳にも見える。手足は伸びやかでしなやかだ。短い銀髪がさらさら揺れ、日光を反射して冠状にきらめいた。


放蕩息子は身構えたが、すぐにエクトルの顔が少女じみた美貌であることに気づき、侮った表情を浮かべた。


(馬鹿男)


リュシヴィエールは音を立てずにお茶を啜った。ほっと胸を撫でおろしている自分がいた。十二歳の弟にそんなふうに頼り切るなど、父母を軽蔑できない。


「姉上、これ……あれ、お客様でしたか。失礼いたしました。リュシヴィエールの弟で、エクトル・ド・クロワと申します」

「あ、ああ。よろしく」

「姉上、ホラ。どの蝶々かわかります?」


と手渡されたのは、蝶々の標本である。きちんと乾燥され、ガラスの封がされた標本ケースに入れられている。虫食いや湿気崩れのひとつもない、見事なものだった。


「ロクス蝶ね。よく捕まえたわね」

「姉上に見せたくて頑張ったんですよ」

「ふふ。ありがとう。嬉しいわ。部屋に飾ろうかしら……」

「あ、じゃあ暖炉の上がいいですよ。あそこなら湿気は寄り付きません。カビた蝶ほど見て悲しくなるものはありませんからね」

「あー、エヘンエヘン」


と放蕩息子は咳払いして、


「弟御は姉上思いなのですな。すごいことです。うちの弟にも見習ってほしい……」


と、再び長い話をはじめた。姉弟は揃って同じ青い目でその話を拝聴し、男が話し終わると再びきょうだいだけに通じる会話をし始めた。使用人の誰が誰とああした、こうしたといったいっそ下世話な話を。


男が鼻白むのはせいせいした。できるだけこの無礼な小娘と小僧の話を広めてほしいものだ。その方が困りごとが少なくてすむ。


苛立った男が乱暴に席を立ったの十分もしないうちである。最後に、


「人が優しくしていれば付け上がりおって。そんなんでは結婚できんぞ!」


と叫んでどかどか消えた。


リュシヴィエールは扇の裏でその背中に舌を出してやった。片手ではしっかりとエクトルの手を掴み、彼がつまらない喧嘩を買わないように留めていた。


「……やっと行った。遅くなってすみません、姉上」

「いいえ。来てくれてありがとう。助かったわ」


エクトルは拳を握りしめて俯く。リュシヴィエールは遠慮なくその銀髪を撫でてやった。そうして悔しさを噛み締めた顔をしていても、エクトルの顔はどこか女性的で――どことなく母に似ていた。スカートを履かせたら女の子に見えるだろう。ようやく筋肉がついてきたところだけれど、まだ硬い線には程遠い。本人はそれを嫌って銀髪を短く切り、わざとむっつりした表情を作って女の子らしい雰囲気を出さないようにしているが。


屋敷からメイドたちがぞろぞろ出てきて、てきぱきとテーブルを片付けた。


当主に新調の許可を取りようがないので屋敷のものは徐々に古びていっていたが、それでも使用人の給料などは銀行の担当者がきちんと処理してくれているし、父に入る領地からの収入からリュシヴィエールには予算が割り当てられる。……エクトルのぶんは、残念ながら一度も出たことがない。


それだけでもありがたいと思わねばならなかった。母の王宮から出る侍女としての給金は全部彼女自身の衣装や化粧品に消えてしまい、一度も持ち帰ってくれなかったのだから。


姉弟は手を繋いで北の塔に帰った。そこにはティレルがちょっとしたスープを作って待っていて、じきに係のメイドがパンとなんらかのおかずを持ってきてくれる。


「よーう、お帰りなさいまし、お嬢さんに坊ちゃん。スープが煮込み上がってますよ」

「やったァ。今日のティレルのスープだったのか。ティレルは具材をケチらないから好きだ」

「おお、嬉しいこと言ってくださるねえ」


目を細めて笑うティレルは十二年分年老い、エクトルという赤ん坊を少年まで育てた経験あってかずいぶんと丸くなった、ようにリュシヴィエールには見える。これが十二年前だったら鼻で笑いつつごく慇懃な文句で歌うように返答していたはずだ。


もう父母は家にいないのだからとリュシヴィエールは何度もエクトルを屋敷に誘ったが、彼が首を縦に振ることはなかった。


「もうここに慣れちゃった」


のだという。


「そんな悲しいこと言わないで」


とリュシヴィエールが言ったら、むっとした顔をした。


「ここが俺の家で、ティレルが親だよ」


ときっぱり言い切るエクトルの後ろ、ティレルは苦笑いをしていた。


ゲーム通りであれば、エクトルは今頃リュシヴィエールに蝋燭の火で炙られ、汚水を浴びせられ、母を返せ父を返せと怒鳴られ続けていたのだ。わたくしの家族を返せと。


エクトルはそれに苦しみながらも、正当な怒りに狂うことができるリュシヴィエールをひそかに羨ましく思った。正当な子供への憧憬。それは彼とヒロインが結ばれても溶けることはなく、ヒロインと結婚して家庭を持つ夢の足掛かりになった。


(北の塔は……相変わらず湿気てて寒いけれど。この子の抱くだろう寂しさを少しでも埋めているかしら?)


今のリュシヴィエールはどうしてもそんなことを考えてしまう。


ゲーム通りにエクトルを育てないと決めて、実行していることに後悔はない。だってあんな寂しい、苦しい人生をこんないい子が送っていいはずないもの。ゲームではティレルまでエクトルを軽んじ、ただの手駒として扱った。今スープの味見をしているティレルが、ときどき目を細めてエクトルを見つめているのをリュシヴィエールは知っている。そのまなざしがかつて甥と姪を見つめた前世の自分に似ているのを知っている。


(わたくしだけじゃない、いろんな人たちがあなたのことを一人の人間として見て、認めていてよ、エクトル……)


リュシヴィエールはぐるりと部屋の中を見渡した。他ならぬ彼女が冬を前にした小動物のようにせっせと物を運び込んだおかげで、いつの間にかここは大き目の子供部屋のようになっていた。


天井からカラフルなシャンデリアもどきの玩具が吊り下がり、魔法灯がほのかな赤い光を放つ。絨毯や肩掛け用の毛布は色も素材もまちまちでいかにもありあわせ、だがもう目が慣れてしまっておかしさを感じない。本棚には絵本から初歩の教本、果てはリュシヴィエールの趣味の恋愛小説までがずらりと並ぶ。エクトルの趣味のパズルや数学の本も。


コップや食器は必ず四、五組ある。エクトルのとリュシヴィエールの、それからティレルの、ティレルに会いに来た『使用人仲間』――つまりは密偵の部下が来た時に出すためのもの。


そのうち、暖炉を改造して竈にしようという話が持ち上がることもある。ここでパンを焼いて、焼き立てを頬張るのだと。


ここはリュシヴィエールが作り上げ、ティレルが運営するエクトルの家なのだ。


メイドがやってきて一階の玄関口の鈴を鳴らすので、ティレルがよっこらしょと立ち上がり急な螺旋階段を降りていった。吹き抜け構造の北の塔は大部分が石が剥き出しのまま、最下層の地下にはまだ牢の名残りの鉄格子さえそのままにされている。最上階にあたるこの部屋だけが、家庭らしい温かさと色彩に満ちていた。


ゲーム通りであればティレルは今でも、父である侯爵に姉弟の様子を報告しているのだろう。それはもちろん、そうしなければティレルが危ない。彼はそうやって生きる他ないのだから。止める権利はない。けれど……。


(ティレルもこの生活を少しでも楽しんでいてくれたら、いいな)


とリュシヴィエールは思うのだった。エクトルが自分を愛してくれているのは疑いようもない。かわいい子、世界で一番大事な子だ。だがいつの間にか彼女にとって大事なのはエクトルだけではなくなっていた。ティレルをはじめゲームでは文字通り背景扱いだった使用人たちのことも、人間として慕わしい。年に勝てずに退職した乳母が死んだと手紙が来たときは泣いた。クロワ侯爵領キャメリアはリュシヴィエールの故郷であり、今となっては融合した前世の記憶ごと、愛する場所だった。


暖炉の火を調整するエクトルのまだ細い背中を彼女は見つめる。火かき棒を片手に鼻歌を歌って、食事を楽しみにするごく普通の少年の背中。貴族の血を引くだけの、何の責任もないただの庶子のようだ。


(この子にティレルがただの庭師じゃないって、ばれないようにしないと)


リュシヴィエールは目をつぶって考えた。


(彼のことを父親とも思っているんだもの。それが裏で父上と繋がっていただなんて。きっと悲しい思いをするわ)


「姉上? 準備できたよ。座りなよ」

「ええ」


彼女は頷いて、粗末な木の椅子に腰かけた。ティレルがゆっくりと階段を昇ってくる足音。


気が抜けて敬語も抜けているエクトルの美しい顔……。


「ねえエル。ティレルにはもう、ここの階段は辛いんじゃないかしら? 昔より音がゆっくりだわ。この前も膝が痛いと言っていたし」

「え? ううーん、どうだろう。ティレルはまだまだ元気だと思うよ」

「誰でも寄る年波には勝てないものよ。ね、エル? だからね、あなたもそろそろ屋敷の中に住んで、ティレルには楽隠居してもらいましょうよ」

「ああーっと、はいはい。ティレルが来たよ、姉上。――ようティレル、ありがとう。スープよそったよ」

「ああ、ありがとうございますわ、坊ちゃん。戸口までお出迎えたあ嬉しいねえ。猫でも犬でも出迎えは嬉しいもんなのに、主君筋の坊ちゃんがとはねぇ」

「はいはい。そんなに言っても肉はやらないよ」


と、親子のようにエクトルとティレルは笑い合う。リュシヴィエールはこれ以上何も言えず、ただティレルのぶんの椅子を引くのだった。


もしクロワ邸にエクトルを引き込んでしまえば、名目上とはいえ庭師のティレルとは離れて暮らすしかなくなる。エクトルが頑なに屋敷に住むのを拒むのは、案外そんな理由なのかもしれない。


だが事実としてエクトルが屋敷に住み始めれば、父だって彼の存在をこれ以上無視できなくなるだろうとリュシヴィエールは考えていた。なんとかうまく、ゲーム通りではない人生への道を見つけてやりたい。


そのためにはむかつくけど、ほんとに腹立つけど、父の権力と権威に縋るのが一番の近道だ。母はあてにならないんだから、クロワ侯爵の関係者、せめて庶子くらいの立場にいないと将来はない。


エクトルは農民の子ではなく、畑を耕せないのだからどこかの小作人になって生き延びることはできない。リュシヴィエールとしては、どこかの書記官か役人にでもなってくれたら万々歳だ。魔法学園なんて行かなくていい。ぶっちゃけ、ヒロインに取られると思うと父に頭を下げることを思う以上にむかつくし。暗殺術を教わりづらくなるという点も魅力的だ……。


そんなリュシヴィエールの思惑もどこ吹く風、エクトルは大喜びでパンのかたまりをナイフで切り分けている。


まだ温かいパンと肉団子を串にさして焼いたもの、サラダがあって、スープは魚の骨で出汁を取ったところに大き目のにんじんと玉ねぎの削ぎ切りを加えたものだった。塩味が、肉や野菜の旨味が冷えかけた身体に染みた。


食事中は身分や立場の差など忘れ、人目を気にせず三人ともがはしゃいだ。チーズをのっけたパンを暖炉の火で焼いてみたり。リュシヴィエールは屋敷では行儀が悪いと叱られてできないスープのおかわりと試み、エクトルと競うようにして食べた。ここで食べると普段よりたくさん食べられるし、お腹も苦しくならないのだった。


楽しい時間は過ぎ去り、夜の小道をリュシヴィエールは屋敷まで帰る。短い道のりを心配して、エクトルが屋敷の裏口まで送ってくれる。


「静かに、静かによ。誰かに見られたら大目玉だわ。おまえはここにはいないことになっているのですからね」

「俺のことはどう見えるんだろう? 逢引相手の騎士? 秘密の命令を受けたばかりの魔法使いかな」

「背が高いから厩番かも」

「どうしてさ!」


と冗談を言い合い、けらけら笑い、姉弟は夜風から互いを守るようにして道を急いだ。


使用人用の通用門は北の塔から丘をふたつ、越えた先にある。粗末な木の門の戸は壊れたままになっていて、誰かが装飾を剥がした後も生々しい。


「おやすみなさい、エル」

「うん。おやすみなさい。リュシー姉上」


別れ際の一瞬。エクトルは素早くリュシヴィエールを引き寄せると、唇に口づけた。


「あ、」


と諦めの声が小さく漏れる。


「やめなさいと言ったでしょう」

「でもしたかったんだ。仕方ない」


エクトルの手の力は強かった。吐息はこの距離だからわかるが少しだけ早く、きっと心臓の鼓動も早い。決して逃がすまいとしてくる気迫に、内心リュシヴィエールは怯えた。


――これは決して収まらない彼の悪癖のひとつ。母親に捨てられたからだろうか、姉以外の年頃の女をあまり見たことがないからだろうか。エクトルは一日の終わりにこうして口づけをする、といつからか決めてかかり、決してその誓いを破ることはなかった。


やめさせようとするリュシヴィエールの抵抗も説得も、残念ながらこれに関してだけは成功しなかった。他のことなら従順にやめるのに。


十二歳にしては背が高い彼に掴まれてしまえば逃げられないまま、他人には決して見せない暴虐を見ないふりするしかない。明日には何もなかったかのように笑うしかない。


エクトルの青い目のふちに銀色の光が浮かんで、消えた。それはロンド王国の貴族に流れる古い血の証のひとつ。七百年前の建国王の目にもあったという銀色だ。


リュシヴィエールは突き飛ばすようにしてエクトルから離れた。あは、と調子はずれな声で弟は笑い、


「また明日、姉上」


と穏やかに微笑んで屋敷に入る姉の後ろ姿を見送った。リュシヴィエールの金の髪の残滓が消えるまで、彼がそこを動くことはなかった。


自室にひっこんだリュシヴィエールは、鍵をかけてようやく一息ついた。心臓がばくばくと音を立てる。使用人の物音は聞こえない。屋敷は静まり返っている。


使用人たちはみんな知っている。リュシヴィエールお嬢様がこっそり北の塔に通い、ほとんど半分住んでいることも、そこには奥様が産み捨てた男の子がいることも。なんならほっそりした身体を保つためといっていつも夕食を食べないお嬢様は、屋敷の食事より北の塔のごっちゃ煮を気に入っているということも、公然の秘密だった。


知っていて、何も言わない。彼らにとって大事なのは勤め口と給料である。それがなければ生きていけない身分の人間たちだから。


リュシヴィエールは音を立てないように寝支度を整えた。そのうちに頭が冷えた。エクトルのあれのことを強いて思い出さないようにする。考えをうつろわせるのは得意だった。頭の中をからっぽにするのだ。別のことに集中するのだ。


壁の前に立つと、水魔法盤を見つめて頭の中で日付を整理する。


アルトゥステア歴七百十二年の、五月十二日はあと数時間で終わる。


(まだ時間はある)


とリュシヴィエールは思う。


すべては三年後だ。三年後、アルトゥステア歴七百十五年。ゲームの時間軸通りにストーリーが進行するなら、十五歳のエクトルは王立魔法学園に入学することに決まる。新年を前にした十二月の末、突然クロワ侯爵が家に戻ってきてそれが決定事項だと告げるのだ。


裏でなんの事情が動いたのか、リュシヴィエールは知らない。知っているのはタイムリミットまでにエクトルの未来になんらかの道筋をつけなければ、彼はヒトキミの世界に取り込まれるだろうということだけ。


アルトゥステア歴七百十五年四月から、ヒトキミの物語は始まる。


「ヨーロッパふうの世界なのに、新学期は春なのよね」


リュシヴィエールはひとりごちた。ヒロインとエクトルの初対面のスチルは、ピンクの花びらが舞い散るどう見ても桜吹雪の中、すれ違って振り返る少女と少年……という一瞬を切り取ったもので、とても綺麗だった。


(もしエクトルが魔法学園入学を拒否したら、どうなるんだろう? 反対に、ストーリー通りヒロインと出会えば彼はゲームキャラのエクトルそのものになるのかしら? 彼は彼女に恋するの?)


そう思うとざわざわした不愉快さがリュシヴィエールの背筋を這い上る。隠しキャラを入れて六人の男と恋愛する可能性がある女に大事なおとうとをとられたくなんてない。もちろんエクトルがヒロインを選べば別だけど。


ヒトキミは攻略キャラ同士の対立イベントもあるゲームだった。メインストーリー自体もけっこうドロドロしていて、姉上と呼ばれている立場の女としては少年を放り込みたくない環境であることに違いはない。


この世界がどうなるかなんて、彼女の両手の範疇外だ。それでもひとつだけ、確かなことがある。


(――人の血なんて、浴びなくていいの、エクトル)


そう。彼を暗殺者になんてしない。そのことだけは。絶対、外さない。


そもそもストーリーの中でエクトルが暗殺術を使う描写が全然なかった時点で、暗い過去があってもなくても同じなのだ。なんだかキャラづけのために彼に辛い思いをさせたスタッフにまでむらむら腹が立ってきた。前世の記憶と創作物への愛情と、この世界で育つのを見守ったエクトルへの愛情がごちゃごちゃになる。リュシヴィエールはいつだってエクトルを思うとぐちゃぐちゃになる。


エクトルに血みどろの過去いらない。そうでなければ生きられないならともかく。


今のエクトルは人を殺したことはない。あの子がそんなことをしていたらリュシヴィエールには分かる。それに――政敵が次々暗殺されるのだったらクロワ侯爵家の暮らし向きはもっとずっといいはずだ。


(父上、原作のクロワ侯爵より弱腰で逃げ腰があるのよね)


エクトルを冷徹に使い潰すゲームの侯爵より、かなり弱弱しい父の顔をリュシヴィエールは思い浮かべた。ゲームでの彼は政治闘争のため妻をいやいや許し、王の妾の侍女としての妻の立場も利用して、宰相の地位にまで上り詰めるのだ。ところが今のクロワ侯爵は、愛人宅に入り浸るただの腑抜けた没落寸前貴族である。


財産の管理はなんとかリュシヴィエールがこなしていたが、見様見真似の帳簿付けはいかにもおぼつかない。家令は助けてくれるものの、やはり当主である父が農地の見回りにさえ行かないのでは管財人や地主たちの横領もかなりの額に上るだろう。


それに――父が送金を止めようと思えばいつでも止められるのだ。そんな不安定な基盤の元に生きていくのはあまりに心もとない。


財産はおそらく、エクトルの成人くらいまではもつ。けれどそのあとのことは……またそのとき、考える他ない。


エクトルはごく普通の少年だ。ちょっぴり姉への依存度が高いが、父母に見捨てられたのだからそうなるのも当然。このまま普通に育ち、ヒロインにもストーリーにも関わらず、いつか市井で穏やかに生きていく方がいい。いいに決まっている。


リュシヴィエールは手鏡を手に取った。びっくりするほど綺麗な顔の女がこちらを見返しており、彼女はまだこの美貌が自分のものだなんて信じられないでいる。今のところメリットよりデメリットを受ける方が多いけれど。この前も侍従の男が何やら不埒な誘い文句を口にしてきて、身分違いとは不敬なと怒鳴って叩き出した。平民にさえ舐められ、誘ってもいい対象として侮られる親なし令嬢。構うものか。


「頑張るの。頑張るのよ。エクトルのために。彼を幸せにするの。自分でそう決めたんだもの」


にっこりすると鏡の中の美女もにっこりした。自分の顔が好き、だなんてまったく滑稽で、誰にも言えない秘密である。へへ。


リュシヴィエールは魔法灯を指先で消すと、寝台に入った。朝の執務は頭が痛いばかり、午後の求婚者はとんでもなく面倒だったけれど、それ以降は全部が楽しかったから――ぐっすり眠れそうだった。


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