廃寺の池に沈む魂
バンコクの喧騒から少し離れたプラカノン運河沿いに、不気味で古びた5階建てのアパートが佇んでいた。その3階に住む田中昭夫は、日本の大手IT企業からタイに派遣された34歳のエンジニアだった。彼は妻の美樹と5歳の息子健太と共に、1年前にこの街に移り住んだ。しかし、この土地には何か異様なものが漂っていることを、田中一家はすぐに感じ始めていた。
初めてその不気味さに気づいたのは、夜中に聞こえる奇妙な音だった。まるで誰かがアパートの廊下を歩き回っているような足音や、かすかな囁き声。窓を開けると外は暗く、湿った空気が流れ込むだけで、音の正体はわからなかった。それでも昭夫は、疲れた頭の中で「疲労による幻聴だろう」と自分を納得させていた。
しかし、ある晩、ペットの黒猫クロが突然死んでしまった。息を引き取る瞬間、クロは怯えたように黄色い扇風機を見つめていた。その時のクロの瞳に映ったものは何だったのか――昭夫には想像もつかなかったが、美樹はその出来事をただの偶然とは思えなかった。
クロの死は彼らの心に深い不安を植え付けた。美樹の提案で、近所にある廃寺の池にクロの遺体を投げ込むことになった。彼女は、この土地の風習で動物の死体を池に沈めると、悪い運命から逃れられるという言い伝えを聞いたことがあったからだ。
廃寺は、昼間でも薄暗く、苔むした石畳と崩れかけた仏像がその長い歴史を物語っていた。寺の門をくぐると、空気が一変したかのように重苦しくなり、鳥の鳴き声すら聞こえなくなった。その場所には、無数の亡霊が彷徨っているかのような気配が漂っていた。
池にたどり着くと、濁った水面は波ひとつ立たず、まるで時が止まっているかのようだった。池の周りには古びた仏像がいくつも並んでおり、それらはまるで何かを見守っているかのように不気味な視線を投げかけてきた。湿った風が池の上を通り過ぎるたびに、腐敗した藻の匂いが鼻を突き、息苦しさを感じた。
池の中にクロの遺体を沈めると、その水面に一瞬、奇妙な波紋が広がったように見えた。美樹は何かを呟いていたが、それが何かは昭夫には聞き取れなかった。ただその時、昭夫の背筋には冷たい悪寒が走った。
寺を離れる途中、二人はふと寺の奥にある古びた堂を目にした。その堂は崩れかけており、黒い影が揺れるように見えた。そこから、かすかに何かが動く音が聞こえたようだったが、二人はその場を急ぎ足で立ち去った。廃寺の影は、昭夫の心に暗い疑念を残したままだった。
翌日、信じられないことが起こった。クロは何事もなかったかのように帰ってきた。だが、その姿は不気味だった。目は冷たく光り、かつてのクロとは全く違う、異様に静かな存在感を放っていた。美樹は怯え、昭夫も不安を隠せなかったが、猫が再び家に戻ってきたことをどう説明すればいいのか分からなかった。
数日後、健太が突然の交通事故で命を落とした。昭夫と美樹は絶望し、悲しみのあまり正気を失いかけた。美樹は息子の遺体を見つめながら、クロと同じ方法で健太を帰らせようと提案した。彼女は既に現実と虚構の境目がわからなくなっていた。
昭夫は妻の言葉に耳を傾ける気力も失い、ただ黙って従うしかなかった。二人は再び廃寺へ向かい、健太の遺体を池に沈めた。池の水面は再び静かに広がり、その中に健太の遺体は沈んでいった。だが、今回は何も起こらなかった。クロの時のような奇跡は起こらず、ただ時間が過ぎていった。
その夜、昭夫は眠れずにいた。部屋の隅にある黄色い扇風機が不気味な音を立てて回り続けている。その音はどこか生き物のように聞こえ、次第に耳障りになってきた。
突然、扇風機の音が変わった。それは、まるで誰かが話しかけてくるかのような囁き声に変わっていた。昭夫は恐る恐る扇風機に近づいた。
「パパ...」
それは確かに健太の声だった。黄色い扇風機から健太の声が聞こえてくる。昭夫は背筋が凍りつき、言葉を失った。
「パパ、どうして僕を捨てたの?」
その瞬間、扇風機が狂ったように高速で回転し始め、風が昭夫の体を強く引き寄せた。美樹は泣き叫び、クロは低い声で唸っていた。
健太の声は次第に大きくなり、部屋中に響き渡る。
「僕を返して...一緒にいたい...」
扇風機はますます暴走し、昭夫はその風に飲み込まれそうになった。彼は必死に抵抗し、扇風機のスイッチを切ろうと試みたが、スイッチは反応しなかった。
そして、健太の声が静かになり、風が一瞬止まった。
その瞬間、昭夫は何かが自分の後ろに立っているのを感じた。振り返ると、そこには不気味な健太の姿が立っていた。顔には無表情が張り付いており、その目には冷たい光が宿っていた。
昭夫が健太の亡霊を目撃した後、彼の精神は限界を迎えていた。しかし、美樹の方がさらに深くこの異常事態に引き込まれていった。彼女は毎晩、クロの不気味な視線を感じながら、再び廃寺に戻ろうとする意志を固めていた。
廃寺のあの池は、まるで何かを飲み込んでしまうような深い暗闇を秘めていた。美樹はそこに、自分たちが手にしたはずの呪いの力を再び解き放とうと考え始めた。
廃寺の堂々とした門は、年月の経過で崩れかけ、その隙間からは死の匂いが漂っていた。朽ち果てた木材が軋む音が風に混じり、まるで寺自体が生き物のように呻き声を上げているようだった。そこに足を踏み入れるたび、昭夫の背筋は冷たく凍りつくような感覚を覚えた。彼は寺の中で何かに見られている気がしてならなかった。
廃寺の本堂は特に不気味で、長い年月の間に仏像の目がまるで魂を宿しているかのように、来訪者を見下ろしていた。仏像の顔には無表情が刻まれており、それがかえって恐怖を掻き立てる。昭夫は、その視線に耐えられず、目をそらしたくなったが、何かに囚われたように視線を外せなかった。
池のそばに立つと、重苦しい湿気が肌にまとわりつき、足元の土は腐った葉と泥で滑りやすく、踏むたびにぐじゅりと音を立てた。昭夫は、一歩一歩、池に近づくたびに胸の鼓動が速くなり、何か悪いことが起きるという予感が全身に広がっていくのを感じた。空には重い黒雲が垂れ込み、すぐにも雨が降り出しそうだったが、それ以上に、池から漂う異様な静けさが辺りを包んでいた。
美樹が再びクロと共に池の前に立ったとき、彼女は呪いの力がまだこの場所に潜んでいることを確信した。彼女は昭夫に向かって囁くように言った。
「私たちはあの池に、何かを捨てたけれど…それは戻ってきたのよ。何もかも。」
池の水面は、風もないのに微妙に揺れていた。それはまるで何かが水中で動き、彼らを引き寄せようとしているようだった。クロはその場で身を硬くして、じっと池を睨みつけていた。猫の目に映るものは、ただの濁った水ではないことを、美樹も昭夫も感じ取っていた。
夜が更けるにつれて、廃寺の闇は深まり、彼らの不安は頂点に達した。再び池に向かう決心を固めた美樹は、最後の儀式を行うべく、手に持った古い巻物を開き始めた。巻物に記された古代の呪文は、不気味なまでにこの場所と響き合い、廃寺の中で響き渡った。
その呪文が詠唱されるたびに、池の表面は波打ち、まるで何かが水面下で蠢いているかのようだった。風が突然吹き、木々の枝が不気味に揺れ始め、月が雲に覆われると、廃寺の影は一層濃くなり、周囲は完全な闇に包まれた。
昭夫はその場から逃げ出したい衝動に駆られたが、足はまるで地面に縛りつけられたかのように動かなかった。彼の視線は池に釘付けになり、その水面には健太の顔が浮かび上がっていた。彼の無表情の顔は、死の世界から彼を呼び戻すためのものだったのか、それとも呪いの力で彼が幽霊として存在しているのか、昭夫には理解できなかった。
突然、池の中から何かが現れ、昭夫に向かって手を伸ばしてきた。その手は冷たく、まるで墓の中から出てきたかのようだった。昭夫は叫び声を上げ、美樹に助けを求めたが、美樹は呪文の詠唱に没頭し、彼の声は彼女の耳に届いていなかった。
クロが狂ったように叫び声を上げ、池の周りを駆け回った。猫の瞳は異常に光り、その体は何かに取り憑かれたかのように震えていた。クロは突然池に飛び込み、そのまま水中に消えていった。昭夫は絶望に打ちひしがれ、その場に崩れ落ちた。
廃寺の鐘が遠くで鳴り響き、夜は終わりを迎えた。
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