第16話 ゆきて、帰りし
「ここは……」
目が覚めると、私はベッドに寝ていた。
否、寝た覚えはない。寝かされていた、の方が正しいか。
気持ちの良い目覚めだ。休日に寝たいだけ寝て起きた時のような、後を引く眠気の無い心地よい目覚めであった。
白い平天井とオイルランプ。所々黄ばんだ知らない天井に疑問を覚えつつ、私は右腕で上体を起こすのを手伝う。
今まで感じたことのないほど身体に重みを感じたが何とか起き上がり、辺りを静かに見回した。
白いカーテンが私が横たわるベッドを取り囲んでいる。原色が無く目に優しい空間だ、仄かにアルコールの臭いがツンと鼻腔を
ベッドの傍らには、栗皮色のキャビネットと丸椅子。キャビネットの上には、コップに注がれた水と、剥かれた林檎が皿の上に並べられている。誰かが、私を看病していたのだろうか。
右腕で体重を支えながら上体を起こし、林檎を頬張ってみる。美味しい。
シャリシャリと音を立てて林檎を
確か私は、決死の覚悟で大喰らいの隙を作ることに成功し、その場から逃走しようとしていた筈だ。右腕を代償にして。
しかし、私は何故今ここにいるのか。
疑問符は消えない。むしろ、募るばかりである。
しばらく考えても、鈍い頭痛が響くだけで思い出せない。
仕方が無いと、白い掛け布団を両の手で剥がし、ベッドから降りようとする。そして、気付く。
「え、右手……あるじゃん」
私は、包帯が巻かれた右腕を天井の灯りに翳す。
私の右腕は、今も大食らいの口の中の筈だ。それがなぜ、元に戻っているのか。
見てくれは私が失ったはずの右手を、実際に触って確認しようとしたとき、私は警戒をカーテンの奥に向けた。
ドアが開く音が聞こえたと思えば、足音がコツコツと響く。体重は軽めで歩幅も狭い。小柄な女性と推測できる。
私をここに寝かしていることから、敵ではないのだろう。しかし、足音の主が誰か分からない以上、警戒は怠れない。
足音は徐々に距離を詰め、そしてカーテンの前で止まる。そして、ゆっくりとカーテンを捲る。そこには――――。
「あ……起きとる」
串焼き肉を片手に、何とも言えない表情を浮かべる春夏冬の姿があった。
◆~~~~~◆
「よかった。五日も寝てたんだよ?」
緩くカールのかかった深碧色の前髪に左眼が隠された
私は差し出された林檎に首を動かして齧り付く。林檎を差し出した少年は、私が林檎を咀嚼するのを微笑みを湛え満足そうに見つめていた。
ベグラト・ティシリー。この街で道具屋兼薬屋兼医者を営む、私の数少ない友人の一人だ。年は少し上で、悩みはその華奢で中性的な容姿からよく女性と間違われることだとか。
私の迷宮便利道具は、全て彼の手により作られた物である。質が高い上に、私相手には友達価格だと言って大きく値引きしてくれる。今私が生きているのも、無駄に性能が高い彼の爆弾のお陰だ。
右腕が戻っているのも、彼が私を看病したのなら納得である。
「そ。なにが私が一番軽傷です、や。よう言うてくれはったわ。腹ん中空っぽで、歩く干物みたいやったあんたはんが、一番元気やったんやねぇ」
春夏冬は私のベッドに乗り出し、しなやかな腕を伸ばし林檎を手に取り頬張った。
確かにあの時、私は大食らいの謎の術により感じたことの無いほどの飢餓を感じた。
しかし、その影響は精神的なもののみだと思っていたのだが、どうやら肉体に直接影響を及ぼしてきていたらしい。
「呼び捨てて下さって構いませんよ。春夏冬さんの言う通り、身体中の栄養が不思議なほど消えてた。あのままだったら数分で餓死してたよ。なのに、その後春夏冬さんとレグルスさんと一緒に戦ったって? 無茶が過ぎるよ。また
ベグラトは畳み掛ける。
「おまけに腕取れてるし、しかも見当たらないし。僕じゃなかったらどうしてたの?」
「せや。レグルスはん自分を責めて珍しく落ち込んでたで。もっと奴の口を開いておけばって。ベグラトはんの……何やったかいな?」
「物体の時間遡行ですよ。早く処置出来て運がよかったね」
大喰らいの口に手を突っ込むなど、手を棄てたいと思う馬鹿だけだろう。無論、彼の存在を知らぬ者は。
私だって、彼がいなければそんな事はしていない。いや、命に関わる状況であれば分からないが。
彼の魔法は言葉通り、物体の時間を自身で決めた時間逆行させることの出来る魔法だ。以前、彼から聞いたことがある。
曰く、物体の時間を戻せば戻すほど負担が大きく、三時間程度が限界らしい。私が連れて行かれたのが、この街で多くいる医者の中でもベグラトで本当に運がいい。
彼の魔法は生物も物体と見なす。その魔法により、斬られた後の右腕を取り出したのだろう。
「いや……まぁ、へへっ」
説教の気配を感じ、私は笑って誤魔化そうとするも、それは失敗に終わった。
「笑いごとちゃう。ただでさえ栄養が消え失せて危険な状態の上に、テルミニはんは止血せずに気絶しはったやろ? 血が駄々洩れ。栄養失調に大量出血までおまけについて、今生きてるのは奇跡みたいなもんなんよ?」
反論できない。痛みは麻痺していたが、右腕が無くなれば当然出血は多量だ。戦闘で気を張っていたとはいえ、それを忘れているとは。
ここは素直に、自身の非を認めるしか無いようだ。
「それに関しては無茶でした。二人にも心配をかけました。ごめんなさい」
「僕に言う事は?」
「これで貸し借り無しだね」
「……まぁ、無事だった訳だし良しとするか」
「冗談だよ。ありがと」
ベグラトはやれやれ、と言うように力無く笑った。
「右手はどない? 動く?」
春夏冬に言われて、拳を握り、そして広げる。痛みも、違和感も何もない。
「大丈夫そうです」
「包帯はまだ外さないでね。完全じゃないから、取れても知らないよ」
右腕がぽろりと落ちる様を想像し、血の気が引く。包帯を外そうとしていた手を素早く戻す今の私の顔は、きっと青ざめているだろう。
「動くんやったら大丈夫やね。うちは一緒にご飯食べるからレグルスはんが待ってはるけど。テルミニはんは?」
「大丈夫だと思いますよ。あまり右手は動かして欲しくないですが」
「やって。どうする? 行く?」
「行きます。後、テルミニでいいです」
「なら善は急げ。はよう行こ。今も待ってはるんよ……うちの露店で。どつかれるかもしれん」
差し出される彼女の手を左手で取り、ベッドから降りる。
寝ている間は何も口にしていなかったらしく、今私は猛烈に飢えている。さながら大喰らいのように。
大喰らい、か。
遭遇したのは運が悪かった。レグルスが奴と遭遇したのは、私が分かりにくい道ばかりを選んで逃げたのが大きな要因の一つだろう。この反省は次回に活かそう。ただ、次回が無いことを祈るばかりではあるが。
しかし、残された謎は多い。
――まって?――
思い出すは大喰らいのあの術。
化け物の咆哮では無く、鮮明に脳内に響いた少女の声。
あの術にかかった直後の大喰らいの反応を見るに、あれは間違いなく大喰らいによるものだ。
では、あの少女の声も大喰らいが発したものになる。これは憶測に過ぎないが、それはつまり、大喰らいが元は少女だったと考えることも出来るのではないだろうか。もしくは、人間が耳を傾けやすい声色を選んでいるか。
奴は高い知能に留まらず、人語を解していた可能性まである。それに、人間という生物を理解していた可能性も高い。
何故奴はそれほどまで強く、それほどまでに賢い。
二つ名の魔物は、総じてコールタールのような、汚れた黒い体皮を持つという。
何故、他の魔物とはかけ離れた容姿をしているのか。他の二つ名持ちも、大喰らいのように賢く、そして人の声を真似るのだろうか。
考えても答えは出ない。
「テルミニ!?」
「あ、ちょっと待ってください!」
だが、これだけは分かる。
私はまだ生きている。全身全霊で、この世界に立っていると。
遠ざかる足音に追い付くようにベッドを降り駆ける。アルコールの臭いではなく土の匂いが鼻を抜けたのは、その直後のことだった。
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