3話-12 本物の、魔女


 雨が降っていた。

 夜明けに一瞬差した朝日は、幾重にも重なった雲に隠れている。

 要塞に残ったタシスたちは、雨だれの音を聴いていた。

 あれだけ騒がしかった隣国の人員の姿は、もう誰ひとりとして見えない。

 ──なるほど、夜明け近い真夜中にも関わらずあれだけの人間が騒いでいたことには理由があったのだ。

 彼らは囮であり、要塞から撤退する殿しんがりだったのだ。

 

「今からでも遅くない。あの魔女殿たちと一緒に退避したらどうだ?」

「嫌だね」


 カタラの言葉に、タシスはかぶりを振る。


「お前に会うために、ここまでいくつの職務違反を犯したと思っているんだ」

「自慢することじゃないだろうに」

「呆れた顔をしないでくれ、せっかく吹っ切れたんだ」


 至極真面目な表情で、タシスはカタラに向き直る。

 タシスをこの場に誘き寄せるためのエサとして生きてきた、哀れな老女ではなく──かつての親友に、向き直る。


「……お前が死ぬならば、俺もここで死ぬ。それがフェアだろう」

「はっ、芝居かぶれか?」

「臭いセリフだと思うだろうが、俺の本心だよ」


 年を重ねたかつての学友が、同僚が。

 青春のような者を過ごした同士が、くつくつと肩をふるわせる。


「それに」


 と、タシスが言った。

 今はこの場にいない、飄々とした美しい魔女に思いを馳せる。


「……アンバーが『魔女に預けてくれ』と言ったんだ。きっと、どうにかしてくれる」


 カタラは少しだけ寂しげに笑う。

 

「ずいぶんと信頼しているんだな」

「ああ、そうだな。何度あいつに助けられたことか」


 タシスはアンバーと出会ってからの日々を思い出す。

 出会った日から、少しも変わることのない魔女と、日々を過ごすうちにすっかり老いてしまった自分。


「何考えてるのかイマイチわからない女だ、少し気味が悪いよ……自分を見ているようでさ」

「ああ、そうだな。俺もアンバーが何を考えているのかも、何を感じているのかもわからない。予測ができない迷惑な面もあるが──だが、あれは、約束だけは必ず守る」 

「ふん、私がいない間に、色々あったようだな」

「そっちこそ、色々あったんだろう」


 タシスが笑う。

 色々の内訳は、あまり聞きたくはないけれど。


「さあ、来たぞ」


 ──眼下に、連邦からの和平交渉のための使節が見える。

 町長が不安げな表情で歩いてくるのが、豆粒のように小さく見える。その護衛として背後に主力部隊が控えている。

 和平交渉は双方の軍が睨み合うなかで行われることが通例となっていた。当然、交渉が決裂すれば即時の衝突──大きな戦闘となる。

 とはいえ、そのような横紙破りが行われることは、ほとんどない。

 双方が睨み合う緊張感が、交渉成立と同時に解ける──そのプロセスそのものに、『和平交渉』としての意味があるわけだ。


 しかし。

 越境戦役によってもたらされたイカイの技術は、すべてを破壊しようとしていた。

 隣国の人間はカタラを除いて、すべて撤退し、もぬけの殻となっている。

 空っぽの要塞に連邦側の要人と主力部隊を招き入れ、そして──山ごと彼らを吹き飛ばす。

 カタラを追い詰めた人間たちが計画したのは、紛れもない大量殺人だった。

  

「この装置ひとつで……この山がすべて、崩れ去ると?」

 

 タシスが呟く。

 カタラの前にある人の子どもよりも小さな装置には、いくつものボタンやツマミがついている。

 青い光を帯びた無数に伸びる配線は、渓谷のあちらこちらに設置された破壊兵器と破砕装置に繋がれている。


「ああ、そうだよ。 詳しい技術は知らないが、そうだと聞いてる……こいつがこの山を破壊して、私の身体も粉々に吹き飛ばす」


 カタラが吐き捨てる。

 何度も聞かされた作戦の詳細。

 どれほどの威力を持つ兵器なのかはよく知っている。


「これが、イカイの技術だよ」


 恐ろしいだろう、とカタラは嗤う。


「おぞましくて、恐ろしくて──愚かしい」

「……人間ひとりを簡単に殺す判断をする人間が、な」

「陳腐だな、タシス局長殿」

「陳腐で何が悪い」


 一瞬の沈黙ののちに、カタラとタシスは顔を見合わせる。

 ふ、と。どういうわけだか笑いが零れる。


「時間だ」


 カタラは言った。

 太陽が規定の高さまで昇る。

 

「この装置を起動する。渓谷の頂上付近──もっとも地盤が弱っている部分に仕掛けられた爆薬が炸裂して──」

「……この場にいる全員を呑み込む、ということか」

 

 カタラは頷く。

 

 「あの女の言う通りにするなら、『予定通りにこの装置を起動する』ということになるけれど」


 本当にやっていいのか、とカタラは視線で問いかける。

 タシスは頷いて、そうして。


「さあ、やろうか」


 起動の手順をなぞろうとしていたカタラの手に、自分の手を重ねた。

 今まで感じたことのなかった体温に、カタラが息を呑む。


「なんだ、その顔は」

「お前、自分が何をしているかわかっているのか。私が今からすることは、連邦側への攻撃だ」

「ああ、そうだな」


 タシスは静かに答える。


「お前は危険を犯してまで、俺を助けようとしてくれたのだろう。あの手紙で」

「……だが」


 タシスには立場がある。

 背負い続けた家名と名声がある。

 ──けれども、誰の目も届かないこの場所で、そんなものを盾にするべきではないことも、わかっていた。

  

「お前をひとりにはさせないよ。お前は俺の友だから」


 同じ罪を背負うくらいのことは、したかった。

 たとえ、それが子どもじみた贖罪ごっこであろうとも。


「……そうか」


 カタラはそれを拒否しない。

 長くこの世界を生きてきた男が決めたことならば、受け入れよう。

 受け取られることのない言葉は、悲しいから。それが精一杯の、カタラに示すことができる誠意だった。

 ──イカイ製の装置を、起動した。


 ◆


 地鳴りがしている。

 降り出した雨にぬかるんだ地面を踏みしめて、町長は眉をひそめた。

「これは、不穏ですね」

 待ち望んでいた連邦本部からの停戦文書。

 この会談が上手くいけば、長らく街が望んできた平穏が訪れるはすだ。

 そう、平和ではなく、平穏である。

 依然として隣国との諍いは続くだろう。緊張状態は続くだろう。

 それでも、急襲と投石に怯えることなく眠れる夜が訪れることは、街の住民たちの悲願だった。

 だからこそ、焦っていた。

 イカイの技術をもって戦う隣国との交戦で、じりじりと連邦側の街は弱っていた。 

「……図られたか」

 だが、焦っていたのは連邦側だけではなかったのだ。

 高台に、見慣れた人影を見た。

 距離はあるが間違いない。

 ──町長にとって、見慣れた姿だった。

「ミカエラ。久しぶりだな!」

「……町長」

「タシス殿がご一緒というのは意外だが……なるほど、出奔した裏切りの魔女を、単身で取り押さえるとは。さすがですな」

 二人は並んで、茫然とした表情で佇んでいる。

 ああ、なるほど──町長は思った。

 すでに老齢といえども、かつての越境戦役を生きた日々を覚えている。


 ──あの表情は、死を悟った人間ものだ。 


 どう……と低く、大地が轟いた。

 爆発。爆轟。

 渓谷のあちこちから、巨大な土煙があがる。

 ゆっくりと、岩盤が崩れていく。

 崩れゆく地盤が雪崩れ込もうとしているのは、連邦の軍勢が控えている──隣国が会談の場所として用意した要塞に続く平地である。

「逃げろ!」

「くそ、やられた!」

 逃げ惑う連邦の兵士たち。

 軍列の最後尾を守っていた者たちは、からくも土砂崩れから逃れられる──小さな希望すらも、打ち砕かれる。

「……ギデオンだ」

 土砂崩れを起こしていく岩肌に、無数の侵略兵器たちが見えた。

 超高速で岩肌を下り、兵士たちの退路を塞ぐ。

 耳障りな甲高い音が、断続的に響く。

 キィキィ、ジィジィと唸る、キカイの兵士たち。

 人の形とはほど遠い、四つ足からそのまま上半身が生えている、のっぺらぼう。

「ぎゃああ!」

「くそ、イカイの……イカイの異形どもが!」

 絶望が満ちていた。

 破壊のかぎりをつくし、地形すらも歪める、イカイの技術。

 ただ人を殺すための異形の兵士をヒガンに送り込んだ、イカイの無情。

 ああ、決裂だ。

 その場にいる全員が、絶望した。

 イカイの技術を取り入れんとする勢力は、完膚なきまでに連邦をたたきのめしたのだ。

 この先に待ち受けているのは、終わりのない内乱だ。

 混乱と虐殺。反撃と泥沼。

 ──越境戦役がもたらす、最悪の事態。

 イカイの技術をもって、ヒガンの民が殺し合い、憎み合う。


 人の思いは、届かない。

 人の願いは、叶わない。


 地獄のような世界の幕開けだ。

 そう、誰もが思っていた。


 ──しかし。

 絶叫する彼らの前に、その魔女は立っていた。

 麦金色の髪に、大きなつば付きのとんがり帽子。手にした文箱をくくりつけた杖。


「……さあ、縁の糸は繋がれて、我が魔術は十全」


 小さく呟いたはずの声は、凜と響いた。

 そうして、その声に呼応して……大地が静寂した。

 崩れる土砂が静止して、渦を巻く。

 土砂がまるで轆轤ろくろで形作られる土細工のように、形を成していく。


「魔女だ」


 誰かが叫んだ。


「おっとー、違うよ」


 アンバーは答える。

 魔女ではない。この地で魔女と呼ばれていた人と、アンバーは、決定的に違っている。


「ただの魔女じゃない。本物の魔女だ」

 

 アンバーは言った。

 本物の魔女が編み上げた土砂のヘビは、のたうちまわって地面を叩く。

 兵士に襲いかかろうとしていた無数のギデオンどもが、季節外れの蚊のように叩き潰される。


 ──その日、多くの人間が目の当たりにした。

 本物の魔女の存在を。

 生まれながらの魔女の権能を。


 だが、強大なる魔女の力で生み出された巨大な土砂細工では、ギデオンも人も等しくすりつぶしてしまう。

 すでに到達したギデオンの奇襲に晒された兵士たちは、必死の抵抗を続けていた。

 ──しかし。


「さあ、全部ぶっとばします。あんすとっぱぼー!」


 彼らの窮地を救ったのは、すでに至近距離に迫っていたギデオンたちを一体ずつ葬っていく銀髪の少女──人間離れした動きで戦う、イカイ製の人型自律キカイだった。

 土くれの触手でなぎ払われ、ジィナと銘打たれた人型自律キカイによって破壊されたギデオンたちの数は、のちの調査で万を数えることが分かった。 

 これは厄災遺物の中でも、群を抜いた数である。


「……これが、本物の魔女か」


 圧倒的な力を前に、カタラの声は震えていた。

 自らが引いたはずの、虐殺と破壊の引き金──これもイカイ兵器に由来する言葉だ──それが、たったひとりの女の力によって、なかったことにされていく。

 ギデオンの軍勢が、瓦解していく。

 ひとつ、またひとつ、カタラが奪うはずだった命が救われていく。

 憑き物が落ちたような面差しで、カタラはその光景を見つめていた。


 「何もかも、滅茶苦茶だ」


 へたりこんで、半笑いになったカタラが呟く。

 この手で起こすには、あまりにも強大すぎる破壊だと思っていた。

 人の手には負えない、背負うにはあまりにも大きすぎる殺戮だと──そう思っていた。

 けれど、どうだ。

 目の前ですべてをひっくり返してみせた、本物の魔女は軽々とその業を背負ってみせたのだ。


「さあ。見たかい、みんなたちー?」


 これも魔術の一種なのか。

 遙か彼方にいるはずのアンバーの声が、まるで耳元で囁いているかのように響く。


「努々忘れるなよー。これが魔女。私こそが魔女。手紙の魔女アンバーが成したことだ」

 

 タシスはカタラの手を取って、立ち上がる。

 アンバーの守った地平に降りて、大きく息をした。

 生きている。数多くの兵士たちも、町長もアンバーもタシスも、生きている。

 すっかり言葉を失った軍勢の前に立つアンバーのもとにたどり着いて、タシスは大きく息を吸う。

 飴細工のように操られた大地は、もとの瓦礫になっていた。土砂崩れの恐れは、もうない。

 万軍のギデオンを呑み込んで、静かに平らかになっていた。


「……手紙の魔女か。たいした手紙もあったものだ」


 タシスが呟いた言葉が、アンバーの耳に届くと同時に、大地が轟く。

 イカイの兵器による爆破でも、土砂崩れでもない。

 アンバーに命を救われた兵士たちが、歓喜の声をあげたのだ。

 タシスは背後にいるカタラを振り返る。

 このまま無罪放免とはいかない。彼女がしたことの落とし前はつけなくてはいけない。

 だが、それでも──彼女は生きている。

 大量の連邦の人間を巻き添えにして、土砂に呑まれて死ぬことはなかった。


「カタラ」


 まずは今この瞬間を喜ぼうと、タシスは旧友を振り返った。

 その瞬間。

 「たん」という乾いた──嫌な音が、聞こえた気がした。


「……カタラ?」


 タシスの声に、カタラは応えず。

 かくん、と糸の切れた操り人形のように、地面に崩れ落ちた。


「……っ! か、たら」

  

 何が起きたかはわからずとも、何が起きようとしているかはわかる。

 タシスはカタラに駆け寄って、その身体を助け起こす。

 どろり、と熱い血がタシスの手を汚す。

 狙撃だ。

 イカイの武器による、遠隔攻撃だった。


「狙撃手がいます。伏せて」


 ジィナがぐいっとアンバーを地面に引き倒す。

 カタラのそばから離れないタシスを庇うようにして、ジィナは射線を切る。

 

「見えた、そこ」


 ダン、と轟く銃声。

 先程、遠くから聞こえたものと同じだ。

 ジィナが瞬時に組み立てた遠距離狙撃銃スナイパーライフルから放った銃弾は、狙撃手の脳髄を撃ち抜いた。

 自動操縦のドローンではなく、人間の狙撃手を用意しているとは──なんとも古くさくて、周到で、執念深いやり口だ。

 だが、それはジィナにしか知覚できないこと。

 ──そして、もう、何もかもが遅すぎた反撃だった。


「カタラ、カタラ!」


 親友の名を呼ぶタシスの声に、カタラは弱々しく唇を動かした。

 タシスの慟哭は、兵士たちの声でかき消される。唸るような熱狂。喝采は止まない。

 アンバーは立ち尽くす。

 消える命をこの世につなぎ止めることは、魔女にもできない。


 イカイ派の人間たちは何もかもを見届けて、カタラだけを殺してみせた。

 計画が頓挫したとなっても、彼女がいなければこの一連のできごとの真相は闇の中だ。

 裏切り者には死を、死者には沈黙を。

 人間の底抜けの悪意にアンバーは眩暈を覚えた。

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