第5話 壊れた心

 記者の鷹山トシキは斎藤を追跡していました。

 斎藤智樹がかつて医療ミスを起こしたこともあり、医局では同僚からの冷たい視線や陰口が絶えず、時には必要な情報が意図的に彼に伝えられないこともありました。

「最近、斎藤の奴調子に乗ってるよな?」と、外科医の平間淳史。

「もう、アイツに力貸すのやめようかな?俺のこと4年もいるのに何やってたんだって、うるせーんだ」と、新見一郎。


 手術チームのメンバーからは協力を拒否され、診療や研究においてもサポートを得ることが困難になりました。斎藤は、自分の過ちがもたらした結果を痛感しつつも、医療に対する情熱を失うことなく、日々の業務に全力で取り組んでいます。彼は自らの名誉を回復し、再び信頼を得るために、何とかこの苦境を乗り越えようと努力を続けています。数カ月後……斉藤智樹はカウンセリングルームのソファに深く腰を沈め、うつむいていた。結城誠は彼の隣に座り、静かに話し始めた。


「斉藤さん、もう少し話を聞かせてもらえますか?」結城の声は柔らかく、だが確信に満ちていた。「あなたがこれまで抱えてきたこと、すべてを」


 斉藤はしばらく沈黙していたが、やがて重い口を開いた。「…あの事故のことですね。あれが全ての始まりでした」


 結城は優しく頷いた。「無理に話す必要はありません。でも、話すことで少しでも気持ちが楽になるなら、いつでも聞きますよ」


「…医者として働いていた時、ある患者さんを手術で失いました。手術は成功するはずだったんです。でも、些細なミスで…」斉藤の声は震えていた。「その時のことが頭から離れなくて、医者を辞めました。前の会社に入ったのも、過去を忘れたかったからなんです」


 結城はその言葉を受け止め、慎重に言葉を選んだ。「その過去が今でもあなたを苦しめているんですね。そして、再び同じように心が壊れかけている」


 斉藤は苦しそうに息を吐いた。「そうです。逃げたかっただけなのに、結局どこに行っても変わらない。自分が何をしているのか分からなくなることがあります」


「斉藤さん、それはあなたのせいじゃない。あなたはただ、誰にも相談できなかっただけです」結城は斉藤の肩に手を置き、しっかりと目を見つめた。「私たちがいます。これからは一人で背負わなくていいんです」


 斉藤は目を潤ませながら結城を見返した。「…ありがとう。結城さんが言ってくれると、少しだけ楽になります。でも、どうしても医者を辞めたことに罪悪感を感じてしまうんです。あの患者さんに申し訳なくて」


 結城は少し考えてから、こう答えた。「斉藤さん、過去を変えることはできませんが、それをどう乗り越えるかはあなた次第です。これまで誰かのために尽くしてきたあなたが、今度は自分自身のために決断する時です」


 その言葉に斉藤は深く頷いた。「…分かりました。過去を乗り越えられるように、もう一度頑張ってみます。そして、会社を辞めて、新しい人生を歩みたいと思います」


 結城は微笑んだ。「そのために、私たちが全力でサポートします。あなたの新しいスタートを一緒に切りましょう」


 斉藤は初めて少しだけ微笑んだ。「本当に、ありがとうございます」


 二人の間に静寂が訪れたが、それは重苦しいものではなく、むしろ希望に満ちたものだった。斉藤は結城の言葉に支えられ、新しい道を歩み出す決意を固めたのだった。


 斉藤智樹はカウンセリングルームを出た後、しばらく建物の外で立ち止まり、深呼吸をした。夜風が心地よく、彼の心の中にわずかながらの安らぎをもたらした。結城誠の言葉は、まるで長い間張り詰めていた彼の心の糸をゆっくりと解きほぐすかのようだった。


「新しい人生か…」斉藤は自分に言い聞かせるように呟いた。彼は手のひらを見つめ、かつて医者としての自分を象徴していたもの、手術を行うための繊細な指先、その感覚が今でも残っていることを感じた。しかし、その指先は今では重荷となり、過去の罪悪感に縛られていた。


 彼は、これまで自分が置かれていた環境と、それがもたらしたものについて考えた。再起を果たし一見すると成功しているように見えたが、内心では常に何かが欠けていると感じていた。自分の存在意義が曖昧で、自分がどこに向かっているのか分からなかった。


「本当にこれでいいのか…」と、斉藤はふと立ち止まって考えた。結城の言葉が脳裏に浮かんだ。「今度は自分自身のために決断する時です」と彼は言った。その言葉に触発され、斉藤は自分の未来をどう形作るかを真剣に考え始めた。


 翌朝、斉藤は意を決して会社に向かい、上司に退職の意思を伝えた。上司は驚きながらも、斉藤の決意が固いことを感じ取り、特に引き留めることはしなかった。その後、斉藤は必要な手続きを済ませ、長い間彼を縛りつけていた鎖を解き放つかのように、病院のドアを最後に閉めた。


 それから数日間、斉藤は自分が何をしたいのかをじっくりと考え、結城に再び相談を持ちかけた。カウンセリングルームに戻った斉藤は、少しだけ肩の荷が下りた表情をしていた。


「結城さん、辞める決断をしました。でも、これから何をすればいいのか、まだはっきりとは分かりません。自分が何に向かって歩んでいけばいいのか、道が見えないんです」と斉藤は素直に話した。


 結城は頷きながら答えた。「それは当然のことです。急に新しい目標を見つけるのは簡単ではありません。でも、まずは自分が本当に好きなこと、やりたいことを探してみましょう。焦らずに一歩ずつ進んでいけば、必ず自分の道が見えてくるはずです」


 斉藤はその言葉を心に刻み、日々を過ごしながら自分の興味や関心を探り始めた。かつての医者としての経験を活かし、地域の健康相談やボランティア活動に参加し、人々と触れ合う中で少しずつ自分の新しい役割を見出していった。


 ある日、彼は地域の小さな診療所で働く機会を得た。医者を辞めた後も、自分が持っていたスキルを無駄にすることなく、今度は患者の心に寄り添う形で貢献したいと思ったからだ。診療所では、忙しさに追われることもなく、一人ひとりの患者とじっくり向き合うことができた。


 新しい環境の中で、斉藤はかつてのトラウマを乗り越え、自分自身を再発見することができた。彼は再び医者としての役割を担いながらも、今度は自分自身の心の健康を大切にし、無理をせずに患者に寄り添うことを学んでいった。


 そして、何よりも彼が得たのは、過去の失敗を乗り越えるための強さだった。結城の助けを借りながら、斉藤は新たな一歩を踏み出し、自分の人生を再構築することができたのである。これから先、彼の歩む道には多くの困難が待ち受けているかもしれないが、斉藤はそれに立ち向かう力を、心の中にしっかりと蓄えていた。


 

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