第9話

 今から一ヶ月ほど前、久しぶりに彼のバイト先へご飯に行った。


「お久しぶりっす!ご注文はどうするっすか?」


 3つ歳下の天野ちゃん。灯真の後輩で仲が良いらしい。最近蒸し暑くなってきたから、ラフな格好に黒いエプロンを巻いている。ふと、胸元に目が行った。鎖骨の下にある小さな赤いホクロ。まさかと思った。


「天野ちゃん、最近誰かとキスした?」


「え!なんすか急に!最近はしてないっすよ」


「じゃあ!最後にしたのはいつ!?」


「怖いっすよ!」


「お願い、言って!」


 私の気迫に押され、天野ちゃんは渋々答えた。


「最後は高一の冬っす...。浮気してた元カレと」


「...そう。すぐに。明日にでも私と一緒に病院に行きましょう」


「大丈夫っす。知ってますから全部」


「え?」


「覚悟のうえです」


 いつもと明らかに違う、触るだけで凍傷しそうな、ドライアイスのような眼差し。すると奥から、呑気に鼻歌を歌いながら店長が料理を持ってきてくれた。


「久しぶりだな国見ちゃん。灯真のバカが珍しく張り切ってるぞ」


 結局、彼の手料理を食べたのはそれが最後で、天野ちゃんと話も出来なかった。きちんと話がしたいと、天野ちゃんをカフェに呼んだのが2回目のお茶会だ。天野ちゃんは灯真が好き。けれど彼女は全てを諦めている。私がいるから。


 3回目のお茶会に呼ばれるとは思っていなかった。呼ばれた場所に行くと、彼女は怒っていた。灯真のために怒っていた。「先輩の気持ちはどうなるんですか」と周りのことばかり気にして、一番大切なことを見失っていた。彼女は私の背中を叩いた。大の字の赤い紅葉は私を彼の元へと動かした。


 走った。ボサボサの髪で、流れる汗を拭わず、彼の元へ急いで。


 結果は散々だ。こんな気分でも腹は減る。お酒も、もうやめておこう。頭が回らず、千鳥足でキッチンに向かう。ガタッ。肩がぶつかり、何かが落ちた。なにが落ちた?それを目にした途端、足元から力が抜けていき、膝から崩れ落ちた。彼から貰った赤いお弁当箱がひっくり返って私に背を向ける。ああ。そうだった。まずは「ありがとう」だっ"た"。横でご飯を作ってくれるのが日常になってい"た"。言えてなかっ"た"。ごめんね。謝っても、もう遅いか。しゃがんでお弁当箱を拾った。これはもう使えないや。

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