第5話 セイカイ?

 学校から歩いて十分と少し。新興住宅が建ち並ぶ大通りから、古めの民家がひしめく路地へと入り、少し進んだ先にわたしの家はある。

 年季の入った引き戸をガラガラと開ける。


「ただいまー」

 廊下に声が響く。

「おかえりー」

 扉の向こうから声が返ってくる。そのことに嬉しい気持ちになりながら、靴を脱ぎ廊下を進む。


 扉を開けリビングを抜けると、キッチンでお母さんが鼻唄を歌いながら料理をしていた。わたしはその上機嫌な背中に再び告げる。


「ただいま。何作ってるの?」

「おかえり。今日は二人の大好きな肉じゃが。たまの休みくらい、娘たちの好物作って、母の威厳ってやつを示しておかないとね」


 そう言って、お母さんは豪快に笑った。


 お母さんは綺麗で可愛くて、男前な人だ。女手一つで娘二人を育てているだけあって、言動がハキハキとしている。見た目もスラっとモデルさんみたいで、いつだって背筋を伸ばして歩いている。駅前の薬局の店長として、朝から晩まで働いていることもあり、地域の人からの信頼も厚い。

 みんなの家とは少し違っているけれど、わたしはお母さんのことが大好きだ。


「やった。楽しみ。何か手伝おうか?」

「ありがとう。料理はもうすぐできるから、お皿洗いをお願いしてもいい?」

「わかった!」


 わたしはそう言って、隣の洗面所で手洗いとうがいを済ませ自分の部屋に鞄を置いてから、お母さんの隣に立った。


「普段も料理任せちゃってるのに、今日もお手伝いしてもらってごめんね。ありがとう」

「大丈夫。それにわたし、お手伝い好きだよ。こうやってお母さんとお話しできるから」

「愛は良い子だねぇ......れんも運動音痴の私の娘とは思えないくらい部活動頑張ってるし、可愛くて頑張り屋さんな娘たちと一緒に過ごせて、お母さんは本当に幸せ者だ」


 しみじみとお母さんは呟く。


「もう、お母さんは大袈裟なんだから。お母さんもお仕事いつも頑張っててえらいよ。わたしたちのためにありがとう」

「本当はお仕事だけじゃなくて、もっと一緒にいてあげたいんだけど......小さい頃から寂しい思いをさせてごめんね」


 寂しい思いをさせてごめんね。それがお母さんの口癖だ。その言葉を言う時だけ、普段はハキハキしているお母さんが少しだけ頼りなさそうな表情を浮かべる。しゃんと伸びた背筋が曲がる。


 わたしは、その表情に触れるたびに思う。お母さんを不安にさせたくない、そのためにも良い子でいなきゃって。そして将来はお母さんやれんを守れるような大人にならなきゃって。


「大丈夫。お母さんがお仕事頑張ってくれてるおかげでわたしたち、何不自由なく暮らせてるんだから」

 わたしはそう言って微笑む。

「ありがとう。」


 お母さんはお味噌を鍋に溶かしながら、そう言って笑った。お母さんの笑った顔はれんの笑顔によく似ていた。もうしばらく見ていない、れんの笑顔に。わたしはスポンジで汚れを落としながら、その笑顔をしばらく噛み締めた。


「愛は最近学校どう? 楽しい?」

「楽しいよ。相変わらず友香ちゃんが仲良くしてくれてるし」

「そっか、それはよかった。何か嫌なこともない? 最近あんまり喋らなくなったれんも心配だけど、愛は愛でちょっと良い子すぎるからお母さん心配で」

「何もないよ。いつも楽しい!」


 そう言ってから、わたしは今日の靴箱での一件を思い出した。いつもとは違う、初めての出来事、鞄の中にある一通の便箋。


「けど、一つだけ悩みならあるかも......あのさ、わたし、ラブレター、もらったっぽくて」


 こんな話お母さんにするのは初めてで、話してる途中で恥ずかしくなって、つっかえながら言葉を口にする。落ち着かなくて、スポンジで執拗にボウルを擦る。お母さんの顔を見れなかった。


「そうなの。やったじゃない! 愛は良い子だしかわいいし、何より私の子だもの。モテない方がおかしいのよ。それで、相手はどんな子なの?」


 横を向くと、お母さんはニコニコしながら、こちらを覗き込んでいた。それはまるで少女のような仕草だった。そんな仕草に何の違和感もないくらい、お母さんは綺麗だった。 


「それが名前は書いてなかったから、よくわからなくて。ただ、文字の感じ的に多分男の子じゃなくて、女の子っぽくて」

「あら素敵じゃない。私も学生の頃はよく女の子から告白されたものだわ。同性にモテるって本当にいい女な証明なのよ」

「そっか、お母さんに比べたらまだまだかもだけど、それはちょっと嬉しいかも」


 そう言って微笑む。嬉しいのは本当。けど同じくらい悩みも頭の中を回っている。流しに吸い込まれていく水のように、グルグルと。

 そんなわたしの様子に気づいたのか、お母さんは優しく語りかける。


「まあ、告白の返事をどうするかとか、そういうのお母さんが聞くのは野暮だと思うから一つだけ。もし仮に付き合っても付き合わなくても、愛が考えて選んだことならお母さんだけは全部正解にしてあげる。例え男の子と付き合ったとしても、女の子と付き合ったとしても、誰とも付き合わなかったとしても、何があってもお母さんだけはずっと愛のことを、愛してるから」


 そう言ってお母さんはわたしを抱きしめた。料理に使った手がわたしの肌に触れないよう、そっと、優しく。そんな触れ方一つにもお母さんの愛が感じられて、胸が安心感でいっぱいになった。その体温に包まれているだけでなんとなく大丈夫な気がした。何も解決してないし、何もわからないけれど、大丈夫だと思えた。


「ありがとう。お母さん大好き」

「わたしも愛のこと大好きよー」


 そんな風に、言葉を交わしていると、玄関の扉がガラガラと開く音がした。それから、控えめな足音が続いた後、キッチンにれんが顔を出した。


「ただいま。なにやってるの」

 淡々とした口調で尋ねる。お母さんは抱擁を止め、嬉しそうに、恋に告げる。

「おかえり。ねえ聞いて! 愛がね、ラブレターもらったんだって、それも女の子に!」

 まるで自分が当事者かのような、弾んだ口調。わたしはなんだか照れ臭くて、伏目でれんの方を覗く。


「え」


 ドサっと、れんの肩からスクールバックがずり落ちる。

 れんの顔は真っ青だった。


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