『その呪物、取扱注意につき 全滅学級の呪い』

1、プロローグ

1、プロローグ



 英語の授業中だった。

 気が付いたら教科書が消えていた。

 すべての教科書がない。教科書だけじゃない。ノートも筆箱も何もない。

 それに気が付いたとき、またかと、私は落胆した。もう慣れたと思っていたけれど、悲しくなって涙が出そうになった。周囲を取り囲む子らは、そんな私の様子に気が付いた素振りも見せずに、授業に集中している。

 机の上に教科書を広げ、ノートを開いて、シャーペンを持って、黒板の前に立つ先生の方を見つめている。もうすぐテストが近いからみんな真剣だ。

 でも、私には何もない。何もできない。

 うつむいた私の視界に入るのは、机の表面に刻まれたぞうごんだった。もう見慣れたと思っていたけれど、その一つ一つが心に突き刺さるようで見ていられなかったので、私は固く目をつぶった。

 そのまま、悔しくて、恥ずかしくて、肩を震わせていると、先生が唐突に私の名前を呼んだ。

 なぜ、机の上に何も出していないのかと質問され、答えに窮していると、周りからくすくすと笑い声が上がり始めた。

 先生がより強い口調で問い詰めてきた。

 思わず顔を上げると、クラスのみんなが私を見ていた。みんな笑っていた。楽しそうに。

 私は独りだ。いつものように。

 この日の放課後、私は学校中をさ迷い歩き、自分の教科書を捜すはめになった。

 けっきょく、英語の教科書だけは今でも見つける事が出来ていない。


    ◆ ◆ ◆


 長い冬が終わり、葉の落ちた桜の枝先で膨らんだつぼみが色づき始めた頃。

 明け方から降り続いていた雨は、前夜の降雪を跡形もなくかし、徐々に雨足を弱めていった。相変わらず空には薄墨のような色合いの雨雲が渦巻いていたが、その雲間から不意にきらめく陽光が射し込む。

 この日、やまあいと田園地帯の境目に建つ赤いかわら屋根の木造校舎では、卒業式が取り行われていた。それは、その歴史ある校舎で最後となる卒業式であった。

 在校生は来年度から、一キロほど市街地に寄った土地に建設された新校舎へと、学舎を移す事となる。

 式は何の滞りもなく幕を閉じ、卒業生たちは大ヒットした青春ドラマ主題歌に乗せて、あかさびに覆われたトタン屋根の体育館を後にした。このあと、それぞれのクラスで最後のホームルームが行われる予定となっていた。

 その三年二組の教室だった。黒板には白いチョークで次の英文が記されている。


 I would rather walk with a friend in the dark, than alone in the light.


 その言葉を背に、教卓へと両手をついて教室内を見渡すのは、ブラックフォーマルの礼服にネイビーブルーのボウタイを首元から下げた男だった。長身で肩幅が広く、その力強い目付きは情熱的でエネルギッシュだった。

 名前をひがしがわはじめという。

 このクラスの担任である彼は、どこか感慨深げな調子で黒板に自ら記した英文をりゆうちようにそらんじてから言った。

「……まあ、俺の授業をしっかり真面目に受けていたら、だいたい意味は解ると思うけど……なあ、いしづき

 すると、その言葉に窓際の列の真ん中あたりに座っていた体格の良い短髪の男子生徒が反応する。

「ちょっ。東川先生、何で俺に話を振るんすか」

「お前がいちばん怪しいからに決まってるだろ」

 すると、クラスに笑い声が広がる。それが静まるのを待ってから、英語教師でもある東川は、黒板に記した英文の日本語訳を口にした。

「光の中を一人で歩くより、闇の中を友と一緒に歩きたい……これは、あのヘレン・ケラーが残した言葉だ」

 誰ともなく「おー」と感嘆した様子の声が広がる。東川は更に言葉を続けた。

「……今日で、お前らは、この中学校を卒業して少しだけ大人になる訳だが、人生はまだまだ長い」

「そりゃ、年寄りの先生よりは人生長いけどね」

 と、話の腰を折ったのは、教室のほぼ中央に位置する席に座った男子生徒だった。その男子に向かって東川は声をあげる。

くる、てめえ、俺はまだ三十なったばっかだぞ? まだまだじゅうぶん若いわ!」

「じゅうぶん、ジジイじゃん」

 すかさず、来見の隣の席の女子生徒が言い返す。

「おい、ももざわ、最後だからって言いたい事を言いやがって」

「てか、東川先生は、あゆかわ先生といつ結婚するんですか?」

「てめぇ、いい加減にしろよ」

 東川が桃沢をにらみ付けると、生徒たちから笑い声が漏れ始める。瞬く間に教室内に彼をあおるような言葉が飛び交い始める。

 その声を制するように右手を掲げ、東川は教室内を見渡して言った。

「おい、お前ら、いちいち話の腰を折るな。最後まで話させろ。おい! 静かに……本当に、お前らは最後の最後まで……」

 このときの彼の顔には、これまでの記憶をみ締めるかのような笑みが浮かんでいた。やがて、生徒たちの騒がしい声が少し落ち着いてきた頃合いだった。

 東川は大きなせきばらいをして盛大に脱線した話を戻そうとした。

「……えーっとだな。どこまで話したっけ?」

「人生は長いっていう話です」

 と言ったのは、教卓の前の席に座るボブヘアで、どことなく狐を思わせる顔立ちの女子生徒だった。東川は彼女に向かって「こんどう、ありがとう」と礼を述べて、話を再開した。

「そうだ。お前らの人生は長い。それでだな。この先、きっと、辛い事や悲しい事がたくさんあると思う」

 そこで言葉を切り、再び教室内を見渡す。すでに全員が聞く体勢に入っており、無駄話をしているものは誰もいなかった。誰もが恩師の最後の言葉を受け止めようとしてくれている。

 その様子に、東川は満足げにうなずき語り始める。

「……どうしても、一人では耐え切れない事もあるだろう。それこそ、闇の中のような……そんなときは、このヘレン・ケラーが残した言葉と、このクラスで出会った仲間の顔を思い出して欲しい。俺から、お前らに送る最後の言葉は以上だ」

 話を終えると、誰からともなく拍手かつさいが湧き起こった。

「先生もたまには良い事言うじゃん」

 その言葉を放った生徒に向かって、東川は言葉を返す。

あいかわ、俺はいつも良い事しか言ってねえだろ」

 またクラスは笑い声に包まれる。

 その暖かい空気に目を細めていると、チャイムが鳴った。

「よし! 最後のあいさつかさざき

 と、東川はクラス委員の笠崎の事を呼んだ。すると、笠崎という名前の男子生徒が立ち上がり「先生、ちょっと、良いですか?」と言った。

 東川は目を丸くして「何だ?」と聞き返す。すると、その笠崎と呼ばれた生徒が教卓を指差して言った。

「その教卓の中、見てください」

「あ?」

 いぶかしげな表情で、東川は教卓の天板の下の棚をのぞき込んだ。そこには一枚の色紙が裏返して置いてある。その色紙を取り出して視線を落とす。それは、寄せ書きだった。

 中央には〝東川先生ありがとう! 平成七年度三年二組一同より〟の文字と共に、漫画チックなイラストで東川の似顔絵が書かれていた。

 それを取り巻くように、クラス全員のメッセージが記されていた。多くは〝先生、ありがとうございました〟というようなシンプルなものだったが、中には思わず懐かしくなるようなエピソードが記されていたり、〝将来は先生のような教師を目指したいと思います〟などという言葉も見られたりした。

 その色紙に目線を落としながら涙ぐんでいると、窓際の一番前の席に座る女子生徒が「ほらね。言ったでしょ? 先生、ぜったいに最後まで気がつかないと思った」と、少しあきれた様子で言った。

 東川は涙をこぼさぬように笑いながら「かどわき、てめぇ」と言った。

 すると、今日何度目か解らない笑いが教室内に満ちる。

 それは、この日まで繰り返されて来た日常の中のワンシーンのようで、その何気ない日々が明日あしたもずっと続いていくかのような気分にさせてくれた。

 このクラスらしい最後だ。

 東川はそう思った。

 いつも騒がしく、はめを外す事も多かったが、互いに個性を尊重し合い、常に団結し、笑い声の絶えなかった最高のクラス。

「本当に、お前らは……」

 色々と失敗もあったが、自分がやって来た事は間違いではなかったと、この瞬間はそう思えた。

 東川は必死に涙をこらえてはにかんだ。

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