四 密偵の依頼
「辛い事とはなんですかい。これ以上の辛い事があるんですかい」
祖母は声を震わせて尋ねた。
「芳太郎に頼みがある。
押込みの後、成りを潜める『寝首かき一味』の手口からして、一味は北町奉行所の町方を知っていると思われる。
そこで、料亭兼布佐をこの北町奉行が直々に管理して、其方が継げるように致す故、其方は料亭兼布佐を継げるよう板前修業をして料亭兼布佐を継ぐのだ。
また、其方が父たちの敵を討てるよう、仇討ち許可証文と、御法度の賭場への出入りを許す証文を渡す故、其方は日野道場で剣術修業し、元服したら賭場に出入りし、
日野道場は浅草熱田明神の傍にある。道場主の日野徳三郎は剣の達人で、惨殺事件の太刀筋を見極める北町奉行所の検視方である。検視医を務める検視方の町医者竹原松月とは知古である。
祖父は北町奉行の言わんとする事を理解した。
「もしかして、孫に北町奉行所の密偵をしろと仰せですかい」
祖父の顔が青ざめている。謙吉が斬殺されて布佐と娘の由起が行方知れずの上に、芳太郎が危険な目に合うであろう状況を、みすみす黙って受入れられぬ・・・。
「如何にもその通りだ。それ故、儂が直々に頼みに参ったのだ。
密偵の件は、引き受けずとも良いのだ。
仇討ち許可証文は、元服前の芳太郎ではのうて祖父の其方に預ける。『寝首かき一味』を見つけた折は、どのように討とうと、お咎め無しじゃ。
その事とは別に、料亭兼布佐の管理を儂が直々に指示する故、芳太郎は板前修業して料亭兼布佐を継いで欲しいのだ。
それとも、芳太郎は、料亭兼布佐を継ぐ気は無いか」
北町奉行は事も無げに言ったが、腹の内は全く違った。何としても、板前修業と共に剣術修業させ、元服後は密偵をさせたかった。藤堂八十八にはその事がよくわかった。
「お奉行様はどうしてそこまで・・・」
祖父は北町奉行に不信感を抱いた。何か魂胆があるはずだ・・・。
「料亭兼布佐は神田花房町にあり、北町奉行所の検視医、神田佐久間町の町医者竹原松月とは知古だ。この与力の藤堂八十八も、町医者竹原松月を通じて料亭兼布佐の主夫婦とは親しい。また、先ほど話した日野道場主の日野徳三郎は北町奉行所の検視方で町医者竹原松月共々、料亭兼布佐と知古だ。
芳太郎も、この藤堂八十八をはじめ、北町奉行所の同心たちと、日野道場主の日野徳三郎を良く知っておるはずだ」
北町奉行の話に、芳太郎が泣きはらした眼で頷いた。
「料亭兼布佐は単なる料亭ではない。芳太郎のために、この北町奉行が肩入れするのを、重々に理解して欲しい」
北町奉行の言葉に、奉行は丸め込むのがうまい、と藤堂八十八は感心た。
「今此処で返事を聞きたいとは言わぬ。兼吉の葬儀もある。其方たちの心が落ち着くことは無いと思う。
だが、料亭兼布佐を継ぐ事と、『寝首かき一味』の所在を探る事について、決心がついたら、この北町奉行に知らせてくれまいか。
『寝首かき一味』の探索はできぬと言うなら、せめて、父兼吉の後を継いで料亭兼布佐を切り盛りできるようになって欲しいのだ。
その旨の手助けを、この儂にさせてはくれぬか」
そう言って北町奉行は座布団から退いて畳に手をつき、藤堂八十八共々、芳太郎と祖父母に深々と御辞儀した。
祖父母は驚いた。北町奉行がここまでするとは思わなかった。祖父は決断した。
「お奉行様、
芳太郎。お前どうする。父ちゃんは殺され、母ちゃんと由起は行方知れずだ。
母ちゃんと由起が殺されるなら店で殺されたはずだ。
行方知れずってえ事は、拐かされたって事だ。二人とも生きてるはずだ。
儂はなんとしても、母ちゃんと由起を助け出してえと思う。
お前も、儂といっしょに二人を探して、父ちゃんの敵を討とう。
儂は、父ちゃんを殺した一味を探して敵を討ち、母ちゃんと由起を助けねば、この先、生きてなんぞいられねえ。
お前は、何もせずに生きてられっか」
芳太郎に向かって祖父は静かに穏やかにそう言った。
「わかった。『寝首かき一味』を探して、敵を討って、母ちゃんと由起を探す。
お奉行様、おらに板前修業と剣術修業をさせてください」
芳太郎は涙を堪えてそう言い切った。
「では、葬儀が済み次第、そのように取り計らう。
行方知れずの布佐の身を守るため、布佐は他界したことにして、兼吉と布佐の葬儀を行なう。葬儀は北町奉行所が仕切るが、表立っては、其方たちが仕切って下さらぬか」
またまた、北町奉行は祖父母と芳太郎に深々と御辞儀した。
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