力に拠ってくつがえる

9

 日の落ちた暗い部屋に光が点った。ニス塗りの横板に覆われた部屋は、広くて、清潔で、しかし「住まい」と呼ぶには決定的に温もりが足りなかった。伽藍堂の空間のなかに、通学鞄が投げ捨てられる。


 遮光カーテンと隣り合わせに、何も言わない闇の息づかいが、殊更大きく感じられる。

 まずまずの生活水準であるという自覚は俺にだってある。親が懸命に働いて、俺はここに住まっている。が、この「住居」空間には、たった一人の宿主さえいない。いや、存在していない。


 親は、いつこの部屋に帰って来ているのだろう。親父も、お袋も。


 それは愛を感じられぬ恨みなんかじゃない、純粋な疑問だ。誤解のないように言っておくが、俺は捨て子なんかじゃあない。もしそうなら、親から見れば、夜空の広大な天涯の下につまみ出すなり、ボロい賃貸に押し込むなりすればいいはずだ。


 だが両親は幸いにも、そうはしなかった。蛇口を捻ればお湯は出るし、嵐が来たなら音楽でも聞けば良い。俺はこんな一丁前の部屋に暮らしながら、しょうもない学園生活を送りながら、しかし俺が俺でない何かに蝕まれていく心地を消せないでいた。


 目の前に靄がかかる。


 どかり、と音をたてて俺は腰かけた。


「やれやれ。…………。」

 俺は、どうすっかな。


 何が変わったわけでもない一日だが、メシを作る気力はどこからも湧いてこない。持ち腐れとしか呼べない、無機質な陰を落とすカウンターキッチンを、俺はぼんやりと見る。


 からきし顔を会わせることがない親ではあるが、きっと、並みならぬ御苦労でこの空間を維持しているという事実は、俺の否定しようもないことだ。だから、俺にできることは全部、俺がやる。切り捨てるべき交遊はすべて捨てて、あわよくば自分で食い扶持を身に付けようとした。


 その算段だった。


 無情な太陽。上がる息。


 陽炎のように歪むあの灼熱の日に、俺はターゲットを見つけた。非現実的な幻術と、それを追いかけるごみ拾いの女。不審すぎる状況についていってみれば、どうだろう。そこで俺を待ち受けていたものはなんだ。


 教会。『フルーエル聖教会』だ。堅牢そうな白い外壁、中庭、古風な門。その重々しい存在は、威圧でもするかの様なうら寂しさを背負って、俺の前に現れた。


 権威、それを「奇跡」と呼ぶのだとは、奇跡少女の言である。だがどんなに胸を張ろうと、かつて千里を駆け回った「例の噂」の心象を、俺の中に芽生えた疑念を、今日、彼らが払拭するには至らなかった。



 俺たちの世界には神様がいるだろうか。


 フルーエル教会を現状継承した化け物は、名をクラウディア=メモリと言う。本拠地は海の向こうだが、俺たちの国にも根を這わせているようだ。何が凄くて教団を運営できているのかは俺には分からない。会ったこともないのだから、分からなくて当たり前だ。


 多くの人々は、この教団を他の宗教団体と同じ、ロクでもない団体だと思っている。


 過去の話。かつてフランス議会は「セクト団体として」布教活動の停止を勧告する、宗教団体のリストを作成したことがある。そこにはフランス国内外の多くの宗教団体が記載されており、その有害度や妥当性を巡って、色々と波紋を呼んだわけだが、当のフルーエル教会の名もまた、それに連ねられ、明確に刻まれていたのだ。


 だが、その名を記録されたことが大問題なのではない、と俺は思う。成立後、そのリストは続く評議によって更新されたし、改めて開示されたリストにはもう教会の名は記載されていない。それに、もっと大きい宗教団体がその名を加えられ、そしてまたすぐに省かれていたのが、取り立てて諸団体が問題を起こしているわけでもなかった。


 あくまで、必ずしも、の話だが。


 で、フルーエル教会は諸団体のなかで、多国籍な構成員を有する組織ではあるものの、目立って大きくも小さくもない。中規模な存在だ。つまり、彼らはウチとソトを隔てる日本人から見て、決定的にソトの存在ではあったが、「彼らだけが」荊の冠を被せらされているのではないのだ。


 世論が、いや俺が、フルーエル教会を嫌っているのには、奴らがセクトとみなされた後の対応が問題だった。


 あの頃、俺はまだまだガキで、引っ越す前の小さな家で耳にした、ほんの一幕の話がある。思い起こせばまだ親父も家にいる時間があったらしく、それも何とか確保していたに過ぎないと思うのだが、とにかく朝食後のちょっとした時間に俺達は居合わせた。


 当時はなんだか親父のことがおっかなくて、あんまり親密に話をすることもなかった。その上、珍しく煙草のストックを切らしていたとかで、ややイライラしながら報道番組を見ていた。


 何の式典だかは分からない。当時二十そこそこの教主猊下は、長期の盆休みに合わせて来日したらしい。彼女のメディア露出は稀有なことだと、念入りに番組は騒いだ。


 ……、若いな。その年でもう組織を率いていたのだから驚きだ。


 言っておくが、前述のセクトの指定も解除も終わり、数年が過ぎての出来事だ。ほとぼりが冷めたその頃に、インタビュアーの一人が教主メモリにこう尋ねた。


「教主メモリ。貴方は、かつて自らの教団がセクトとみなされ、カルト宗教のごとく扱われたことをどのようにお考えですか。」


「……。苦しかったです。」

「はは。」


 無神経にもリポーターは乾いた嘲笑を浴びせた。


「忘れてしまったのですか。」

 今度は若い指導者が尋ねた。


 テレビの横でカーテンが揺れる。外からの光によって、テレビの映し出す陰影は淡く、ほとんど音だけが俺たちに届いた。


「あなたたちが、私たちを助けて下さったのです。」


 落ち着き払った様子で、メモリは日本語を操った。


「かの抑圧が、波となって、私たちを打ち付けたとき、あなたたちが、助け船を出して下さったのです。嘆願書。議会に提出されたと、聞きました。


 日本の皆さん。ああ、私は、お会いしたかった。


 多くの名前が集まって、私たちを庇って下さったのです。私たちは、どれほど心が救われたことでしょう。


 あなたたちの、心遣いを、『私』は忘れはしません。そして『私たち』は忘れません。忘れることが、できないのですよ。


 あなたたちは、心に憩いをもたらすために、勇敢さを振るう力があります。それを以て、魅せていらっしゃったのですから、私は、忘れることはないでしょう。私たちが、無理解の中で、苦しみを訴えたとき、きっと人々は手を取り合い、補い合っていくのです。



 ですから、私が今日、ここへ参りましたのは。何の偶然でも、何の超思考的なものでもありません。


 ……。

 長かった。ようやく、ここに至りました。


 ずっと、恩返しを、して参りたいと、思っておりました。これまでも、これからもです。私たちにとって、当然のこと、天の国の意、それをするのです。」


 曖昧な輪郭、口元。メモリの微笑に、俺はドキリとした。

 カメラはスタジオに戻った。


「メモリは、ごきげんようと言って去っていきました……。」


 進行役がつけ添えると、演者らの空気は気味の悪いものに変わった。カメラ映りを気にしたゲストらは精いっぱい逃げようと、メモリ個人の人格への感想に徹した。そうもいかぬご意見番は、期待に答えるためにわざとぬるい信仰論にどうたらこうたら口を回したが、やはり自信なんてないのだろう、「だってそうじゃない?」なんて集う人々に同意を繰り返し求めたものである。


 「ンな訳あるか。くせぇ話だ、やっこさん……!」


 突然、親父が口を開いた。


 魚骨梅太郎、四十五歳(当時)。公安の外局に勤めている治安屋、それが俺の親父。詳しくは知らないが、破防法絡みの捜査を担当しているらしい。


 驚いて目を丸くした俺のことなど気に留めない。チッと鋭い舌打ちをした親父は、その裏に忍ばせるようにガラガラ声でぼやいた。


「そんな話があったのなら、俺の目か耳に入ってくるに決まっている。真っ赤な嘘をつきやがって!どんな神経してやがんだ、まったく……!」


 親父は典型的なニコチン中毒だった。大して煙草に強くないのに吸いまくり、だからこそ、とっくにやられてしまったのだろう。ヤニが切れるとすぐにぶちぎれるから、煙草は常に片手に常備していなけりゃならない奴だったのだ。


 ニコチン中毒であるからといって、誰も彼を愛煙家とは呼ぶまい。そう呼ぶにはどうにも根拠が薄い。仕事の付き合いとやらのせいもあるが、煙草をやらなければ、俺ももっと尊敬すべき父親として接していたのかもしれない。そんな人間的な同情を手にしたのは、ずっと後のことになるが。


 「あーあ、こんなヤツは、ろくでなしで、生き恥さ。こんな公共の電波、カメラ向けられて、多くの人間を前に真っ赤な嘘をつきやがる!


 こんなんの言うこと聞いてたら、見ている世界がどんどん歪んでいくぜ。」 


 これが、親父の結論だ。


 ここまで厳しく悪玉だと断定するのは、相応に思想団体を職業的な眼で見てきたのだという、親父なりの自負だった。そして、その頑固さを強めている理由はひとつではない。奴の妻で、俺のお袋。あいつは消費者庁の本庁に在籍している。


 夜中、俺が起きると、遅くに帰ってきた親父とお袋はボソボソと何かの談義をしていた。何度も何度も見ているから、そんな姿が、俺の目に焼き付いている。職業的に秘匿しなければいけない情報でも、それらは家庭を経由して「噂」という形を取りながら、火の粉を振り撒いて流れていく。


「嘆願書なんて出されちゃあいねえんだ。俺たち日本人が、アイツらに優しくしてやったことなんて、慈悲を与えてやったことなんて、一度たりとも、ねえんだよ。


 ……。

 ああ、呆れるぜ。あいつ、日本人に、俺達に、『架空の恩義』をこしらえやがった。

 尊敬すら覚えるわ。俺達がそんな真面目に、利益関係なしに、愛に溢れた行動を取るかよ。調和の内側に入るために、最初から入っていた顔をしていやがる。


 おい、ササル。いいか。お前、こんなん信じるなよ。宗教を信じることになったら、『選べ』よ!分かったな!」


 俺は、そんな親に育てられ、……半ば放り出されながらも、滴り落ちた余剰に世話になっている。やれやれ。本当に可哀想なのは、親なのかもな。



 さあ、 俺たちの世界には神様がいるだろうか。


 ピ!という電子音を合図に、クーラーが動き始めた。

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