とうりゃんせ卍プラカノン

美咲は興奮と期待で胸を膨らませながら、バンコクの喧騒に身を委ねていた。春休みを利用した初めての海外旅行。大学の講義で学んだ東南アジアの文化に魅了され、このタイという国に強く惹かれていた彼女は、やっとの思いで友人の麻衣と一緒にバンコク行きを実現させたのだった。しかし、その夜は彼女の人生を永遠に変えることになる。


スクンビット通りのネオンが瞬く中、美咲は麻衣と、現地で知り合った日本人留学生の健一と共に最新のナイトクラブ「エレクトリック・ドリーム」に向かっていた。クラブの入り口には既に長蛇の列ができており、色とりどりのネオンが夜空に輝いていた。音楽が建物の外まで漏れ出し、美咲の心臓は既にそのビートに合わせて高鳴っていた。


「タイの夜は始まったばかりだよ!」健一が叫んだ。彼は留学で1年ほどバンコクに住んでいて、二人の女子大生のガイド役を買って出てくれていた。


クラブの中は別世界だった。レーザー光線が暗闇を切り裂き、巨大なスピーカーから轟く重低音が体の芯まで響いてくる。見知らぬ人々との偶然の出会い、甘いカクテルの味、そして終わりなき興奮。美咲は今までの人生で体験したことのない解放感に酔いしれていった。


深夜2時を回った頃、疲れと酔いで少し気分が悪くなった美咲は、先に帰ることにした。麻衣は健一とまだ踊り続けており、美咲は二人に心配をかけまいと「大丈夫、ホテルまでタクシーで行くから」と笑顔で告げた。ホテルまでは15分ほど。スマートフォンのマップアプリを確認しながら、簡単に戻れるはずだった。


しかし、その「はず」が運命の分かれ道となった。


バンコクの夜は蒸し暑かった。プラカノン駅近くのクラブを出た美咲は、湿った空気に包まれながら歩き始めた。遠くで雷鳴が聞こえ、スコールの予感がした。プラカノン運河に沿って歩けば、すぐにホテルに着けるはずだった。


運河沿いの細い路地に入ると、急に街の喧騒が遠のいた。両側には古いショップハウスが立ち並び、そのほとんどは既に店仕舞いしている。女子大生の美咲は、少し不安になりながらも、スマートフォンの画面を頼りに歩を進めた。


その時、彼女の携帯電話が突然バッテリー切れを起こした。「まあいい、運河に沿って歩けば大丈夫だろう」と自分に言い聞かせた矢先、目の前の電柱の街灯が切れた。闇の中、運河の水面だけが月明かりを反射して、かすかに光っている。


路地は予想以上に入り組んでいた。運河に沿って歩いているはずなのに、いつの間にか違う方向に迷い込んでいたようだ。古い木造家屋の隙間から、黒い水面が時々見え隠れする。湿気を含んだ空気が、かびくさい匂いを運んでくる。


その時、不思議な音が聞こえてきた。


ギィ...ギィ...ギィ...


古い扇風機の回る音だった。真夜中の路地裏で、誰が扇風機を回しているのだろう?日本の田舎町で育った美咲は、好奇心と不安が入り混じった気持ちで、音の方向に足を向けた。


路地の突き当たりに、小さな祠があった。その前に置かれた古びた屋台。そして、屋台の上で回っていたのは、黄ばんだ扇風機。羽根は錆びており、首振り機能が壊れているのか、ぎこちない動きで左右に揺れている。


不思議なことに、コンセントは見当たらない。


なのに、扇風機は回り続けている。


その時、遠くから歌声が聞こえてきた。


「とうりゃんせ とうりゃんせ...」


美咲は息を呑んだ。幼い頃、おばあちゃんが歌ってくれた童謡。なぜここバンコクで?彼女は震える手で携帯電話を取り出したが、画面は暗いまま。路地の奥から、白い影が近づいてくる。老婆のような姿。しかし、足元は...地面に着いていない。


扇風機の音が突然大きくなり、羽根の回転が加速していく。黄ばんだプラスチックがきしむ音。そして、その羽根に反射する月明かりが、不気味な影を壁に映し出していく。


「この道を通って... どこへ行くの...」


老婆の声が近づいてくる。美咲は悲鳴を上げて走り出した。しかし、どの路地を選んでも、あの黄色い扇風機の音が追いかけてくる。ギィ...ギィ...ギィ...


角を曲がるたびに、同じような扇風機が次々と現れる。すべて同じ黄ばんだ色。すべてが電源なしで回り続けている。そして、それぞれの扇風機の前には、白い影が立っている。


「あなたはだあれ... どこへ行くの...」


複数の声が重なり合う。美咲は必死で走った。汗が噴き出す。息が上がる。制服のような古びた着物を着た子供たちの影が、路地の壁に揺らめいて見える。


突然、路地が行き止まりになった。振り返ると、無数の扇風機が宙に浮かんでいる。その中心に、一人の老婆が立っていた。しわがれた声で語りかけてくる。


「昔々、この運河で...」


老婆が話し始めた瞬間、雷が光った。まばゆい光の中、美咲は老婆の本当の姿を目にしてしまった。腐りかけた着物。水を含んだ皮膚。そして、扇風機の羽根のように回転する目...


気がつくと、美咲はプラカノン駅前の歩道に倒れていた。夜明けの光が差し始めている。体中が濡れていたが、それは雨のせいなのか、冷や汗のせいなのか、わからなかった。


後日、健一にその夜のことを話すと、彼は青ざめた顔で説明してくれた。


「その辺りは、昔日本軍が使っていた場所らしい。そして戦後、一人の日本人老婆が扇風機の行商をしながら、戦争孤児たちの世話をしていたという。ある晩の大雨で運河が氾濫し、子供たちを助けようとした老婆は...」


健一の話を聞きながら、美咲は思い出していた。あの夜見た無数の扇風機。その一つ一つが、失われた命を表していたのかもしれない。そして、あの子供たちの影は...


今でも雨の夜、プラカノン運河沿いを歩くと、時々黄ばんだ扇風機の音が聞こえてくるという。そして、その音に誘われて路地に入った人は、二度と戻ってこないとも...


美咲の携帯電話には、あの夜の記録は何も残っていない。ただ、メモ帳アプリに一行だけ、見覚えのない文字が残されていた。


「この扇風機はよい扇風機 あなたもどうぞ...」


それ以来、美咲はプラカノン運河沿いの路地を歩くことはない。日本に帰国した今でも、古い扇風機を見るたびに、あの夜のことを思い出してしまう。時々夢に出てくる白い影たちが、本当は何を伝えたかったのか...それは永遠の謎として、彼女の心に残り続けている。


黄ばんだ扇風機は、今も誰かを待ち続けているのかもしれない。運河の底に眠る魂たちと共に...

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