第2話

 ウァプラはソロモン七十二柱の悪魔である。

 ライオンの胴体にワシの頭と翼をもち、地位の低い悪魔たちに人を欺く術を教える、偉大なる公爵である。

 そんな誰からも恐れられるモノが人間界に降り立ったのは、単なる暇つぶしであった。

 元から悪魔とは自由なモノで、バラバラにするモノ、規律を守るモノ、食すモノ、惰眠を貪るモノ…その他さまざまに己の欲を満たすモノである。

 ウァプラも同様、そのようなモノで、ただ暇を持て余していたから人間界に降り立っただけである。なんら珍しいことではなかった。

 しかしウァプラは、少年に出会ってしまった。

 ウァプラは人通りの多い広場にそびえ立つ一本の大樹の上に足をつけ、ペットショップにいる人間のように品定めしていた。

 より不幸を背負った人間か成功したての人間がいないか目を凝らす。前者は少し声をかければ自暴自棄になりやすく、後者は警戒心が薄くなりやすい。少し甘い言葉で唆せば、勝手に地まで転がっていくのだ。

 その過程が何とも滑稽で、無様で、人間らしくて、面白い。

 ウァプラが広場を歩く人間をじっくり選別していると、こちらを見つめる少年と目が合った。

 少年は行き交う人の中、ひとり立ち止まっていた。

 陶器のような白い肌に、透き通るほどの白髪から覗く真っ赤な瞳。

 晴天の下で傘を差して薄い水色の病衣を身につけている。眩しそうに目を細めながらも、ウァプラをまっすぐ見上げていた。

 本来悪魔の姿など、呼び出した者でなければ見えるはずがない。

 しかし、少年は確実にウァプラを見つめていたのだ。

 面白い人間を見つけたと、ウァプラは翼を広げ、少年の前に降り立った。

 少年は驚いたように目を見開く。まさか近づいてくると思わなかったのだろう。

 しかし怖がる様子はなく、ウァプラが目の前に来るとツノや翼を興味津々に見つめていた。

 「お前、名は?」

 「………リパ」

 少年は一瞬、不思議そうな顔をしてからそう答え、微笑んだ。

 ウァプラはいいオモチャを見つけたと思った。自身を怖がらず、さらに微笑みかけてくる人間など今までいなかったからだ。

 そしてウァプラは思いついた。

 少年はまだ幼い。

 今から少年を育て上げれば、面白い人間になると思った。悪魔からすべての欺きを教わった人間がどのように生き、どのように死ぬのか、見届けようと思った…が、少年は病を患っていた。

 眼皮膚白皮病。所謂アルビノであった。

 アルビノは光の下へ予防なしには出られず、視力が人より弱い。加えて、少年は生まれつき体が弱かった。

 しかし少年は好奇心を抑えきれず、体調のいい日に外へ飛び出してしまった。肌を守るための日傘一本を持って。

 そしてウァプラに出会った。

 光が眩しく視力の弱い少年にとって、ウァプラは唯一はっきりとその姿を見ることができた存在だった。眩しい光の中、初めて相手の姿を見ることができたのだ。

 ウァプラとの邂逅ののち、少年は探しに来た看護師と親に連れ戻され、病院で再び管に繋がれた。

 ウァプラは少年以外に姿を見られないことをいいことに、少年の病室を好きに出入りしていたある日、偶然聞いてしまった。

 もうすぐ死ぬのだと。

 ウァプラはその事実を知り、大きく落胆した。自身の遊びが突如終わりを告げたからだ。

 悪魔は、神ではない。例え神であっても、生き物の決められた死を変えることはそうできることではない。

 「悪魔もため息つくんだ」

 少年は公園のベンチに座りながら、ウァプラの考えていることもつゆ知らず微笑む。

 ふと、少年は母親が離れた自販機の前にいるのを確認すると、日傘の影で覆われた足をブラブラと揺らし、それを見つめながら「ねえウァプラ」と声をかけた。

 「…僕、今までずっと病院の中にいて、元気になるように頑張ってたんだけど、これ以上は無理なんだって。でも、もうお外に出ていいよって言われてね、僕、すごい嬉しかったんだけど…みんな、なんかね、前よりも、変な目で見てくるようになって…」

 ベンチの背もたれに腰掛けていたウァプラは話の意図がわからず、眉間に皺をよせながらも一生懸命話している少年に耳を傾けていた。

 「…こっそり、聞いちゃったんだ。僕が死んじゃうのがかわいそうだって、なんであの子がって、泣いてた……ウァプラ、僕は、かわいそうなのかな」

 少年の表情は日傘に隠されていた。足も、腕も、首も、肌が日に当たらぬよう布に隠され、その存在さえも家族と一部の病院関係者しか知らない。

 少年の足は相変わらず、ゆらゆらと不均一なテンポで揺れ続けている。

 ウァプラは傘の隙間から覗き込むように顔を近づけ、少年の頭を乱暴に撫でた。

 「ンなの思ったことねェよ。死ぬのがかわいそうだなンて、死んだことねェヤツが言うセリフだ」

 少年の目が大きく見開き、赤い瞳が揺れた。

 ウァプラはこの瞳を気に入っていた。

 アルビノであっても珍しい赤の瞳は、天界においてもそう見られるものではない。

 大人しく頭を撫でられていた少年は足を揺らすのをやめ、照れたように顔をくしゃりと潰して笑った。その笑顔にウァプラもつられて口角を上げる。

 そして少年は無邪気に「死んじゃったら僕はどうなるの?」と声を弾ませ聞いた。

 ウァプラはその問いかけに現実を思い出し、微笑みを一変させてあからさま不愛想に目を逸らして自身の頭を掻いた。

 「ンなことも知らねェのか。死神に魂を刈られて天秤に…かけ、られて…」

 急に途切れ途切れとなった口調に少年は首を傾げる。話はそこで途切れ、ウァプラはどこかを見つめたまま、なにか考え込んで黙ってしまったのだ。

 しばらくしてウァプラは少年に視線を戻すと、ニヒルに笑った。

 「…お前、オレと一緒に来るか?」

 なに、場所が下界から天界へと変わるだけだ。

 答えは要らなかった。

 ウァプラが少年を手放すには情をかけすぎたのだ。

 透き通る白い髪、赤い瞳、その純粋な心。

 もったいないと、そう思ってしまった。

 それからというもの、ウァプラは丁寧に作戦を練り、死神の鎌を手に入れた。

 人間の魂を刈り取れるのは死神にしか与えられない役目であり、仕事である。そして、その鍵となる鎌も死神にしか与えられていない。

 鎌で刈り取られた魂はその場で死神に天秤にかけられる。そしてその魂の罪の重さによって、魂の行き先が決まるのだ。ということは魂さえ自身で刈り取ってしまえば、少年の魂を手に入れられる。

 自分の手元に置いておける、そう考えたのだ。

 少年の魂は短い人生のほとんどを病院で過ごしていたせいもあり、この世の醜さを知らず、ウァプラからみても綺麗なままだった。

 放っておけば死後、天使になるのも一目瞭然。だからどうしても先手を打たなければならない。

 そのためには魂を刈る鎌を手に入れる必要があるが、ウァプラの知っている死神といえばタナトスとグリムしかいなかった。

 タナトスは仕事に私情を挟まない真面目な死神である一方、グリムはさまざまなモノがいる天界でも狂っていることで有名な死神であった。

 本来であれば近づきたくもないが、ウァプラは仕事に律儀なタナトスを避け、グリムの鎌を奪うことにした。

 普段であれば死神が肌身離さずもっている鎌であるが、グリムは天界で違反を犯し罰を受けていると聞いていた。そのため、鎌はグリムの手を離れて厳重に保管されていたのだ。厳重とあれどウァプラの手にかかれば持ち主のいない鎌を盗むのは容易なことで、自分とバレぬよう他の悪魔に罪をなすりつけることも忘れなかった。その悪魔は既に罪に問われ、天界から姿を消したようだ。

 そうして無事鎌を手に入れたウァプラは少年の命が尽きるその時に、鎌を振り下ろした。

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