第6章:『論理も直感もすべて……君に届け!』
文化祭当日、まだ薄暗い早朝の校舎に、二人の足音が静かに響く。フロイディーヌ・サクヤとユンゲリア・カオリは、心理学部門の展示の最後の調整に追われていた。普段は生徒たちの喧騒で賑わう廊下も、この時間はひっそりとしており、二人だけの空間のようだった。
サクヤは今日のために特別に選んだ衣装に身を包んでいた。深みのあるボルドー色のブラウスに、ハイウエストの黒のスラックス。シンプルでありながら、彼女の知的な雰囲気と曲線美を際立たせる組み合わせだ。髪は普段のポニーテールではなく、緩やかなお団子スタイルにまとめ上げられ、首筋の美しさを強調している。化粧も普段より少し濃いめで、特に目元は、ダークブラウンのアイシャドウとマスカラで深みのある印象に仕上げられていた。
一方のカオリは、淡いラベンダー色のワンピースに、白のカーディガンを羽織っていた。ワンピースのウエスト部分にはさりげなく刺繍が施されており、エスニックな雰囲気を醸し出している。髪は普段のゆるいウェーブではなく、編み込みのハーフアップスタイルにアレンジされ、可愛らしさの中にも凛とした印象を与えていた。メイクは自然な血色感を演出するチークと、ほんのりピンクのリップグロスで、健康的な魅力を引き立てている。
二人は無言のまま、展示パネルの配置を確認し、ポスターを壁に貼り付けていく。その作業の中で、時折手が触れ合うことがあった。そのたびに、二人は一瞬動きを止め、互いの存在を強く意識する。
ポスターを高い位置に貼ろうとしたカオリが、バランスを崩しそうになった瞬間、サクヤが咄嗟に彼女の腰に手を添えた。
「大丈夫ですか?」
サクヤの声には、普段の冷静さの中に、かすかな動揺が混じっていた。
「あ、はい……ありがとうございます」
カオリの頬が、わずかに紅潮する。二人の目が合い、すぐに逸らされるが、その一瞬の視線の交錯に、言葉にできない何かが宿っていた。
(カオリさんの目、本当に美しい……琥珀色の中に、宇宙が広がっているみたい)
サクヤは、自分の心の声に驚きを隠せなかった。
(サクヤさんの手、やっぱり冷たいのに温かい……。不思議だけど、安心する……この気持ち、いったい……)
カオリも、内心では激しい動揺を感じていた。
作業を続ける中で、二人は自然と会話を交わし始める。最初は展示の内容や心理学の理論についてだったが、徐々に個人的な話題へと移っていく。
「サクヤさん、心理学に興味を持ったきっかけは何だったんですか?」
カオリの質問に、サクヤは少し考え込んでから答えた。
「この前の心理戦でも言いましたけど、幼い頃、父の書斎で見つけたフロイトの著書がきっかけです。難解な内容でしたが、人間の心の奥底に潜む謎に魅了されて……」
サクヤの目が遠くを見つめる。その表情に、普段は見せない感情の深さが垣間見えた。
「カオリさんは?」
「私は、祖母が語ってくれた神話や伝説がきっかけでした。そこに登場する象徴的な存在が、人間の無意識を表しているように感じて……」
カオリの答えに、サクヤは深く頷いた。二人の興味の源が、意外にも近いところにあったことに、互いに驚きと親近感を覚える。
展示の説明をし合う中で、サクヤのクールな分析にカオリが魅了され、カオリの直感的な洞察にサクヤが心を動かされる。二人の間で交わされる言葉は、単なる理論の応酬ではなく、互いの心の深層に触れるものになっていった。
「カオリさんの言う「集合的無意識」の概念、確かに興味深いですね。個人の経験を超えた普遍的なパターンが存在するという考えは、文化や芸術の理解にも応用できそうです」
サクヤの言葉に、カオリの目が輝いた。
「そうなんです! サクヤさんのおっしゃる『無意識の欲動』と、私の言う『元型』は、実は深いところでつながっているのかもしれません」
二人の議論は、次第に熱を帯びていく。しかし、それは以前のような対立ではなく、互いの考えを補完し合うような、建設的なものになっていった。
昼食の時間が近づいても、二人は話し込んでいた。他の生徒たちが準備で忙しく立ち回る中、サクヤとカオリだけが、静かな空間に浸っているようだった。
「あの、もしよければ……一緒にお昼を」
カオリが少し躊躇いながら言いかけたとき、サクヤが頷いた。
「ええ、喜んで」
その返事に、カオリの顔が明るく輝いた。
二人は校舎の裏手にある小さな中庭で、お弁当を広げた。木漏れ日が二人の間に落ち、まるで二人だけの世界のようだった。
「まあ、なんて美しいお弁当……!」
カオリが感嘆の声を上げる。サクヤの弁当箱には、色とりどりの野菜と、細やかに細工された卵焼き、形の整ったおにぎりが、まるで芸術作品のように並んでいた。
「ありがとうございます。料理は……一種の瞑想のようなものですから」
サクヤの言葉に、意外な一面を見た気がして、カオリは嬉しくなった。
「サクヤさんのその考え方、素敵です。私も料理、好きなんです。特に、父の母国であるスイスの伝統料理を作るのが楽しくて」
会話は自然と弾み、学問の話から個人的な話まで、時間を忘れて語り合う。サクヤの口調は、普段の冷静さの中にも柔らかさが混じり始め、カオリの笑顔は一層輝きを増していく。
その姿を見た他の生徒たちは、意味ありげな視線を交わしていた。
「ねえ、あの二人、すごく雰囲気変わったよね?」
「うん、サクヤさん、笑ってる! あたし初めて見た」
「カオリさんも、サクヤさんの前だとすごく輝いて見える」
囁き合う声が、中庭の周囲に静かに広がっていく。しかし、サクヤとカオリは、そんな周囲の反応にも気づかないほど、互いの世界に没頭していた。
午後の展示準備も、二人で協力しながら進めていく。心理テストのブースでは、サクヤが論理的な設計を担当し、カオリがユーザーフレンドリーなデザインを提案。二人の才能が見事に調和し、魅力的な展示が出来上がっていった。
夕方近く、ようやく全ての準備が整った。疲れて座り込む二人。肩が触れ合うほどの距離で、心地よい沈黙が流れる。
「カオリさん……」
「サクヤさん……」
同時に名前を呼び、二人は照れ笑いになる。その瞬間、二人は何かが確実に変わりつつあることを感じていた。フロイトの言う「転移」なのか、ユングの言う「個性化」なのか、それとも単純に「好意」と呼ばれるものなのか。まだ言葉にはできないが、確かに特別な感情が芽生えていることを、二人とも感じ取っていた。
しかし、まだ口には出せない。最終決戦を前に、互いの心は期待と不安で満ちていた。
「明日は……文化祭本番ですね」
「ええ。そして、私たちの最後の心理戦が……」
言葉を交わす二人の目には、決意と同時に、どこか名残惜しさのようなものも浮かんでいた。
夕暮れの校舎に、オレンジ色の優しい光が差し込む。サクヤとカオリの長い影が、廊下に伸びていった。
「では、明日」
別れ際、二人は互いに微笑みを交わす。その表情には、どこか特別なものが宿っていた。
サクヤは帰り道、星空を見上げながら考えていた。
(カオリさんの存在が、私の中の何かを変えていく……これは、フロイトの言う「昇華」なのかしら? それとも、ユングの言う「アニマとの出会い」?)
一方、カオリも自分の心の変化に戸惑いを感じていた。
(サクヤさんと一緒にいると、心が落ち着くのに、同時にドキドキする。これって、ユングの言う「魂の結婚」の始まりなのかな? でも、もっとシンプルな感情かもしれない……)
二人の心に芽生えた感情は、まだ曖昧で形にならないものだった。しかし、それは確実に、二人を新たな世界へと導いていくのだった。
◆
翌朝。サクヤは普段より丁寧にメイクを施し、髪も入念にセットしていた。ダークプラムのアイシャドウで目元に深みを持たせ、唇には控えめなローズピンクのリップスティックを塗る。首元には、母から譲り受けた小さなダイヤモンドのペンダントをそっとつけた。
カオリも、いつもより早起きして服を選んでいた。淡いミントグリーンのブラウスに、フローラルプリントのスカートを合わせる。髪は両サイドを小さく編み込み、バックで結ぶハーフアップスタイルに。メイクは自然な血色感を演出するチークと、ほんのりピーチ色のリップグロスで仕上げた。
二人とも、なぜか今日は特別な一日になる予感がしていた。
文化祭が始まり、心理学部門の展示室は多くの来場者で賑わっていた。サクヤとカオリは、息の合ったコンビのように、テキパキと説明や案内をこなしていく。時折、二人の視線が絡み合うと、わずかに頬を染めながらも、温かな微笑みを交わす。
その姿を見た来場者たちは、心理学の展示以上に、二人の関係に興味を持ち始めていた。
「あの二人、きっと特別な仲なのよ」
「うん、見てるこっちまで幸せな気分になるね」
囁き合う声が、展示室内に広がっていく。
サクヤとカオリの心の中では、互いへの想いが静かに、しかし確実に大きくなっていった。しかし同時に、これから行われる最終決戦への緊張感も高まっていく。
文化祭の熱気の中、二人の心は期待と不安が入り混じった複雑な感情で満たされていた。そして、夜が近づくにつれ、最終決戦の時が刻一刻と迫っていくのだった。
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