第17話 アルバイト
「殿下、街で働きたいので許可をください」
ぱちぱちと瞬きするアンリは何を言われたのか咄嗟に理解できない様子だ。それでもその表情に憂いはなく、陽香は少しだけほっとする。
王妃の呼び出しからしばらくの間、アンリの顔色は優れず、メルヴィンはどこかピリピリとした雰囲気を纏わせていた。
何となくアンリの家族関係に不穏さを感じて大人しくしていたものの、自分が気にすることではないのだと陽香は自分に言い聞かせる。
どんなに複雑な事情があろうと、陽香をこの世界に呼び落としたのはアンリなのだ。
(だから同情とか気遣いとかしない。私には関係のないことだもん)
「……ちなみにどこで働くつもりなんだ?」
アンリの代わりにメルヴィンが具体的なことを訊ねてくる。
「それはこれから探すつもり。採用されて後で断るのはお店に迷惑を掛けちゃうから、先に言っておこうと思って。……本当は許可なんていらないはずだけど、後で色々言われたくないし」
城に来てからおよそ一ヶ月、今のところ街に出掛けるか、部屋でごろごろと過ごすかぐらいで怠惰な生活を送っている。最初は今後のことを決めるため留まらなければならないという考えがあったが、安全上許可できないとずるずると先延ばしにされてしまっていた。
何もしないで衣食住を手に入れられる環境は、どちらかと言えば居心地が悪い。滞在費を慰謝料の中から出すとしても、有限なのだから無駄遣いはしたくないという思いもある。
安定した生活のためには、安定した収入が必要だ。
「欲しい物があるなら何でも買ってあげるけど、ハルカが働きたいのはそういう理由ではないのだよね?」
陽香の機嫌を窺うように、そろりと確認するアンリに陽香は肯定の意を示す。自立しなければ意味がないのだ。
「安全が確保できないからという理由で王城にいますが、私は殿下の運命になるつもりはありません。将来的なことを考えても職に就くのは大切ですし、怠け癖が付くのも嫌なので」
本当は王城を出て普通の家に住みたいところだが、就職と住居探し、生活を整えるために必要な諸々を同時に行なうのは難しいだろう。
また街への外出が容易になった今、引っ越しは難色を示される可能性は高いが、就労なら許可が下りるのではないかと思ったことも理由の一つだ。
「……護衛の関係でどこでもという訳には行かないが、少し心当たりがある。そこなら働いても問題ないと思う。アンリ、どうだ?」
「安全に過ごせるなら、ハルカの希望を優先したい」
流石に自由に選ばせてもらえないらしいが、とりあえず認めてくれるらしい。
奴隷の時に散々こき使われはしたが、あれは対価を得られない労働で働く喜びなど感じられるものではなかった。
『今日バイトだから晩飯パス』
『えーっ!孝太兄、昨日もバイトだったのに!僕とゲームする約束だったじゃん』
『光琉くん、ゲームし過ぎじゃない?ねえお父さん、私もアルバイトしてみたいな』
『陽香は受験のほうが先だろう?大学に入ってからね』
(やってみたかったこと、あといくつ出来るかな……)
賑やかで日常だった家族との会話をひっそりと噛みしめながら、陽香はそっと視線を窓の外に向けた。
「あらあら、可愛いお嬢さんだね。私はエディット、こっちはジェイよ」
「ハルカと申します。よろしくお願いします」
あっという間に話がまとまり、まずは一週間の試用期間ということで連れて来られたのは、二日酔いの時に訪れた食堂だった。
夫婦で営んでいる食堂だが、料理人兼店主のジェイは元騎士ということもあり、いざという時に頼りになるということで選ばれたらしい。
「そんなに畏まらなくていいからね。注文を聞いて、料理を運ぶ仕事だよ。最初はゆっくりで大丈夫。困ったことがあればすぐ呼んでくれればいいから」
「はい。早く覚えられるように頑張ります」
ちなみに陽香のことは、少し訳ありな保護対象の子供という説明をしているそうだ。そのせいか、エディットが陽香を見る目は優しい。
「メル坊、図体のでかいのがずっといると邪魔だ。嬢ちゃんの仕事が終わるまでは別のところで時間をつぶしてこい」
「ちゃんと注文はするし、初日ぐらいはいいだろう?」
メル坊という呼び方に、思わずジェイとメルヴィンの会話に耳を傾けていた陽香はあり得ないという視線を送った。護衛として気になるのは分かるが、バイト先に偵察に来る過保護な父親かと突っ込みたくなる。
「見られてると嬢ちゃんも緊張するだろうが。そうだろう?」
「はい、そのほうが助かります」
幸いジェイも同じ考えだったようで勢いよく返事すると、しゅんと眉を下げたメルヴィンの姿は飼い主に叱られたな大型犬のようで、少し面白かった。
「ハルカちゃん、お疲れ様。お迎えも来たしもう上がっていいわよ」
「……はい。お先に失礼します」
「ふふ、今日はゆっくり休んでね。また明日」
正直なところ、何だかんだと奴隷として雑事に追われていた経験があるので大丈夫だと高を括っていたのだ。それなのに想像以上の慌ただしさに加え、注文を聞き間違えたり、別のテーブルに料理を運んでしまったりとミスを連発してしまった。
エディットは慣れていないのだから当然だと笑って流してくれたが、申し訳なさと自分に呆れる気持ちで表情が暗くなる。
「お疲れさん。どうだ?やっていけそうか?」
「やっていけるように頑張る」
身体的にも精神的にもぐったりしてしていたが、そう簡単に投げ出すつもりはない。素っ気ない態度にも関わらず、メルヴィンが微笑む気配がした。
「おう、頑張れよ」
頭をわしわしと撫でられたが、振り払う気力も湧かず好きにさせておく。遠慮のないメルヴィンの態度に慣れてきたせいかもしれない。
一瞬だけよぎった記憶はなかったことにして、陽香は夜空に浮かぶ月をじっと見つめていた。
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