第4話 悪魔の囁き

 ―――2025年3月20日(木)


 人生最大の衝撃を受けてから一週間が経過した。

 細いのによく通る透き通った声、大きな瞳、スタイル、独特なオーラ。そして、時折見せる可愛い仕草。

 せいぜい三分ほどの出来事を俺はこの一週間、ずっと脳内でリピート再生し続けている。

 忘れたくない。いや、忘れようがない三分間が僅かでも劣化しないよう、少しも欠けることがないように俺はあの三分間の中を生き続けている。


 そんな調子で過ごし続けているので、この一週間は酷いあり様だった。

寝ても覚めてもあの三分間を過ごし続けている様子を見て、母さんは俺のことを『夢の住人』と言って笑った。 確かに、と思って何も言い返せなかった。


 俺はあの三分間をひたすら繰り返しているので、目の前の現実を生きていない。

それは夢の中を生きていると言っても過言ではないだろう。

 それに、あの三分間は俺の人生において最上級の夢のようなひと時だった。

恋だと確信して疑わないほどの相手が見せた仕草、表情、言葉。その全てがあの三分間、俺だけに向けられていたのだから。

 だから、夢のようなひと時の中を生き続けているという意味でも俺は夢の住人なのだ。


 今日も夢の住人は、そんな素敵な夢とは真逆の現実を生きている。

 あんなに心を込めて作っていたはずの花束は、心ここにあらずで作っているのでどれもバランスが悪く、お世辞にも素敵だと言えないものばかりだ。


 釣銭で渡すはずの千円札四枚を間違えて一万円札四枚渡した時はさすがに焦った。

 お客さんがびっくりして指摘してくれたお陰で事なきを得たが、正直に申し出てくれなかったら、俺のお小遣いは向こう半年間ゼロ円になっていたところだった。

 経営者目線がどうこうとか、一丁前に考えていた俺はどこへやら。

さすがに一週間もこんな状態なので、母さんもしびれを切らしつつある。


 夜な夜な『立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花』の意味を調べてニヤニヤしたり、そんな言葉じゃあの人の魅力を表現できるはずがないと一人で勝手なことをブツブツ呟きながら、あの人のことを表現するならばどんな花で例えるのが良いだろうかと真剣に悩むのはしばらく控えよう。

 いい加減、ちゃんと目の前の現実と向き合わなくては。


 気合いを入れ直すために両手で頬を叩き、じんじんとした痛みと共に夢の世界への扉を閉じる。そして、しっかりと鍵をかけて心の奥底へと大切にしまい込んだ。

 十時を迎え、経営者目線の俺が戻ってきたところで店のシャッターに手をかける。


 この一週間のマイナスを取り返そう、今まで以上に頑張って店を繁盛させよう、一日も長くこの町に居られるよう結果を出そう。

 新たな意気込みと共に手をかけたシャッターを持ち上げると、輝く太陽の光が急に射し込んできたせいで、一瞬で視界が真っ白になり、思わず瞼を閉じた。


 数秒かけて、瞼の裏側に残った光の残像が消えるのを待つ。

光の残像を観察していると、違和感があることに気付いた。すらりと伸びた二本の黒い線。これは、人の、足?

 違和感の正体を確かめようと瞼を開くと、そこには夢の続きがあった。


 「やっぱり。私の目に、狂いはなかったみたい。 一安心」


 後光を纏い、無邪気な笑顔で俺の瞳を真っすぐに見つめている彼女はまさしく聖母。いや、女神そのもの。いや、女神よりも女神だ。つまり、彼女こそが本物の女神であり、この世で唯一の女神に違いない。

 このまま天に召されてもいいやと本気で思ってしまうほど神々しく、慈悲深い雰囲気。この一瞬の出来事を俺はきっと死ぬ間際に思い出すに違いない。そうしたら間違いなく天国に行けると断言できる。


 「おやおや? 今日初めてのお客さんなのに、私には営業スマイル、くれないのかな?」


 先ほどまでの無邪気な笑顔が一瞬で曇り、眉毛がハの字になってしまった。

 俺は慌て過ぎたせいで手を滑らせてしまい、ちゃんと開けきっていなかったシャッターが落下し脳天に直撃してしまった。

 あぁ、ただでさえ頼りなさそうな俺なのに醜態まで晒してしまった。きっと幻滅されたに違いない。

 痛みと恥ずかしさでいっぱいの俺はきっと、真っ赤な顔で涙目になっていることだろう。どんな酷い表情をしているのか想像もつかない。


 俺の初恋は、たったの一週間で終わってしまった。

 そもそも、俺なんかが恋心を抱いていい相手じゃなかったんだ。丁度良かったじゃないか。これでやっと俺は経営者目線で店のことだけを考えて生きていける。

 母さんにからかわれることも無くなるし、今よりももう少し楽をさせてやることができるに違いない。

 そう、だから俺の初恋はこの瞬間に終わって良か―――


「あははっ、君ってそんな可愛い表情もできるんだね。いいもの、見ちゃった」


 あぁ。俺の初恋は、簡単には終わってくれないようだ。

 目じりに涙を浮かべながら、お腹の底から笑っている彼女の姿を見た俺は再び恋に堕ちた。

 ひとしきり二人で笑い合った後、俺はこれ以上の醜態を晒さないよう気を引き締めて手早く店をオープンさせることにした。


「今日は、いかが致しましょうか」


「キミのセンスで花束を一つ、下さいな」


 リフレイン。

 一週間前のあの日の記憶が鮮明に蘇る。

 今度は噛まずに言えるだろうか。

 もっと上手く、スマートにやれるだろうか。

 

 「か、きゃしこまりましたっ」


 ……やってしまった。

 あの日以来何度もイメージトレーニングしていたのに、いざ本番となったら極度の緊張で噛んでしまった。

 これ以上、醜態を晒すわけにはいかない。


 「あははっ、そんなに緊張すること、ないよ?」


 俺の考えていることは全てお見通しと言わんばかりの様子で俺を見つめている。

 俺は顔から火が吹き出しそうになりながらも一生懸命、頭をフル回転させて最高の花束を作ることに全神経を集中させる。


 「お、贈り物用ですか?それともご自身用、ですか?」


 「君の想像に任せる、かな」


 「よ、予算はどれぐらいですか?」


 「特に、決めてないかな。君に任せるよ」


 「で、では、どのようなイメージでお作りましょうか?」


 「そうだなぁ……。じゃあ、『私』をイメージした花束、でお願いしようかなっ」



 あぁ、頭がクラクラする。

 心まで見透かしてしまいそうな大きくて透き通った瞳で俺の一挙手一投足を観察し、俺のことをからかうようなことを言葉を投げつけてくる。

 これが大人の余裕、というやつなのだろうか。それを分かっていても嬉しいと感じてしまうのは文字通り『惚れた方の負け』ということなのだろう。


 からかわれるでもいい、ほんの出来心でもいい、として見てくれていなくてもいい。

 たったの数分間だけでも、ほんの一瞬だけでもいい。彼女の記憶に『俺』という存在が刻まれるのなら。背景の一人としてではなく、俺という個人の存在を認識してくれるだけでいい。

 それが達成できるのであれば、俺はただそれだけで幸福だと思えるから。


 時折、商品の花の前に掲載されているポップを読んだり、お世辞にも広いと言えない店内をフラフラと歩いてはいるが、ほとんど俺への視線を外してくれないのでいつまで経っても俺の心の平穏は訪れない。

 全く集中できないので、いつもより花束を作るのに時間がかかってしまう。このままでは、いつ店の奥から母さんが顔を出してきてもおかしくない。


 いつまでもこの時間が続いてほしいと願う気持ちと、絶対に母さんに見られたくないと焦る気持ち。相反する二つの感情に混ざり合っているせいで、変な汗が背中を伝ってきた。

 この複雑な感情はきっと、俺ごときでは一生かけても言葉で表現することはできないのだろうなと思った。

 彼女は、そんな俺の心中を決して見逃してはくれない。


「……随分と悩んでるみたいだけれど、私って、君からはどんな風に見えているの、かな?」


 この人、やっぱり俺の気持ちを見抜いた上で言っているに違いない。

 今だけかもしれないが、俺のことを個体認識してくれて嬉しく感じているけども、俺の恋心を弄んでいるのではないかと感じてしまうのも確かだ。

 なんだか、だんだんと腹が立ってきた。少しは言い返してもいいんじゃないだろうか。


 「……そうですね、蒲公英たんぽぽみたいな人。でしょうか」


 「それは、種子がフワフワと風に乗って漂う様が素敵……みたいな意味、じゃないんだよね?」


 「それは、どうでしょうね。あなたのご想像にお任せします」


 「お、言うねぇ。さり気なく手にしたアネモネをアピールしているように見えるのは、きっと私の考え過ぎ、なんだよね?」


 商品棚越し、花と花の隙間から上目遣いで俺の視線を捉えて離さない。

 目元しか見えないが、きっと口元は不敵な笑みを浮かべているに違いない。


 ―――アネモネ。


 花言葉は「儚い恋」、「恋の苦しみ」など。

 アネモネの花言葉は店内のポップに掲載していない。それでも彼女は俺が意図して手にしているアネモネを指摘してきたということは、ちゃんと花言葉を知った上で言っているのだろう。


 「……降参です」


「フフッ。取り繕わず、はぐらかさず。そうやって素直に負けを認められるところ、好きだよ?」


 小悪魔。という範疇を超えている。彼女はきっと悪魔だ。

この世で唯一の女神なんてほど崇高な人じゃなかった。俺はやっぱり天国へ行けそうにない。

 だけど、それでいい。それほどまでに俺の彼女に対する気持ちは最高値を更新し続け留まることを知らないでいる。


 悪魔に魅入られ、唆され、どこまでも堕ちていく。

 恋と同じ。どこまでも、どこまでも、堕ちていく。


 花言葉を知っていて、俺の恋心を知っていて、自分の魅力も知っている。

 ……こんなの、最初から勝てっこないじゃないか。


 自嘲しながら、これでもかとアネモネをふんだんに使った花束を手早く作り、精一杯の反抗心を込めてぶっきらぼうに彼女の手元に完成した花束を押し付ける。


 「二千円、になります」


 「うん、素敵な花束だね。とっても込められてる」


 「……二千円になります」


 「フフッ。じゃあ、またね」


 長財布から千円札を三枚取り出し、片手で俺に手渡した彼女はニコッと笑いかけた後、花束を大事そうに抱えて店を出て行ったので、俺は慌てて店の外へと走り、その背中に向けて呼び止めた。


 「あ、あの! 料金、間違ってます! 」


 「そんなこと、ないと思うよ? この花束の価値は、それだけじゃ、ない」


 足を止め、振り返った彼女の周囲にだけ春色のオーラが漂っていた。

 春の心地良い風を受け、少し乱れた髪を耳にかける仕草を見て鼓動が高まる。


 彼女が言う価値とは一体、何を指している言葉なのか俺には理解できなかった。

 技術力なのか、利益度外視なのを見抜いたのか、あるいは―――


 「えっと……」


 「じゃあ、代わりに君の名前、確認してもいいかな?」


 返事に困っていた俺を見て、彼女は思わせぶりな表情を浮かべながら再び俺の目の前まで歩みを進めると、上目づかいで質問してきた。

 店の内では気付けなかったが、彼女から漂ってくる花の蜜のような透き通った甘い香りが俺の鼻腔を通じて脳に直接刺激を与えてきたせいで、顔が火照ってきた。


 「……だめ、かな?」


 「神宮かみやフラワーガーデン、です」


 悟られないよう、直視しないように顔を背け、店の看板を指さしながらぶっきらぼうに答えるのが精一杯だった。

 どうにか平静を装ったつもりなのだが、それがどれだけ彼女に通用しているかは今更言うまでもないであろう。


 「あれれ~? 君の素直さ、どこに行っちゃったのかな? 今回はまぁ、お年頃ってことで許してあげる。 じゃあ、またね。永遠とわくん?」


 俺に背を向け、彼女は颯爽と通りの奥へ歩いて行ってしまった。

 両手で抱えた花束に顔をうずめるような仕草をした後、軽い足取りで歩む後ろ姿は、まるで新しいぬいぐるみを買ってもらったばかりの幼い少女ような無邪気さで溢れているように見えた。


 しばらく彼女の後ろ姿を棒立ちで見つめた後、冷静になったところで俺はふと疑問を感じた。


―――じゃあ、またね。くん?


 俺、下の名前も言ったっけ?それに、ってどういう意味―――

店の奥から母さんが様子を伺いに来たことに気付き、俺は慌てて近くにあった箒を手に取り、何事もなかったかのように掃き掃除を始めた。


 「またボーッとしてたわけ? 平日だからって油断していないで、早く済ませちゃいなさいよ? くん?」


 箒を握った手から一切の握力が消失した。

 あぁ、今日も仕事どころではないことが確定だな。それどころか、向こう一週間も母さんの気が済むまでからかわれ続けることは避けようがないみたいだ。

 経営者目線の俺は、別れを告げることもなくどこかへ行ってしまった。

 もしかしたら、この町で暮らしている限りもう再会することは出来ないかもしれない。


 目を細め、ぐんぐんと昇る太陽を手の甲越しに見上げた俺は、既に逃れようのない蜘蛛の糸に絡めとられてしまっていることに気付くことなど出来なかった。

 いや、それは今に始まったことではない。それは、生まれた瞬間から既に複雑に絡まっている。

 それどころか、産まれるずっと前から始まっているのだから、そもそも俺にはどうすることもできない。

 それを、人は『運命』と呼ぶのだろう。


 ―――神宮永遠、もうすぐ十六歳。残り四年ほどの人生をどう生きるのだろうか。

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