34:ピアノ・レッスン

 東京都内、某所──ショッピングモールの片隅に置かれたピアノに青年は向き合う。

 ずっとそのままだ。

 かれこれ四分が経とうとしているが、道ゆく人々は対して気にも留めない。


 さながらそこにピアノがあったことすら忘れ果ててしまったかのような、そんな感じもうかがえた。


「四分三十三秒?」


 思わずわたしは、そう言ってしまった。青年は──かつては美少年だったろうと思えるような優美な無表情で、こちらを見た。


「あ、いや、すみません」

「──やりますか?」

「いや、べつに」

「もしよければやってみてください。弾きたくても、弾けなくてね」


 よく見ると、手が小刻みに震えている。


「何か、お怪我でも?」

「そうだね。心の怪我、といえばいいのか」

「……すみません」

「いえ。自分ごとですので、お構いなく」


 青年は席を譲ってくれた。なんだか申し訳ない気もしたが、まあいいや。

 では、遠慮なく──


 ジャーン!


 通りがかった全ての人が、こっちを見た。

 えへへ。

 わたしなんかやっちゃいましたかねえ?


「…………」


 青年は目を点にしていた。

 でもわたしは気にしない。

 思うがまま。

 気の向くままに、弾く。


 気分はまるでざあざあ降りの雨。アスファルトのくぼみにできた水たまりに、買ったばかりの新しい長靴を履いてきた時のワクワク感で、指が弾けて踊った。

 雨音と泥しぶきの跳ねるような、稚拙な音──でも、わたしはピアノを見ると思わず弾きたくなってしまう。ところが人混みからひとり、お節介なおばさんがやってきて、わたしに向かって声をかけた。


「ちょっと。さすがにうるさいわよ」


 わたしは無視した。

 しかしおばさんはしつこかった。グダグダ文句を言っていたが、要するに午後のティータイムを下手なピアノで邪魔されたくないとのことだった。


 あーあ。どうせわたしは下手ですよ。

 でも、楽しいのを、そんなふうに言うことないじゃない。


「すみません、マダム」


 そのとき割り込んだのは、もうとっくのとうにモールから出て行ったと思っていたあの青年の姿だった。


が、不出来なもので」


 ──ん?


「ほんと、青空教室をやるにしても、もう少しちゃんとした方でなくては」

「いえ、お詫びと言ってはなんですが……」


 そう言って、彼はわたしの肩を叩いた。空気が読めないわたしは一瞬ムッとしたが、「いいから」とそっと耳打ちされて、しぶしぶ席から引き剥がされたのだった。

 まるで、ビリッと破かれたガムテープってこんな感じなのかなって妄想するくらいに。


 でも、そんなのは一瞬だった。


 さっきまでピアノの前でカチコチに固まっていた青年は、ふっと息を吐くと、とたんに周囲の空気が延ばされた洗濯物みたいにしゃんとし出したのだ。

 指が静かに──

 そう。静かに鍵盤を圧す。

 初めは音が鳴ったことすら気が付かなかった。むしろ、周囲の喧騒がゆっくりと引いていくのを感じ取る。わたしたちの意識のテーブルに、シルクのテーブルクロスを敷くような、ていねいな前支度がそこにはあった。


 それから行われるのは、品の良いグラスと食器を並べるしぐさ──そんなものを連想させてしまうかのように、繊細で柔らかい音がわたしたちの聴く耳を育て上げている。


 遠くから、シェフの調理が聞こえる。

 わたしたちをもてなす、絶品の手料理だ。

 まずは香りから愉しみなさい──そうソムリエがさとすかのように、わたしたちは音を焦らされる。空腹を感じ取る。


 まな板で鮮やかな野菜を切るリズミカルな包丁音と、巨大な鍋がくつくつとコンソメを煮出している音が混ざり合い、炒めるようなジューシーな音楽が、爆ぜる油のようにはしゃぎ回っている。

 愉快だ。なんて愉快なんだろう。

 わたしは思わず歌い出したくなった。でもまだ、まだなのだ。青年のピアノは、銀色のナイフとフォークを置いたその中心に、ゆっくりと配膳するかのように、わたしたちの音の飢えをよく心得ていた。


 いま、ここにはない譜面が、ひとつのフルコース料理となって存在していた。


 ひと口味わえば、いままで食べてきた料理がなんてお粗末だったかと後悔するほどの、美しく味わい深い音色たち──その果てに。


 拍手喝采。


 おばさんたちもすっかりメロメロだった。

 わたしはなんだか気まずくなって、その場を後にしようとした。けれども。


「待ってよ」


 青年の手が、つかんだ。


「なんですか」

「もう少しここにいて。きみのおかげで弾けたんだから」

「……」


 しばらくして、人が捌けたあと、青年はわたしの名前を訊いた。そして青年も、自己紹介をした。かつて神童と呼ばれたピアノ少年のことを──


「でも二十歳過ぎれば、ただの人ってやつだ。いまじゃ、少し上手いだけ──」

「そんなことないですよ」

「……」

「そんなこと、ないです」


 青年は、ふっと微笑んだ。


「明日また来なさい。こんなの技術だ。きみにもいつか弾けるようになるよ」

「……ほんとに?」

「ああ。保証するよ」


 青年は口角を上げ、断言した。


「きみはいいピアニストになれる」

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