第7話 ワタシノ?
晩御飯を食べ終え、お母さんと協力して後片付けを済ませ、学校の課題も無事に終えたわたしは、リビングで座椅子に背中を預け、ぼんやりとテレビを観ていた。
明日も朝早くからお仕事があるお母さんは先に寝室で眠りについている。
わたしは、とりあえずお風呂に入らなきゃ、なんて考えて、ドライヤーの長さや保湿の手間を考えて少し億劫になっていると、リビングに足音が近づいてきた。そちらに、目を向けると程なくしてれんが顔を出す。普段は自分の部屋に閉じこもっているれんが食事以外でリビングに現れるのはかなり珍しい。
わたしが少しの驚きと共になにか声をかけるべきか逡巡していると、れんは顔を下に向けたままこちらに向かって一目散に歩き始め、勢いよく。
わたしの膝の上に収まった。
一瞬でテレビが視界から消える。身体が揺れて、心も揺れて、れんの唐突な行動はわたしの精神にも肉体にも大きな衝撃を与えた。
「あの、れん、これは……?」
「昔はよく、こうしてた」
「それはそうだけど……」
たしかに二人がまだ小さかった頃は、こうしてわたしの膝の上にれんが乗ってアニメを見ていた。けれど今は、体格とか、関係とか、なにもかも違う。昔はわたしの身体にすっぽりと収まっていたれんの身体もいまではわたしより大きくなって、テレビはれんの背中で観れないし、れんの方も長い手足を持て余している。
「嫌ならやめる」
「嫌ではないよ」
困惑が勝っているだけで嫌ではなかった。れんの身体はわたしよりも大きいけれど、すらっと引き締まっていて、重かったり苦しかったりは全然なかった。
「じゃあ、このままで」
そういってれんはこちらに身体を預けてくる。その動きはいつものなめらかでスムーズな動きとは違い、硬くてぎこちないものだった。
一体どういう風の吹き回しだろう? 頭の中を疑問符が飛び回る。血液が身体中を駆け巡る。れんは重くないけれど、心臓がなぜかドクドクとうるさくて、それだけが苦しかった。それによって息苦しかった。
「れん、急にどうしたの?」
その苦しさを少しでも逃がすようにわたしは尋ねる。
「べつに、どうもしない」
いつもと同じように冷たい口調。それなのに、距離感だけがいつもと違って近すぎる。
「そうなんだ」
全然緩和されない鼓動の隙間でそんな相槌を打つのがやっとだった。
「それより、手」
「て?」
「前は、こんなんじゃ、なかったと思うんだけど」
詰問するような口調でれんは呟く。
「ごめん言ってる意味が」
「もういい」
そう言うやいなや、れんはわたしの手を取って、脇の下を通して、れんの身体の前に組ませた。
「れん……?」
わたしは思わず疑問の声をあげる。
「前は、こうだった」
確かに、言われてみれば、小さい頃はれんを膝の間で抱きしめるように座っていたけれど、今は事情が違う。お互いに大きくなった今は、昔みたいに微笑ましい構図というよりはむしろ、抱擁とか、バックハグとかそういった語彙が似合う絵面になってしまっていた。
「嫌ならやめるけど」
さっきと同じ、いつも通りの冷たい言葉。けれどさっきとは違い、れんの声には少し不安がちらついているような気がした。わたしは本能的にれんを安心させたくなって告げる。
「大丈夫だよ」
そういって、見えないだろうけれど微笑む。それから、昔のようにれんの頭を撫でる。昔と違い短くなった髪は、お風呂上りなのか少し湿っていて、指を通す度にシャンプーの匂いが飛び散った。わたしと同じものを使っているはずなのに、やたらと甘い匂いがした。
れんは気に入ってくれたのか、カチカチだった身体の力が徐々に抜けていった。少し無理のある体勢だったけれど、それはさして問題じゃなかった。無理なのはわたし自身だった。
先ほどの言葉とは裏腹に、全然大丈夫じゃない。
密着度はさっきよりも格段に増して、柔らかな体温や、触れる肌の滑らかさは暴力的だった。照明の光が目の中でチカチカと瞬いた。テレビの音は全く聞こえなかった。
そして、大変なことになっている鼓動に追い打ちをかけるように、れんは呟く。
「もっと」
いつも通りとは程遠い甘えるような声色。それを聞いて、いよいよなんだかいけないことをしているような気分になる。冷静に考えたら姉妹で仲睦まじく同じ座椅子に身体を預けているだけなんだけど、それにしてはわたしの鼓動は早すぎるし、れんの言動は甘すぎる。
恐らく、普段は氷のように冷たいれんが珍しく甘えてきたから温度差でそう感じてしまうのだ。わたしは勝手に一人で理屈を立てて納得する。れんの様子が普段と違うせいで、つられてわたしもおかしくなってるだけで、鼓動が早いのも、顔が熱いのも、匂いが甘いのも、全部至って普通のことだ。
そう考えると、少し余裕が出てきて、久しぶりにお姉ちゃんっぽいことを言いたくなった。
「それにしてもれんは随分とおっきくなったねぇ」
「べつに」
れんはいつもみたく素っ気なく答える。わたしは尚もお姉ちゃん口調を続ける。
「けど、おっきくなったわりに今日はなんだか随分と甘えたさんだねぇ……」
内心でちょっと調子に乗りすぎたかな?とれんの様子を伺う。
「別に甘えてないし。普通だし」
れんはやっぱりいつも通り冷たく言い放つ。けれど身体はこちらに預けたままで、わたしが頭を撫でやすいように首をすくめている。
そんな様子がただただ微笑ましくて、可愛くて、気づけば先ほどの熱病に冒されたような鼓動はどこかに消え去っていた。ただ久しぶりの姉妹水入らずを楽しんでいた。
わたしの膝の上に座るれん。抱きしめるような体勢で随分と高い位置になった頭を撫でる。そんな暖かで奇妙な時間が流れていた。その可笑しさがただただ愛おしかった。どれだけ背が伸びても、綺麗になっても、れんはわたしの妹だ。お姉ちゃんが守るべき、小さな小さな妹だ。そんな姉としての実感に浸っていた。すると
「ラブレター、貰ったの?」
れんが無機質な声で尋ねた。
「う。うん。なにかの間違いかもしれないけど」
「そっか」
そんな呟きが放たれて、テレビの雑音に吸い込まれて、程なくして、
視界が一変した。
膝の上に座っていたれんがくるっと反転して、わたしと向き合う形で、わたしを座椅子の背もたれに押し付けるような形で正対した。大きな身体がわたしを覆うように、もたれかかってきた。
わたしは見上げるように急接近したれんの顔を見つめる。その猫を思わせるような大きな瞳、長いまつげ、薄い唇、視界を埋め尽くす全てを見つめて、本当に綺麗になったな、なんて場違いに見惚れていると。
「誰かと付き合うとか、ダメだから」
冷たくて、硬い、言葉。それとは裏腹に、視界を埋めるれんの全てが切実さを孕んでいた。その瞳も、そこから放たれる視線も、焦げるように熱い。
「ダメって、どういう……」
言葉の意味がよくわからない。れんの顔や、体温が近くて、ドキドキして更に何もわからなくなる。
「だって、お姉ちゃんは、私のお姉ちゃんだから」
お姉ちゃん、その言葉の響きと声の調子が噛み合わない。やっぱり、何もわからない。わたしが困惑していると、さっきまでが嘘のように、れんの身体がわたしから離れた。ふっと圧迫されていた胸が軽くなった。その体温やにおいが少し名残惜しかった。
「もう寝る」
「そっか、おやすみ」
色々なことを消化しきれていなくて、呆気にとられたように呟く。
「それと、さっき言ったことは忘れて」
そう言い残して、れんはリビングを立ち去った。
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