第26話 24 ルメイ、ヤヨイ、それぞれの眠れぬ夜。そして、アンのお使い
そして、真夜中。
他の3艦とリュッツオーにしばしの別れを告げ、ミカサは帰港の途に就いた。
進路は東。100。大海に突き出たチナのバカでかい半島の縁を巡るため、ミカサはチナ本土に接近する航路を取った。
一般の士官用よりは広い艦長室のベッドで、ルメイは寝苦しくまんじりともしない夜を迎えていた。
すぐ隣が司令部幕僚の将官用の居室であり、先刻まで冷たい叱責を受けたカトー少将の自室であることもある。
だがもちろん、寝付けないのはそれだけが理由ではなかった。
事前に知らされてはいなかったが、ミカサとリュッツオーに起こった珍事は自分の亡命とこのミカサを迎えとるためのチナの謀略であることは間違いないだろう。成就については半信半疑だった航路についても、あのチナの窓口の名前も知らない男の言うとおりになった。
ルメイはすでに自分の運命を全く知らない他人の手に委ねてしまった。
もう自分の為すべきことは何もない。
ところが、何もすることがなくなり、何も考えることがなくなったとたん、それまで感じていた不安がさらに大きくのしかかってきた。
迎え取ると言っても、一体どの港に入るのか。
今までの艦隊の活動においてもチナ沿岸に確認できたのはせいぜいが手漕ぎのボートの桟橋か、10人も乗れば転覆してしまいそうな帆掛け船の波止場だけだった。それ以外の施設は海軍の巡洋艦やこの戦艦が見つけ次第徹甲弾を撃ち込み、悉く破壊してきた。防波堤で区切られた設備の整った港などは見つけられなかった。魅力的な、入り組んだ入り江なども発見されてはいなかった。
それでもチナはしぶとく、波打ち際で帆船を作っては海に押し出し、その度に海軍の拿捕に遭い、従わない船を撃沈されるのを繰り返してきたのだ。
だがあの男は、港もあるし船団も今まで海軍が沈めてきたよりはるかに多い数を備えている、と言った。ルメイはその言葉を信じてここまで来たのだった。信じねばならなかった。そうでなければ・・・。
本当にチナはミカサを迎えとるための次のステップを用意してくれているのだろうか。
今、ミカサは刻々とチナの本土に接近しつつあるはずだ。
急に外に出て確かめたい衝動が沸き、それを堪えきれなくなった。
自室に引き上げベッドに倒れ込んだ。
いよいよこれからチナが動き出す。
そのステージが整ったのだから動き出さないわけがない。これから最低でも3日間は休む間もなくなるかもしれない。休めるときに休まなくては。
だが、やはり眠れなかった。休まねばと思うほどに、目が、頭が冴えてくる。
そこを押して、強引に目を閉じ眠りに就こうとする。
ミカサに乗って初めて、海のど真ん中が驚くほど静かだというのを知った。それだけに、様々な艦内の音が耳に入ってくる。
時折舷側を叩くザブンという波の音。二つ以上の方向からくる波が一点に集中すると起こる「三角波」というものだと聞いた。小さな船なら転覆することもあるが、5000トンの大艦だからそれは頑丈な装甲を叩いただけだった。まだ見ていない機関室から伝わるレシプロエンジンのガシュガシュという音。発電機のゴオンゴオンという唸るような微かな音も伝わってくる。さらに耳をすませば、時折夜間当直に就く水兵たちがすぐ上の上甲板を歩くコツコツという靴音も聞こえてくる。
そして、航海科と機関科の当直を除いて寝静まる300人の乗組員たちの、聞こえるはずのない息遣い。
それらが綯交ぜになった不可思議な音が直接ヤヨイの頭の中に入ってきて眠りを妨げた。偵察部隊のテントの中で聞いた、フクロウの声や風でざわめく森の音なら眠れたのに。
しかたなく、ルメイの幕僚室での言葉、
「明けない夜はない」
その言葉の意味を考えた。
想像するに、今彼のおかれている情況は「夜」なのだ。私生活においても、海軍においても。自分が意図して作った状況であるにせよ、「無能な艦長」のレッテルを張られ、早くも閑職に遠ざけられようとしている今この時。彼は今、夜にいる。
しかし朝を待ち望みすぎるばかりに、彼は、更なる闇を招こうとしている。
自ら招き入れる闇の中に突き落とされようとしている。
それは
このような人物の命令を受けて生死を左右される者があってはならない。
ヤヨイは切に思った。
まだ20歳になったばかりだったが、ウリル少将と出会ってからというもの、人の持つ、こうした「業(ごう)」というものの醜さと悍ましさに立ち竦むことが増えたような気がする。
あまりにも無私で無垢な、イノセンスの精のようなレオン少尉と出会ったせいだ。
おかげで、彼女以外のすべての人間が、醜く汚い存在に見えてしまう。
こんな時に、傍にいて抱きしめてくれる存在があればな・・・。
「俺がいつもお前の背中を見ててやる。この小隊にいる間は俺が必ずお前を守ってやる」
気が付くと、金髪の下の灰色の愛しいジョーの瞳が語り掛ける幻想が現れる。
未だに愛した男の面影から抜け出せないでいるとは・・・。
ヤヨイは自分の肩を抱き身を捩った。
ああ、ダメだ!
ベッドから飛び起きた。
今日は奇数日だったか偶数日だったか。シャワーでも浴びてこようか。もしかすると、明日にでも修羅場が待っているかもしれないのだ。
着替えとタオルを持って部屋を出た。
シャワールームは一般士官用個室のあるブリッジ直下の上甲板下フロアにあった。きのうは女性士官。だから今日は奇数日で男性士官の番の日だったが構うことはない。リセやバカロレアの寄宿舎での生活と、それに男女の性違に配慮している野戦部隊ではなくガサツな偵察部隊に配属になったせいかもしれない。シャワーを浴びれるだけまし、と思うことができた。男性士官に出会ったら出会った時のこと。アラ、ごめんなさい。そう言えば済む話だ。
だが、困ったことにお湯が出なかった。
壁に張り出されている紙を見ると、
「石炭節約につき、当分の間お湯は出ません」
そう書いてあった。
全艦の給湯システムは機関室のボイラーで沸かした蒸気をエンジンに送った後は、その余剰の湯をシャワーに使えるようになっていた。だが釜を4分の1に減らし全ての蒸気をエンジンに送っているため、士官水兵の厚生まではカヴァーできないのだろう。
仕方なく水を浴びた。偵察部隊では川で身体を洗った。シャワーのお湯のことを悩めるなんて、文明の利器を使えるだけマシだと思えた。自分もずいぶん図太くなったと、その若い身体を流しながらヤヨイは思った。
シャワーのお陰で気分も幾分すっきりし、まだ濡れている髪を拭きながら夜風で乾かそうと思い立ち上甲板に上がった。
満天の星空。
天の川が黒い水平線から立ち上り、真っすぐ天上へと登ってゆく。あれが銀河系の中心部の姿なのだと学んだのは小学生のころだったろうか、それとも寄宿舎生活が始まったリセでだったろうか。
毎夜ベッドの中から夜空を見上げ、いつの日かあの光の渦の彼方に行ってみたいものだと素朴な空想をしたのを想い出す。
と、
ふと見上げたブリッジ後方幕僚室下のデッキに人影を認めた。
ルメイだ・・・。
一体こんな時間に何をしているのだろう。
わからないが、探る必要がありそうだ。構造物の陰に身を寄せ、ヤヨイはすぐ上の手摺に凭れているルメイの気配を監視した。
はるか夜の黒い海の向こう、星明かりにぼんやりと浮かぶ水平線の彼方にうっすらと黒い帯のような陸地を望めるところまでミカサは来ていた。
チナの本土を眺めて、彼は何を思っているのだろうか。
演習のあとのディナー。
アンは、それまでの人生で経験したことのないもてなしを受け、悦に入っていた。
「きみ、これ好きかい? それと、このマンゴーカクテルは? 首都にいるとなかなか出会えない逸品だよ。南の国ならではの特産だからね。」
スミタ大尉はお世辞にも美男とは言えない面相だった。
最初は「騙された」と憤ったアンだった。
だが、なにくれと世話を焼いてくれるこの東洋人の大尉に次第に悪い気がしなくなっていた。
「ええ。美味しそうね。食べてあげてもよくてよ」
大学でもこんな調子で男子たちに対していた。そのせいか、25歳になる今の今まで彼氏ができたことがなかった。
でも、このスミタ大尉は違う。
どんなに冷たくあしらっても、無茶な要求をしても、アンから目を逸らさず、叶えてくれようとするのだ。好みでないため、つっけんどんな対応をしたのは認める。でも、それにもめげず、彼はアンに付き従ってくれていた。
「なるほど。そういう仕組みだったのか。バカロレアの、あの、なんて言ったっけ。黒髪の黒い目の先生・・・。あ、フェルミ先生か。彼よりもきみの教え方のほうがわかりやすいなあ・・・」
自分が好きになる男は皆、自分より可愛くて甲斐甲斐しく男に尽くすタイプの女に取られていた。いつもそうだった。
それが、思いがけなくもこれほどまでに自分だけを見つめてくれる男が現れ、こうして自分に傅いてくれている。25年間。こんなにも贅沢なゆったりした思いで男に対したことはなかった。
海軍て、良い所だわあん・・・。
ミヒャエルとは全く次元の違うポイントながら、アンもまた海軍の持つ雰囲気に魅入られつつあったのだった。
改めて目の前のスミタ大尉をじィーっと見つめていると、彼は不細工な顔に、キモい恥じらいを浮かべた。ただでさえキモい顔に、尚更に、「キモ」を深めていた。その「キモ」が心地いいなんて・・・。こういうのをなんていうのかしら・・・。蓼食う虫も?・・・。
と、急にスミタが立ちあがり、直立不動で敬礼した。
振り返ると夜も更けたブリッジに戦隊司令官のフレッチャー少将が立っていた。
「こんな夜更けまで通信機の学習かね。いや、驚かせて済まない。少尉。実はちょっと君に用があってね」
「え?」
アンは思いがけない貴人の来訪に、戸惑った。
「明朝、艦隊は一度真北に向かいそこから大きくチナの領土に添いつつ、残りの演習メニューを実施しながらターラントに帰投する。
そこで、きみにいくつか確認しておきたいのだが・・・」
「はい」
水兵や士官に対しては尊大なアンだったが、さすがに金の縁取りのある肩章をつけた将官に対しては高飛車な態度も取れず、素直に頷いた。
「まず、その通信機の出力だが、電波の有効範囲はどの程度なのだろう。ミカサのものと同じ程度なのだろうか」
「いいえ、閣下。これはせいぜい半径200キロほどしか届きません。ミカサのは故障の修理を機に出力に改良を加えてあるのです。あれは帝都のバカロレアまで十分に届きます」
「なるほど。ではもう一つ。リュッツオーにも大学の士官が乗っていると聞いたが、リュッツオーには通信機を積んでいるのかね」
「いいえ。あの艦には発電機がありませんので」
「そうか・・・。大尉。悪いがちょっと席を外してもらえないだろうか」
「アイ、サー! では少尉。また明日」
スミタは再び直立不動の敬礼をしてブリッジを去った。
「来たまえ、少尉」
フレッチャー少将はブリッジに残る当直の士官を憚り左舷の物見台にアンを誘い、そこにいた当番の兵を下がらせた。
「さて、実は君に頼みがあるのだが」
「なんでしょう、閣下」
士官たちが神のように仰ぐ将官が直々に何の用なのだろうと訝りながら、アンはその精悍な海軍軍人を見つめた。シブイ中年もまた、悪くないと思えた。
「いまからランチに乗ってリュッツオーまで使いしてもらえんだろうか。本来なら正規の士官に依頼するところだが、事情があって本艦や戦隊司令部の士官には頼めないのだ」
「え? ・・・あ、はい。でも、何を・・・」
フレッチャー少将は当直の士官にランチを一隻用意するよう伝えると自室に戻っていった。
「では、マーグレット少尉。頼んだよ」
「アイ、サー!」
稚拙ではあるが海軍式の敬礼をしてブリッジを降りた。
深夜にもかかわらず、この小気味のいいヴィクトリーの水兵たちは手際よく小舟を海に下ろした。アンは2人の水兵が操る、うねりで大きく上下するランチにタイミングを合わせて飛び乗ると、近くに停泊中のリュッツオーに向かった。
そしてその小気味の良さは、細やかな配慮をも持ち合わせていた。
ランチの向かうのに先んじて、ヴィクトリーの探照灯からリュッツオーに発光信号が送られた。それで小さな通報艦の乗組員たちはすぐに服を整え、女性士官を迎える準備をすることができたのだった。
ミヒャエルは朦朧とした酔眼を上げると驚いた。
「あるえ~っ、どえええっ、アンじゃないくああ・・・。どうしたのお?」
誰が用意してくれたか、とにもかくにもトラウザースだけは身に着けていた。ミヒャエルの吐く酒臭い息に顔をしかめているアンを見上げた。
「ミック、あのな、マーグレット少尉はお前とオレに話があって来たんだそうだ。マークからレモネードでも貰って酔いを醒ませ。少尉、前部砲塔に行こう。この艦は狭いもんでな」
砲塔と言っても防盾だけの単装砲。ヘイグ艦長は防盾の陰に誰もいないのを確認すると、アンを招いた。先刻散々に発砲したせいで、その砲口からは微かにまだ硝煙の匂いが立ち上っていた。
「ちょっと。もう、しっかりしなさいよ! だらしないんだから、まったく・・・」
ミヒャエルに肩を貸して砲塔の下に連れて来てどさっと下ろした。アンは大きく息を吐いた。
「で、司令直々の話ってなあ、なんだい?」
防盾に片手をついて、リラックスした体でヘイグ艦長は尋ねた。アンはレモネードの瓶をラッパ飲みするミヒャエルを横目に、静かに話を切り出した。
「はい。これから艦隊は残りの演習メニューに入るわけですが、フレッチャー提督はこのリュッツオーに、しかるべき時が来たら別行動を取ってほしいと・・・」
「別行動?」
「はい」
そこでアンはさらに声を潜め、囁いた。
「これは艦長の胸の中にだけ収めてほしいとのことでした。
実は、ミカサを巡って、ある陰謀が企てられている可能性があるのだそうです」
「なんだって?」
シィーッ!
アンは人差し指を口に当てて辺りを憚った。
「まだ確たる証拠も無いから絶対に他言しないで欲しいと。ですが、その時が来たらヴィクトリーから発光信号を送るので、艦隊から離れてミカサの艦影が望める位置まで密かに移動してほしい、と。ただし、出来るだけミカサから離れて。気づかれないように追尾して欲しい、と」
「おいおいおい。・・・おいおいおいおい」
「おいおいおいおい」
アンは真顔でこのマッチョの口癖を真似した。
赤毛の、美形ではあるが高慢な女に舐めた態度を取られ、カチンときたヘイグは思わずアンとにらみ合った。
「・・・それ、確認してもいいか」
「ダメです!」
アンは即座にぴしゃりと制した。そして、
「先ほども申し上げたように、提督はこの一件を他の幕僚の方々やヴィクトリーの艦長をはじめとする幹部の方々にも内密にしているとのことです。あたしもさっき初めて明かされて困っているぐらいなんです。本職でもない、臨時雇いのボランティアなのに・・・。
でも、君にしか頼めないからどうか使いしてくれって言われたので、仕方なく来てあげてるんですよ。そうじゃなかったら、こんな・・・」
小汚い男ばかりのクサい艦になんか来るもんですか、とでも言いたげな顔をした。ミヒャエル以上に酒臭くて男臭いこの大尉の雰囲気に耐えつつ、舷側でアンを待っているランチを指さした。
「あのランチが証拠じゃないですか。提督自ら当直の士官に命じてメッセンジャーを務めるこのあたしのために用立ててくれたのです。少尉ったって、つい昨日まで学生だったあたしにこんなことできるわけないでしょ。そのぐらい、考えればわかるでしょうが!」
言いたいことをずけずけ言いやがる女だな・・・。
ヘイグは苦虫噛み潰した顔で赤毛の女を見下した。
「だけどよ、気づかれないように、なんて無理だぜ。発光信号が見える位置ってことは、向こうからも見えるってことじゃあねえか」
「そこをうまくやるのが、あなたの腕でしょうが。意外にヘボなのね!」
「なにを、このクソ生意気な! 大人しく聞いてりゃいい気になりやがって!」
「なによ! 文句あるわけ?」
「アン。・・・できるよ、ヒッ」
それまで蹲っていたミヒャエルがしゃっくりと共にむっくりと頭を起こした。
「ヤヨイがね、ヒッ、これをね、ヒッ、くれたんだ」
まだふらふらしているミヒャエルについてブリッジに行くと、小さな操作卓の端にバンドで固定された四角い金属の箱を示された。
「通信機だって。60キロ程度しか届か、ヒッ、ないけど。これで、ミカサともヴィクトリーとも繋がれる」
「なにこれ。いつの間に・・・」
「さあね。乾式のバッテリー、ヒッ、だってさ。すごいだろ。ぼくらだってあのミカサに載ってるやつを作るので、ヒック! 精いっぱいだったのになあ・・・。工具がヒッ、無いから中はまだ見てない。でもきっとこれ、真空管じゃなくてトランジスタだぜ。
彼女は、ヤヨイは何か知ってるのかも。それでぼくにこれを持たせてこの艦に乗せたのかもね。ヒッ・・・」
アンはその通信機の冷たいボディーに手を触れた。
「あの子、・・・一体何者なんだろう」
ミヒャエルに訊くともなしに呟き、謎と不可解に包まれた人が感ずる冷気をアンもまた感じ、自分の両の二の腕を撫でた。
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