第35話 黄金の意味
大きく間合いが開いた状態で、大上段に振り上げた両手を叩き付ける。
幼い子供のような所作でも、圧倒的な巨躯を誇る色狂いがすればそれは、最も強力な攻撃に他ならない。
大地を抉り、土の下から爆発したかのように土と草が舞い上がる。
土煙は起こらない。乾燥した洞窟ならともかく、この第二階層の土は程よく湿り気があるのだ。
「テルミニ」
レグルスはテルミニの方向を向く。奇しくも、彼女も同じ判断を下していた。
既に鞄から取り出していたのは、丸い硝子の球。
ボールのような完全な球体だ。その内部は三つの部屋に分けられており、それぞれに薬品の粉末、脆い金属、そして薬品の水溶液が入っている。
硝子球に巻き付くように麻縄が巻き付けられており、それらは硝子球を持ちやすくする意味があると同時に、衝撃を和らげる意味も有している。このガラスが非常に薄く、少し罅が入るだけで、その三つの要素が混じり合う可能性がある為である。
それは、迷宮探索において必要不可欠の道具の一つ。
一瞬にして暗所を照らし、離れた場所同士で交わす目印にもなり、そして強大な魔物を前にした時、目眩ましに用いられる。閃光を放つ、光弾だ。
「ヒッ」
第一階層では盲目の大喰らい相手だったが、相手は瞳孔が六つもある怪物だ。
膝を曲げ屈んだ状態の色狂いが声を上げると同時に、色狂いに向かって投げた光弾が舞い上がった土の壁の中で石とガラスが激突。空中で炸裂する。
閃光が爆ぜる。同時に、二人は互いに色狂いを挟み込むように動く。
このままゲートを潜って逃げるようなことはしない。二つ名は理知的な魔物。目眩ましだけして逃げれば、二人がゲートを潜ったと気付くだろう。
「――」
テルミニは考える事無く剣を構え走る。
策は一切無い。大喰らい、怪物、今まで一つは何か浮かんだものだが、今回に関しては全く以て何も無い。
大喰らい戦では、盲目というアドヴァンテージがあった。偶然だが、鞄が喉奥に留まっていたというのも大きい。怪物戦では、そもそも二つ名より数段劣る相手の上、春夏冬薊という強力な武器があった。
だがこの色狂い相手には何も無い。
レグルスはいるが、大喰らい戦と比べれば春夏冬がいない。効果的な道具も無い。その上、連戦の疲労もある。
唯一、手があるとすれば背後に背負うゲート。そして。
――黄金の瞳――
レグルスが語ったのは、テルミニが持つとされる唯一の能力。
いや、唯一という言い方は語弊があるかもしれない。何故なら、レグルスが遭遇した相手も。そして眼前の色狂いも、その能力を扱っているのだろう。
付いた渾名は
遭遇、と言っても交戦ではない。遠巻きに見つけたり、存在を察知し逃げただけだ。まともな交戦は先日の大喰らいが初めてである。
だが、テルミニは二つ名の情報を多く持っている。
第三階層の啜り泣く魔物。第四階層の眼差しの魔物の外見的特徴もよく知っている。そしてその魔物らが、全て等しく眼窩に黄金を宿していたことも。
「何か、あるのか」
自分の知らない、何かが。
剣を握る手に力が籠る。何かを掴みかけた時、大事なのは再現することだ。テルミニは未だ目を擦る色狂いに、大喰らいの姿を重ねた。
金の瞳が最も強く輝いたのは、間違いなく大喰らいと対峙した時だろう。
ならば思い返すのはあの瞬間。灼けるような飢餓に襲われ、それでも尚生きて帰るために眼前の敵を屠ろうと決意した、金剛石よりも硬き強い意思。
「ふんっ!」
「ハッ!」
共に色狂いの両脇に立ったところで、レグルスが拳を突きテルミニは剣を振るう。
色狂いは目は六つあれど、顔は一つ。対応できる方向も、また一つ。
渾身の攻撃は見事命中。だが、鋼を伝う異様な感覚にテルミニは思わず眉を顰めた。有り得ない程硬いのだ。
テルミニの剣は業物という程ではないが、それでも剣は剣だ。剣が皮膚に負けるとは、まるでこの世の摂理に反している。
だが、それでも眼前の事実は揺るがない。
「ヒッヒ」
色狂いの手が顔を離れる。
目眩ましの効果が切れたのだ。手早くもう一つの光弾を取り出そうとするも、色狂いは既に自身の行動を抑制した原因を知っている。
両脇に展開した二人。色狂いが選んだのは、か弱い少女である。
「クソッ!」
伸びる細く長い手を剣で払い除ける。
色狂いの間合いは長すぎる。接近戦は危険だ。だが、それは向こうも分かっている事。払いのけた手はすぐに戻る。もう片方の巨椀も連れて。
意識の分断作戦は失敗だ。
「ふっ……!」
二者間に躍り出る大きな影。とは言え、色狂いと比べると矮小そのものなのだが。
凶手を弾き落とし、撃ち落とす。
隙が出来た。レグルスはバネが縮むように膝を折り姿勢を下げると、蹴り脚が爆ぜたかと見紛う程の勢いで跳躍する。
色狂いの推定身長は、直立した状態ならば十五メートルを優に超えるだろう。そんな色狂いにとって、伸ばした手を防御するだけでは敵にとって遊びに過ぎないだろう。真に戦いに勝つならば、急所を狙うべきだ。
レグルスが見据えるのは顔面。拉げた粘土の像のような、醜悪な顔面。
剛腕が軌道を変え、まるで飛ぶ羽虫を叩き潰さんと合わせられる。だが、完全に掌と掌が衝突する前に、レグルスは叫んだ。
「テルミニ! 水だ!」
「……っ! 任されました!」
テルミニの水袋から、小さな水の蛇となって飛び出す。
するりするりと空中を滑るように進み、蛇はレグルスの軌道上で蜷局を巻いた。レグルスはそれを踏み付け、再度跳躍する。
まるで柏手のように、両の手が打ち鳴らされる。だが、レグルスは既にそこにはいない。弓のように拳を引き、刹那衝撃が空中で爆ぜた。
「ヒィウッ!?」
色狂いが大きく仰け反る。それでも、倒れるには至らない。
テルミニが意識を水に向ける。足場の役割を全うした水を、レグルスの足元に再び回す。
空中、三度目の跳躍。
轟音が爆ぜ、追い打ちの殴打がクリーンヒットした。
遂に後ろに倒れ込む色狂いに、レグルスはまだ手を緩めない。
通常の魔物であれば、確実に致命傷を通り越した致死の一撃だ。彼ならば、第一階層を崩落させることも容易いのだろうと、テルミニはぼんやりと考える。
だが、色狂いはただの魔物ではない。
「なっ」
放物線を描き落下する勢いを利用し、顔面に四度目の殴打を打ち込もうとしていたレグルスの表情が曇る。
色狂いが、まるで頬の中に空気を水を貯めるように口を固く結び、頬袋を膨らませたのだ。直後、ぺっという擬音が似合う動作で内容物を勢いよく吐き出した。
それは、粘度の高い、白濁した液体だった。レグルスを包み込み、白煙を上げながら纏わり付く。
「レグルスさん!」
水を滑らし、糸を引く白い液体とレグルスの間に滑り込むように動かす。
白濁した液体。その正体は、色狂いが吐き出すフェロモンの原液とも言える液体だ。
強力な酸でもあるそれは、着弾と同時に人間の皮膚を焼き溶かす。皮膚が溶ける匂いと混じり合うことにより、人間等を除くありとあらゆる魔物の生物的本能に働きかけ、掛けられた対象を本能的に繁殖相手と見做させる。
無論二人は知らない。だが、タイムリミットは五分。
あと五分で、第二階層の移動が可能なありとあらゆる魔物がレグルスに殺到することとなる。
「これなら……っ!」
完全に白がレグルスを包み込むよりも前に、薄い膜のように水を広げ、レグルスを包み込む。
その効果は覿面で、すぐに白い酸がレグルスから剥がれ大地にこぼれていった。
転がりながら間合いを取り戻し、テルミニの隣に再び並び立つ。テルミニの機転もあり、傷は軽微。防御する際に顔の前で交差した腕だけが焼け爛れている程度だ。
「……なんか、磯臭いですよ?」
「あれは体液だろ? 然るべき結果だ」
「それはそうですが……」
本来ならば無事か否かを確認するところだが、思わずテルミニは鼻を摘んでいた。
魔物に理性を忘れさせる芳しい香は、人間にとって少し不快な臭いに過ぎない。倒れていた色狂いが起き上がる。その瞳には、更に深さを増した怯えが宿っていた。
対象的に、煌々とテルミニの黄金が輝きを増していく。
「ヒィッ!」
色狂いが後ずさる。
異様な光景だ。全ての探索者から恐れられる二つ名の魔物が、たった二人相手に恐怖を抱いているのだから。
二人の間に安堵が満ちる。少し乗り切れば、撤退は容易だろう。もしかすると、このまま放っておけば向こうから逃げるかもしれない。
だが、現実はそうはならない。
色狂いの背後から、ゆっくりと人影が伸びる。
「……レグルスさん」
「噂に名高いフードの女、か」
レグルスの呟きに、テルミニは春夏冬の言葉を思い出したようだった。
怪しいフードの人物は、色狂いを使役している。
殺された男とアワリティアの話を聞いていれば、何もその結論に至るのは難しい話ではない。
ただそれでも、実際に見るのは違う。何か、複雑な事情が絡まり合ってそう見えているだけなのかもしれない。必死に逃げ道を探していた最中に、無理やり答えを押し付けられたのだから。
全身を覆い尽くす、みすぼらしい茶色いフード。
ところどころに虫食い穴があり、その下には紺の布が顔を見せるもどのような服かは全容が掴めなければ分からない。ただ分かるのは、既製品と分かる使い古された革靴と、布を引っ張ったかのような胸の膨らみ。
フードからこぼれたミルクティーのような茶色は、所々血の真紅で汚れている。まるでたった今、誰かの命を奪ってきたかのように。
一見、普通の少女だ。だが、普通ではないと確信に至る点が一つ。
まるで淹れたての紅茶のように、黄金の蒸気が彼女から立ち上っていたのだ。
全身の産毛が逆立つ。ぞわりと、二人の背に生暖かい恐怖が迸った。
「!」
「!」
フードの女が色狂いの横に並び立つと、色狂いの巨大な脚にそっと手を添えた。
レグルスとテルミニが目を見開き、互いに視線を交わす。
そもそも交戦したのは色狂いをゲートから引き剥がすためだ。そうしたのは、色狂いがゲートを超えて追ってくる可能性があった為。狭い洞窟内で長い手を伸ばされてしまえば逃げる術はない。大きく動き回れない分、森林よりも厳しい戦いを強いられるだろう。なので二人は、ゲートを潜って逃げるよりも、この場で二人を追う体力を削ってから逃げたほうが、生き残る確率が高いと判断したのだ。
つまりより大きな危険が近付けば、選択は自ずと覆る。
思い切り振りかぶり、テルミニが光弾を地面に叩き落とした。
刹那、二度目の閃光が溢れんばかりに膨れ上がり森林に満ちていく。そして二人はそれを背にし、全力でゲートに駆ける。
二つ名は生物に等しく襲いかかる。
大喰らいはそれが動けば。色狂いはそれが生殖可能な生物なら。啜り泣きはそれが一定範囲内に近づけば。
優先順位など無い。矮小な人間等ちり紙に等しいと言わんばかりに、弄び殺す。それが、魔物という存在であり、二つ名の魔物もそうであった。
その色狂いを前に、彼女はまるで友人かの如き距離まで近寄っている。まるで使役しているかのように、その隣に並び立っているのだ。
二つ名の魔物は知恵も回る。単なる弱者に屈服はしないだろう。であれば、色狂いを使役するような人間が、実力的にも精神的にもまともである筈も無い。
出来るのは、諸手を挙げての遁走だ。
逃げる二人を色狂いは追おうとはしない。それどころか、色狂いはまるでゼンマイの切れた人形のように、瞬きせずに同じ方向を見つめていた。
ただ一人、ゆったりと動くのはフードの女。彼女は屈んだ色狂いの足首を撫でながら、あららと頸を傾げた。
「また……」
ぎろりと、色狂いの瞳孔の一つが女の方向へ向く。可視化するほどの強い恐怖を伴って。
黄金の蒸気が収まっていく。
フードの中から垂れる、ミルクココア色の髪が揺れた。
「会おうね」
まるで友人に掛けるような、優しい声色。
色狂いがフードの女に気取られぬように息を吐く。女の意識を向けられた対象が、自分ではないと知った為だった。
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