第二章【月編】: 太陽は今
◆
ある日の夕暮れ、ちょっとしたアクシデントが起きた。
「おっと危ないよ、お嬢さん」
ジャハムはそう言うなり、猫のシーラを抱き上げた。
次の瞬間、馬車が土煙を上げて通り過ぎる。
もしジャハムがシーラを抱き上げていなければ、シーラは哀れ地の染みとなっていただろう。
「シーラ!」
二人が血相を変えてジャハムに駆け寄る。
シーラはジャハムの腕の中で丸くなり、ゴロゴロと喉を鳴らしていた。
「あ、ありがとうございます!」
リオンが頭を下げると、ジャハムは苦笑しながら手を振った。
「いいんだ、いいんだ。でもな、この辺は気を付けたほうがいい。この国も最近は賑やかになってのう。ああいう風に馬車の行き来が増えてきた」
特に、とジャハムは家の前の通りを指さす。
ジャハムの指──骨に皮膚が張り付いたような、水気に乏しいその指が、リオンにはどこか魔女の指のように見えた。
「特にこの大通りは危ない。猫のお嬢さんは夕暮れや朝、馬車が行き来する時間帯は家から出さないほうがええな」
ジャハムの言葉にリオンとクラウディアが神妙な様子で頷くと、ジャハムは二人にシーラを手渡し「それではな」と去ろうとしたが、思い出したように振り返って言った。
「そうだ、クラウディアさんにはもう伝えたことじゃが……裏の森な、あそこには立ち寄っちゃいけない。別に国が決めたことじゃないからの、入ろうと思えば入ることはできる。ただ、儂はお勧めしない。あの森の精霊は儂らの最後の願いを叶えてくれる。しかし、ただ叶えてくれるだけじゃあないんだ。だから……起こしちゃならんのよ」
ジャハムは目を細めて、森を睨みつけていた。そして今度こそ、手を振って去っていく。
残された二人はどちらともなく顔を見合わせた。
「……気を付けなくっちゃ、ね。シーラのことも、森のことも」
クラウディアの言葉にリオンは頷いた。
「ああ。それにしても……どこから出ていったんだろう?扉を開けて出ていったわけじゃないよな。締め忘れたか……?」
リオンはシーラに鼻を付き合わせて、わずかに眉をしかめて言った。
空は暗い。
もう夜だ。
月が翳っていた。
◆
ホラズム王国では、太陽は命の象徴として考えられている。
間違った考えではない。
太陽の光がなければ、生物は生きていけない。
しかし、その光が強すぎれば他の命を傷つけることもある。
・
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「それで、弟の行方は?」
ホラズム王国第一王子──太陽の王子ことエドワードは静かにそう問いかけた。
ここはエドワードの私室である。
そしてこの場には、エドワードと数名の男たちがいた。
「足取りを辿るに、サルーム王国へ」
「同行者がいるようです」
「第二王子殿下につきましては、サルーム王国で、その……市井の暮らしをされているようです」
男たちは口々に集めてきた情報をエドワードへ伝えた。
その間、エドワードは目をつむり、情報の一つ一つを吟味していた。
少なくとも、かどわかされたわけではないことに安堵を覚える。
とはいえ疑問もあった。
なぜ弟は逃げ出したのか。
ホラズム王国のリオンの暮らしぶりを考えてみるが、見当がつかない。
リオンはホラズム王国の王族として、それなりの暮らしをしていた。
豪勢な食事、きらびやかな衣服。
リオンは読書を好んでいたが、もしその気になれば、このホラズム中の書物を読み漁ることだってできただろう。
──しかし、国を捨て、婚約者を捨て、家族を捨てた
もしもエドワードに他者に対する共感性のようなものが少しでもあれば、リオンがホラズム王国を去った理由がわかったかもしれない。
だが、エドワードにそんなものはなかった。
太陽は天空にあり、何よりも眩く輝く。
ゆえに周囲の小さな光の一つ一つに気づくことができない。
「リオンはサルーム王国でどのように暮らしているのか」
「は、どのように、とは……先ほどお伝えした通りですが……」
男の一人がそう言うと、エドワードはわずかに眉をひそめた。
すると男はまるで天から降り注ぐ陽光の一条が、光の針となって自身に突き刺さったのような感を覚えた。
「幸せか、不幸か、ということだ」
ここでようやくエドワードの言わんとすることがわかった男は、「少なくとも不幸には見えません」と答える。
個人の幸せや不幸は個人の主観によるところが大きく、第三者が軽々に判断できるものではない。
しかしこの諜報員の男の目から見ても、リオンはホラズム王国で暮らしていた頃より多くの笑顔を浮かべていた。もっとも、「王国にいた頃より幸せそうでしたよ」とはさすがに言えなかったが。
すると、エドワードは小さく「それならいい」と答えた。
「弟が
エドワードの言葉に、男たちは次々退室していく。
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