第23話 夢と発熱

夢現のまとまらない思考の中で痛みを堪えた声に思わず手を伸ばしていた。頭に触れる優しい感触と気遣うようにそっと囁く言葉は聞き取れなかったが、こんなにも自分を心配してくれるのは兄しかいない。


「行かないで、おにいちゃん。頑張るから、だからハルと一緒にいて」


見覚えのある懐かしい光景は幼い頃のものだ。出かけようとする兄と離れたくなくてしがみつけば、優しく頭を撫でてくれた。

小学生になった兄には友人と遊ぶのが何よりも楽しみだったはずなのに、それでも振り払われることはなく、陽香が落ち着くまで待っていてくれていたのだ。


生まれたばかりの弟の世話で忙しい母の邪魔をしないよう、いい子でいようとする陽香の寂しい気持ちに寄り添ってくれたのも兄だった。


『頼むから……生きることを諦めないでくれ』


そう言ったのは兄だっただろうか。


(ううん、違う。お兄ちゃんじゃないけど……優しい人……)


誰だっただろうかと考えかけて、また目の前の光景が変わる。真っ暗でよく見えないのにそこにいるのが兄であることを陽香は何故か確信してした。


「お兄ちゃん!」


遠ざかっていく兄の姿を追いかけながら必死に呼び掛けても、兄はこちらを向いてくれない。


「お兄ちゃん、待って!怖いの、助けて!」


足を止めればもう会えない気がして、重い身体を必死で動かすがその距離は開いていく一方だ。


(一人ぼっちは嫌なのに……。でも……私が悪いの?)


罰が当たったのかもしれない、そんな思考がよぎった。今の自分は意地悪で嫌な性格の人間になってしまったから、見捨てられてしまったのだろうか。


「っく……ごめんなさ……ごめんなさい」

「泣くな、馬鹿」


聞こえてきたのは呆れたような兄の声で、ぼさりと乱暴に手が下ろされて頭の上が重くなる。


「幸せになれよ、陽香」

「お兄ちゃっ……」


顔を上げる前に足元が崩れるような感覚に、陽香は目を見開いた。


薄暗い室内にいると認識した途端に視界が歪んできつく目を閉じる。走った後のような息苦しさとズキズキと間断なく押し寄せる頭痛に、風邪だと思った。


(しかも結構熱が高いような……気がする)


「薬湯を用意してあるが、飲めるか?」


すぐ側から聞こえた声に、陽香はびくりと身体を強張らせた。無理やり瞳をこじ開ければ、ベッドの横にメルヴィンが座っていて、心配そうな表情を浮かべている。


(……弱っているところを見られるなんて、最悪)


気持ち悪さに耐えながら身体を起こそうとするが、力が入らずベッドから起き上がれそうにない。

情けなさと辛さが混じって涙がこぼれる。そんなことで体力を使っている場合じゃない、泣いても何も変わらない、そう自分を叱咤しても感情が制御できずに枕を抱きしめて涙を隠す。


「……悪いが、少し持ちあげるぞ」


身体が浮き上がる感覚に胃の気持ち悪さが吐き気となって込み上げてくる。

文句を言うどころではなく口に手を押し当てて堪えることしかできない。床に足が触れると、洗面台にしがみ付くようにして何とか身体を支える。


ドアが閉まる音と同時に陽香は我慢を止めた。


苦しんだものの胃の中が空になったせいか、気分は幾分かましになっていた。熱による倦怠感と頭痛は続いているが、これはすぐに収まるものではないだろう。


汗で張り付いた服を脱いで身体を洗いたかったが、多分体力的に保たない。浴室で救助されたくはなかったので、諦めてひんやりとした床に座り込む。

部屋に戻るのが億劫だということもあったが、戻ればメルヴィンが待っていると思うと憂鬱だった。


昨日から迷惑ばかり掛けている。そう考えることに自己嫌悪を覚えるのに、それを否定することにも抵抗があるのだ。


断片的な夢の記憶に寂しさが募る。体調を崩したことで弱っているのではなく、もう限界だったのだろう。

完全に安心できる環境ではないものの、分かりやすい暴力に怯えることなく過ぎていく日々を送るうちに考える余裕が出てきてしまったのだ。


ただ恨みをぶつけられれば良かった。相手の事情も気持ちも関係ないのだと突っぱねて、さっさと出て行けば良かったと気が付いてももう遅い。


(もしも、家族と仲が悪かったら、いなくなっても悲しませることはなかったかな……)


家族のことを考えると愛しさと同時に胸が潰れそうになる。友人から不思議に思われるほど仲が良くて、大好きで大切な家族だった。

うつらうつらと眠りに落ちかけながら、宝物のような思い出をなぞる。


「ハルカ、ベッドに戻ろう」


身体を抱き起されたことで、幸せな記憶から現実に引き戻された陽香は反射的に逃れようと暴れるがびくともしない。

ベッドに下ろされた後も荒い呼吸で足掻いていると、毛布にくるまれ背後から拘束されてしまった。きつく抱きしめられているわけではなく、身体を動かす余地はあるのになかなか抜け出せない。


「……もう、嫌だ」


無力感がやるせなくて、体調不良による不安定さからまた目の奥が熱くなってくる。


「自由に動けないのは辛いな。だが病気の時は安静にしないと、治るものも治らない。熱が下がるまでは我慢してくれ」

「やだ……や、触んないで……出てってよ」


子供のように泣きながら暴れたものの、身体には負担だったようで陽香はいつの間にか意識を失っていた。

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