根回し

 第二軍情報部長ハンス・ベッケル中佐は、肩にかかるやや長髪のダークブラウンの髪と貧相な口髭に不釣り合いな程に煌めく明るいエメラルド色の瞳が特徴的な男で、冴えある英才と言うよりも茶目っ気の多い三枚目と言うような風貌の男であった。服装もややだらしなく、周囲の参謀将校のようなぱりっとした印象はない。それだけに周囲の者から“陸軍将校”などと陰口を叩かれている事をエルヴィンはリュッチェンスから聞いた。

 普段オフィスの隅で昼寝をしていてもおかしくないようにも見えるこの男が、海軍兵学校を三番目の好成績で卒業し、海軍参謀大学を出てからは海軍情報本部や参謀本部情報部と言った情報畑を渡り歩いてきたエリートとはその外見からは想像もつかないものである。

 そのベッケルはとてもエリートらしい威厳などなく、折れ砕けそうな口髭を手癖で弄りながらエルヴィンとリュッチェンスの来訪を迎えた。場所は高級将校用食堂の一角である。

 「まぁ確かにこのままやってても勝ち目はないね、ウン」

 独特な口調でベッケルは応じた。

 「中佐殿のお力添えをいただいて、どうにか参謀長の更迭を果たしたいのです」

 何とも物騒な事を真剣そうな顔でリュッチェンスは言う。素っ頓狂の言葉が良く似合う表情になってベッケルは合成肉のステーキを頬張って嚥下するまでたっぷり十秒の時間二人の二六歳の将校を待たせてから口を開いた。

 「僕に頼むのは自由だけど、そんな事ができるのかい」

 剽軽そうな相好を崩さず応じるこの中佐に既にエルヴィンは忍耐力の限界を試され始めていた。こんな男に一体何ができると言うんだ。

 「中佐殿であればシュライヒ大佐やシュタインベルツ大将にも顔が利くでしょう。連邦軍の援軍が迫っている以上、今日今すぐにでも手を打たなければならないんです」

 エルヴィン以上の熱意を持ってリュッチェンスは身を乗り出す勢いで畳みかけた。それに気圧され圧力を逸らすかのようにベッケルはその縦長の顔を眼鏡の奥のルビーの瞳が刺すような光を撃ち込む中佐に向けた。

 「リュッチェンス大尉の熱はわかるけど、そっちのシューラー中佐はどうなんだい」

 「小官の作戦で必ずや要塞を陥落させられます」

 平然とエルヴィンは言い放った。この程度の小物相手ならどれくらい不躾な事を言っても許されるだろう、と言う青年の傲慢さが言葉に乗っている。

 「ふーん」

 顎を上に向けてベッケルは顔をリュッチェンスに戻した。

 「で、彼は本当にできるの?もし参謀長更迭の企てなんかして成果が挙げられないようなら僕たち全員軍法会議送りだよ」

 「それは——」

 リュッチェンスは目を細めて傍らの中佐を見た。

 「そろそろ言ってくれても良いんじゃないですか」

 エルヴィンは上唇を噛んだ。彼にとって協力者を作るなどとても考えられた話ではなく、その分だけ功績が奪われて何も良い事が無いし、そもそも味方と恃めるだけの実力も信用があるかも不透明な相手を無条件に信頼するなどエルヴィンには不可能事でしかない。彼がかつて立案した補給計画のように、プランごと持ち去られて他人の功績にされかねないのだから。

 そもそもリュッチェンスにせよベッケルにせよ、ベートマンのスパイでない保証がどこにあるだろう。あの司令部の中にベートマンの腰巾着が何人もいる事は分かっている。

 「計画は小官の頭の中に留めておきたいのですが」

 その言葉にベッケルの顔から表情がフェードアウトした。

 「それで僕はともかく、シュライヒ大佐やシュタインベルツ大将、エップ上級大将が納得すると思うのか」

 「ならば小官一人でエップ閣下にお話しします」

 「それができる訳無いことくらい貴官にもお分かりだと思うが」

 最後の一切れを食べ終えたベッケルはそのままプレートを手に取って席を立った。

 「シューラー中佐が決意しない限り、誰も納得などできない。ご自身でエップ提督に参謀長の更迭を進言しても良いが、提督が受け入れる訳がないだろう」

 「中佐——」

 険しい目でリュッチェンスはエルヴィンを睨んだが、エルヴィンは薄い唇を結んだまま開く気配もない。ベッケルは普段の飄々とした顔と口調を回復させて口を開いた。

 「まぁ一人の狭い道で頑張りな、ウン」

 「中佐!」

 甲高い怒鳴り声が食堂に響き渡り、その場にいた全員が反射的に振り向いた。言われたエルヴィンなどは思わず全身を硬直させ、打算も何も全て吹き飛んだ目で隣に座る女大尉に視線を固定させた。

 「君一人で連邦全軍と戦うつもり?それとも皆が君一人の言う事を聞いて従って、勝ったら君一人の功績にして褒め称えてくれないと満足できない?幼児みたいなメンタリティね」

 あまりにも直接的な罵倒にエルヴィンの顔が紅潮した。それは怒りよりも指摘を否定できない自分自身に対する羞恥の表れだとベッケルは解釈した。

 「そうやって自分一人だけで全部できると思っているなら、拳銃一丁であの要塞を落としに行ってきなさいよ。それもできないくせに味方になってくれる人を無下に扱って、何がしたいの?」

 早口でまくし立てる同期を前に、エルヴィンは肖像画のモデルのように全身を固定させたままだった。呼吸を忘れていたリュッチェンスが暫し黙って初めて、エルヴィンの両肩が落ちた。

 「女傑を怒らせると怖いね、ウン」

 一座の氷を融かすように、ベッケルが二人の前に再び腰かけて普段通りの口調で言った。

 「これだけ言ってくれる人を無下にはしない方がよさそうだねぇ」

 それは独り言のような忠告であった。エルヴィンもようやく自らを客観視するように下を向き、朱の差した顔が冷却されるまでに左程時間はかからなかった。気恥ずかしそうに頬を擦り、斜め下を向いたまま大尉に向き直る。

 「——分かった、言えばいいんだろ」

 謝罪も反省も無かったが、それを求めてこれ以上青年の精神を追い込むことはリュッチェンスの本意ではない。小さく頷いて大尉は席を立った。

 「時間を無駄にはできません。すぐに取り掛かりましょう」

 エルヴィンは弱い目でベッケルを見た。冴えない見た目の中佐はいつも通りの顔で肩を竦めただけだった。


 第二軍司令官フォン・エップ上級大将の司令官公室に半ば押し入るようにして数人の海軍将校が入ってきた。

 堂々たる体躯を持ち、もみあげから続く髭が威圧的な第七軍団長フォン・シュタインベルツ大将を先頭に、第二軍作戦部長フォン・シュライヒ大佐、軍情報部長ベッケル中佐、軍司令部付フォン・シューラー中佐、作戦参謀フォン・リュッチェンス大尉が続く。

 「何事でありますか」

 まるで姑のようにエップの側にい続けるベートマン少将が振り返り、上官相手の最低限の礼儀だけを保って問いかける。

 「軍司令官閣下に御用があって参った。幕僚風情は下がっていろ」

 にべもなくシュタインベルツが言い放ち、圧されるようにベートマンが一歩下がった。だが精神の甲冑を厚く纏い、反撃の一言を繰り出す。

 「エップ提督への上申は小官を通していただきたい」

 「用があるのは貴様ではない」

 シュタインベルツは立ちはだかった参謀長を無視するかのように真っすぐ歩いた。もしベートマンが避けなければ跳ね飛ばしていたかもしれない。

 「司令官閣下」

 エップの前に立ったシュラインベルツは敬礼し、さもシュタインベルツにされたかのように立ち上がったエップが頷くと手を下ろして喋り始めた。

 「この度フォン・ベートマン艦隊参謀長の更迭を上申すべく参りました」

 本人もいる前で、平然とシュタインベルツは言い放ち、エップと、それ以上にベートマンを驚愕させた。

 「私の参謀長を更迭しろと言うのか」

 「大将閣下、それは認められません」

 足早でベートマンはシュタインベルツの前に立ちはだかろうとしたが

 「下がれ下種!」

 の一喝の前に何も言えなくなって立ち竦んだ。

 「し、しかし何故」

 エップも恐れおののくようにして問うた。

 「ベートマン少将は自説を強要し司令部内の和を乱すこと甚だしく、また自らの作戦案において軍に多大な被害を出しながら作戦を改める事を知りません」

 「だがそれは本国の参謀本部が援軍を送らないためだと参謀長が——」

 「現有兵力において要塞攻略は可能です。こちらのシューラー中佐の計画を小官も見、可能であると確信しております」

 「なんだと——」

 歯を剥きだしてベートマンがエルヴィンを睨みつけたが、エルヴィンのルビーを埋め込んだような赤い瞳は、参謀長を惑星フーゲンドルフの大地の如き冷たい視線で一瞥しただけであった。

 「しかし参謀長が——」

 「閣下。失礼ながらベートマン少将の作戦計画によって第二軍は敵要塞の攻略に失敗しております。既に過去三度の攻勢に失敗している以上、参謀長の作戦指導能力に小官は疑義を抱くほかございません」

 理屈立てて直属の上官を非難したのはシュライヒである。ベートマンの顔がどんどん青ざめていくが、叛乱者の集団は意にも介さずエップだけを相手にしていた。

 「現在連邦軍の援軍の艦隊が我が第二軍にも接近しつつあり、明日にも来援するやもしれません。そうなれば要塞攻略は絶望的になります。作戦の転換が必要です」

 「今から何ができると言うんだ」

 歯噛みして絞り出すかのような声でベートマンが悪態をつく。

 「——どうやると言うのだ、シューラー中佐」

 エップが初めてエルヴィンに水を向けると、一座の全員の視線がエルヴィンに集中した。当の本人は決意に満ちた確固たる表情で佇立している。

 「まずは参謀長にお引き取りいただきたく存じます。我に拘り、他の優れた提案の全てを潰す参謀長の下では小官の計画の効果も薄れる恐れがあります」

 「舐めた真似を——」

 エップは困惑したような顔で部屋にいる五人の将校を見回している。自分が決断しなければならない立場に追い込まれている事が不快なようにエルヴィンには見えた。今この機を逃せばエルヴィンの栄達も無い。それが分かっていたから彼の行動にも迷いはなかった。

 「閣下、ご判断いただくのはご説明の後でも構いません。一度小官の作戦案を聞いてはいただけませんか」

 エルヴィンは一歩を踏み出し、シュタインベルツよりも前に立って詰め寄った。その紅い瞳も熟れた麦のような髪の一筋一筋も覇気を投影するように輝き、不敏な司令官を圧倒する。

 司令官もまた、圧力に負けるように数度小さく肯首した。

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