第31章 不意打ちは必然で
「私は、白神さんを振りました。」
音羽の言葉を聞き、室橋の思考は一瞬と言うにはやや長い時間、その稼働を停止した。
それは、体中隅々まで張り巡らされた神経とその中をせわしなく行き来する電気信号の流れをも止め、脳から下に向かってシャットダウンするかのようであった。
寸でのところで体が震え、予備電源を作動させたかのように徐々に体内が動き出す。
眼球がゆっくりとピントを合わせ、ぼやけていた視界をクリアなものにする。
それを合図にようやく室橋の理性が思考の停止と再稼働の行き来を理解する。
『もしかすると、白神さんから考えた方が分かりやすいかもしれません。』
音羽の言葉が一瞬だけ室橋の脳裏によぎった。
もしかすると音羽はずっと前から知っていたのかもしれない。
いや、自分よりも随分早くに理解していたのかもしれない。
どちらでもいい。何とも言えないもどかしさが、腑に落ちない不愉快な感覚が、下限を知らない予備電源により増幅し、苛立ちに近い形で脳を支配しようとしている。それを元々持ち合わせていた理性が必死に抑えようとしている。その葛藤が自分の中に起こっていることが、確かに存在している事実であった。
室橋はできるだけ冷静になるように努めながら、残された僅かな余力でその苛立ちの根源を探る。
(音羽と白神の関係を自分は何も知らなかった。)
(恋愛的な意味で関係を築いていたのは自分と颯人だけだと思ってた。)
(自分と颯人の関係を秘密にしていたのはメンバーとは対等な関係でありたかったわけで・・・)
(『サークルのことをなんでも、一番知っているのは自分だと思っていたから?』)
「・・・音羽ちゃん。それって・・・どういうこと?」
声が上手く出ない。声帯が自身の動き方を思い出した直後であると言わんばかりにぎこちなく声を絞り出し、かろうじて言葉を外部へ届ける。
室橋の身体は、すっかり酔うことを忘れていた。
「どうって言われましても・・・そのままの意味です。」
「・・・いつの話なの?」
「・・・あー、そういうことですか。雪乃さんが知らないのも無理はないです。だって、引退ライブの後に起こった出来事ですから。」
「えっと・・・ライブの後はすぐに打ち上げがあったから、その後ってこと?」
「はい、店前で別れて帰路についていた時に電話で呼び出されましてね・・・。少し長くなるので順を追って話します。窓を開けても良いですか?」
音羽はまだ中身の入っているストロング缶を持って移動し窓を開ける。
そのまま、窓際に座り、口とのどを潤すように缶の飲み口に口をつけた。
「・・・すこし暑いですね。これ、脱いでしまいましょうか。」
音羽は、パーカーのチャックを下ろし袖を腰に巻き付けてお腹の前で結ぶ。
パーカーの下に来ていたチャコールグレーの緩めのタンクトップが、音羽のボディラインを部分的に明らかにする。
「ちょっと音羽ちゃん!?ここ1階の窓際よ!誰かに見られたらどうするの!」
「この辺、街灯も少ないですし大丈夫ですよ。それに・・・今夜は月が細いですから。」
余裕な微笑みを見せる音羽に対し、なぜか室橋の方が恥じらいを覚え始める。
「でも・・・音羽ちゃん華奢なのに・・・その・・・けっこう・・・あるから・・・」
「ん?・・・あー・・・そういうことですか。銭湯で全部見ましたよね?」
音羽は、自身と少し離した場所にストロング缶を置き、室橋の方へ向かい一気にその距離を詰める。
「全部見たって・・・きゃ!」
ドサッ!
音羽が室橋を押し倒し、上に覆いかぶさる。同時に音羽の左手は室橋の右手首を捉え、室橋の頭上の位置で床に押し付けられるように固定される。
火照った音羽の高めの体温と汗の匂い、アルコールの混ざった熱めの吐息が室橋の全身を包んでいく。
「もしかして雪乃は部分的に見えてる方が好きなんですかー?」
音羽は余裕そうに、それでいて悪戯な笑顔を室橋に向けながら唯一自由に動かすことができる右手で、胸元をチラつかせる。
室橋は音羽からの問いかけを否定するように目を瞑り、視線を逸らせるように横を向く。
「雪乃は案外、ムッツリさんなんですね。」
横を向いたことで音羽の前に差し出された耳に音羽は吐息交じりに囁く。
「ひゃ!・・・音羽ちゃん!いい加減にしなさい!」
室橋が唯一動かせる左手でがむしゃらに音羽を押す。
ひゃあ!
吹き飛んだように音羽の体が室橋から離れる。
室橋は体を起こし、音羽の方を見る。
音羽は頬を赤らめ、力なく座り込んでいる。その右腕は守るように両胸を抱えていた。
その表情に先ほどまでの余裕も色気もなく、それどころか最初からそんな表情をしていなかったような対極的なものであった。
「ゆ・・・ゆきのぉ・・・不意打ちはズルいですよ・・・」
音羽の言葉を聞き、室橋は何が起こったのかを理解する。
「まったく・・・もう!音羽ちゃん!悪ふざけがすぎるわよ!」
「へへへ、少しやりすぎてしまいました。」
音羽は再び窓際に座り、ストロング缶に口をつける。
夜風が吹き、音羽の髪を揺らす。
「・・・白神さんの話ですよね?そんなに改まってするほどの話ではないのですが・・・」
落ち着いた表情で室橋の方に向き直り、音羽が口を開く。
それはいつもの淡々とした口調ではなく、どこか言葉を選んでいるようであった。
「私は、恋愛のことは今でもよくわかりません。雪乃さんが古間さんに夢中になるのと、私がピアノ・・・音楽に夢中になるのと何が違うのでしょうか?」
「えっと・・・それは・・・」
室橋は答えに詰まる。違いはある。ただ、その違いをどう言語化すれば良いのかがわからなかったのだ。頭に浮かんだ自分の説明に自分が納得できていない状態であった。
そんな説明に説得力があるわけがない。
「いえ、答えてほしいわけではありません。これまでも、この問いを説明できる・・・いや、私が納得できる解を提示してくれた人はいませんでした。ただ・・・今日、雪乃さんと古間さんを見て、その空間で一緒に過ごしてみて、何となくわかりました。」
『これは・・・分かりませんね。誰かに解を求めることがそもそも間違っていました。』
「私は、間違ったのかもしれません。白神さんを傷つけてしまったのかもしれません。」
音羽は、あの夜の出来事を話し始める。
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