第12話 11 暗号電文の送信と爆弾

 月の灯りに照らされた黒い海。

 ゆっくりと港口を出ると、ミカサは次第に増速した。

「ヴァインライヒ少尉!」

 ミカサが出港して間もなく、登舷礼式に加わっていたヤヨイは、ブリッジの中から呼ばれた。

 中に入ると通信担当のデービス大尉が手のひらを上に向け指をクイクイと動かしている。来いと言うのだろう。

「ヴィクトリーから通信が入っている。どうも君に文句があるみたいなんだが・・・」

 彼だけでなく、ブリッジにいた操舵に関係しない士官や下士官の数人が、ヤヨイを見て苦笑いしていた。

 出港前と出港後に是非ともしておかねばならないことがあった。

 その出港前にした措置の、当然の反応が来たのだとわかった。



 ルメイが乗艦してくる少し前。

「わたしたちが旗艦に3人も固まっているのは不合理だと思うの。少なくとも艦隊旗艦と戦隊旗艦に手分けして乗った方が、この前みたいな事態への対応に有効なんじゃない?」

 演習中に先日のようなミカサの通信機が異常を起こした場合、旗艦機能を果たすには第一戦隊司令官であるフレッチャー少将の座乗するヴィクトリーにも「バカロレア士官」が乗っていた方がいい。

 ヤヨイはそんな提案をした。

「それも一理あるわね。ここはあたしが旗艦に乗ってあげる。ヤヨイ、一番年下のあんたが4番艦に乗りなさい」

 さも当然というように、アンは宣言した。

 アンがそう言うだろうことは充分に予想していた。ちなみにそういう時のミヒャエルは空気なので、なにも発言しないことになっていた。揉めると後々までメンドウだからである。

 しかし、それではヤヨイが困るのだ。だから、一計を案じた。

「あのね、アン。ヴィクトリーの通信担当のスミタ大尉は東洋系でちょっとシブ目の、あなた好みのいい男だったわよ。このまえ制服持ってきてくれた海軍省のミヤケ中尉より上なんじゃないかな。スミタ大尉も前の航海であなたを見かけていて好みだって。相当、気になっていたみたい・・・」

 両手を腰に当ててふんぞり返っていたアンの小鼻がピク、と膨らんだ。

「・・・そう。仕方ないわね。じゃあ、あたしがヴィクトリーに乗ってあげるわ」

 そう言ってアンは、第一艦隊の参謀に、さも自分の提案であるかのように進言し、艦隊司令部の了解のもと、嬉々としてヴィクトリーに乗り込んでいったのだった。

 院生の中でも優秀ではある。それにめっちゃ美人だ。

 だが惜しいことに、欲望に忠実過ぎ、しかも単純だった。

 そこを利用すれば、率先してフレッチャー少将の座乗艦に乗ってくれるだろう。

 そう踏んでいたが、果たしてその通りになった。ちょっと、笑えた。


 通信機の前に着きヴィクトリーとの通信周波数に切り替え、送信カフを押した。

「ミカサよりヴィクトリー。通信担当のマーグレット少尉はいますか。オーバー」

「ヴィクトリーよりミカサ。・・・ヤヨイ? 」

 舳先の向こうの暗闇に灯るヴィクトリーの艦尾灯を見た。スピーカーから聞こえてきた声は、静かに怒っていた。

「ヤヨイ、聞こえてる?

 騙したわね! どこがあたし好みなのよ。帰港したらとっちめてやるから! オーバー。アウト!」

 

 確かに、スミタ大尉はお世辞にも美男とは言えない面相だったことは認めるし、騙したことは悪かったとは思うが・・・。まさか作戦中に通信機で私用の苦情を言ってくるとは思わなかった。それに、すぐ近くに彼が、スミタ大尉がいるはずなのに・・・。

 思わず、赤面・・・。

「少尉。今のはどう考えても作戦任務に必要な通信とは思われない。以降、慎むように」

 デービス大尉の苦笑いを含んだ叱責がブリッジの中にいた全員の感想を代弁していた。だが艦長のルメイだけはヤヨイに優しい一瞥を向けた。

「アイ、サー・・・」

 ヤヨイは恥じ入りながら答えた。


 ヴィクトリーの後方を追いかけていたミカサは、港口を出るやみるみるスピードを上げて3隻を追い越し、先頭に立った。

 そして、ミカサの後方から随伴して来た通報艦のリュッツオーがミカサの右舷一キロほどの海面にピタリと位置した。前進8割で巡航体勢に入った5隻の艦隊スコードロンは艦首艦尾とマストの先端の灯りを残し、各艦全ての灯火を消した。

 月齢は13。ほぼ満月に近い。

 だが、たとえ新月でも星灯りだけで夜間の航行も出来るよう、海軍は訓練している。進路は東南東。およそ丸2日の航走でフジヤマ島西岸に到着。そこから演習は始まる。

 就寝ラッパが吹奏された。機関部と航海部の当直を残し、乗組員の大部分はしばしの睡眠をとるのだ。

 出港前にやらねばならないことは終えた。

 あとは出港後に是非ともやっておかねばならないことのために、一時自室に引き上げ艦内の大部分が寝静まるのを待った。



 ヤヨイが自室に引き上げて時の経つのを待っているころ。

 一方ではミカサの先任士官ヨードルが自室で不貞腐れていた。

 相部屋の機関主任は当直で機関室に行っていていなかった。

 機関長ならこの異常がわかるはずだ。そう思って乗艦してくるカンダ少佐を待った。

 なぜあんな命令書にサインをしたのか。そう、問い詰めるつもりだった。

 だが、第一艦隊の幕僚たちと共に乗艦して来た機関長は、カンダ少佐ではなく第二艦隊の巡洋艦から転任してきた士官だった。

 機関長もまた、出港間際に下艦したのだ。

 燃料積載に係った監督責任者と実施作業者の二人ともが出港直前にふねから降りた。


 怪しい・・・。怪し過ぎる・・・。


 疑いは大きくなる一方だったが、そうこうしている間に出港の時刻がきてしまい、甲板員を指揮して出港の作業を監督するヨードルにはそれ以上の追及は不可能になった。

 一体、ルメイは何を考えているのだろう。

 もしヨードルの不安が的中していたら、最も責任を問われるのは艦長である彼自身のはずなのに・・・。

「Schwartzchen(くろちゃん)!」

 むしゃくしゃするときは自室で飼っている黒猫を撫でるようにしている。

 くろちゃん、と呼ばれた黒猫は、壁際の背の高い棚の上の塒から、

「なーご・・・」

 と、気怠そうに返事をして首を出し、主人を見下ろした。

「おいで、くろちゃん」

 主人の命令にもかかわらず、「くろちゃん」は再びねぐらの褥の中に身を隠した。

 ったく・・・。どいつもこいつも・・・。

 ヨードルは独り、狭いベッドの上で爪を噛んだ。



 ルメイは安堵して艦長室に入った。

 ノンは計画通りに必要量よりも少ない石炭を積み込み、与えた薬を飲んで「原因不明の腹痛」を発症し下艦した。

 機関長のカンダ少佐に白紙の帳簿にサインさせた後、海軍省に栄転させた。

 あとから責任を問われるだろうが、そのころにはもう、それを指示した自分は帝国と海軍にはいない。

 全て計画通りに事が運び、すでにミカサは出港した。


 懸念されるのは6時間の予定の繰り上げと、あの目敏いヨードルだけだ。

 まったく、あのしつこさには恐れ入る。だが、こうして海の上に出てしまえばもう、彼にも手も足も出まい。出港が早まったのは気懸りだったが、あとは受け入れ側のチナの問題だ。彼らがなんとかするだろう。そう思わないと、耐えられなかった。

 ルメイは汗の染みた軍服をかなぐり捨てて、個室のシャワーを浴びた。

 あと3日もすれば、全てが変わる。

 彼をないがしろにしてきた帝国や海軍は、そのとき蒼褪めるに違いない。

 それを思うと、少しは留飲が下がった。



 帝都標準時深夜2時。出港から2時間が経った。

 ヤヨイはアンのいなくなった自室で一人、聖書の黙示録のページを繰りながら、傍らの紙に鉛筆で数字を書き込んでいた。

 先任士官とルメイとのやりとり。

 あの石炭の一件は収穫だった。あの諍いから次のことがわかった。


 まず、先任士官が石炭の搭載量が彼の考える正常な量よりも少ないのではないかという疑問を持っている。

 だが、艦長のルメイが石炭の搭載量を確認したいというヨードルの進言を拒否した。

 下士官の最高位である先任士官が艦の最高責任者である艦長とのあいだに確執を抱えている。

 それに、石炭を搭載した現場の機関科員と、その搭載量を指示した機関長がそろって出港前に艦を去ったこと。

 出港前日に赴任して来た新機関長ノビレ少佐の詳細も知りたい。

 それらは全て重要なことである、と。

 そこから導き出されるのは、ルメイが密かに石炭を必要量よりも少なく積載させた疑いがある、という一時だった。

 これも報告しておいた方がいい。

 それに、先任士官の個人情報も知っておいた方がいいかも知れない。経歴をまとめて送って欲しい、と。

 それらを短く箇条書きに文章にまとめ、聖書の黙示録の記述を乱数表代わりにして暗号電文を作った。

 今日は9月13日だから9+1+3で13。

 一桁が3だから第三のラッパの部分、

「苦よもぎ”という名の巨大な彗星がすべての川の3分の1とその水源の上に落ち、水の3分の1が苦くなって多くの人が死ぬ」

 その話のくだりを先頭の文字から作成した電文の通り文字を拾って行って、その飛ばした文字数を数字にする。

 電文を受け取った側も同じ聖書の同じ個所を開き、傍受した電文の数字を飛ばしながら文字にしてゆくと、送信側が用意した平文の電文が出来上がるという仕組みだった。

 ミカサ級戦艦の最大速度は約22ノット。機関8割として17・6ノット。出港から2時間経っているから約35海里。すでに軍令部のあるターラントからは60キロほど離れた辺りを航行していることになる。

 その程度なら、ミカサよりも強力なアンテナを備えたターラントの受信機ならばこの小型の発信機の出力で十分に届く。

 ヤヨイは持ち込んだ手荷物の背嚢を開き、中身を取り出した。

 中には通信機の予備の基盤の他に、両掌を合わせたほどの、ずっしりと重い二つの金属のケース。

 爆弾だ。

 立方体に近いそれを取り出した。そしてその二つよりは小さな、もう一つの平たい、これも金属で覆われた箱も。

 大きな二つはひとまず置き、平たい方を小さな机に置いて端子にワイヤーをつなげた。それを伸ばして小さな船窓を開き、ワイヤーを窓の外に出す。次に別の二つの端子にワイヤーを繋ぎ、あらかじめセットしてある0から5までのダイヤルの5を選び、ワイヤー同士の端を持ってそれを触れ合わせた。ワイヤーが触れ合うとボタンの上の緑のライトが点灯する。ツ、ツ、ツ。とやってしばらく待ち、それを3度繰り返してもう一度緑のボタンを押し、一分間ほど隣の青のライトが点くのを待った。

 そのサイクルを根気よく5回ほど続けると、

「ト、ツー、ト」

 青のライトがゆっくりと3回点滅して、消えた。

 ヤヨイの送ったのはStartの「S」

 それに対してターラントにいるリヨン中尉が、「受信準備OK」の意味の「Roger」の頭文字「R」を送って来たわけだ。

 それで初めて、ヤヨイは暗号電文そのものの送信を開始した。

 送信に20分ほどかかったが、何とか「了解」の「R」を受信して送信を終えた。

 ワイヤーを外して背嚢に仕舞い、次に、脇に置いておいた二つの金属ケースに取り掛かった。

 まず、平たいケースの周波数ダイヤルを「0」に変える。次に二つの並んだボタン、赤と緑のうちの赤を押した。

 途端に二つの大きな立方体、爆弾からキーンという、小さいが高い金属音がした。ヤヨイはすぐに緑のを押すと音は収まった。

 少し、冷や汗が出た。

 ここで爆発は、シャレにならない。

 3つの品物を慎重に背嚢に戻し、背嚢ながらそれを胸の前に抱きかかえるようにして肩にかけ、自室を出た。

 暗い照明で照らされた艦内通路にはもう誰もいなかった。エンジンの響きとブーン、という電球の小さな音以外は静かな夜だった。

 クィリナリスで見取り図を見てから何度も反芻した艦内の構造。最下層のエンジンルームの前方にある、その目指す部屋まで、途中何度も水密扉を開け閉めしながら三層下まで階段を降りて行った。

 このミカサの最下層の艦低部のその部屋はエンジンルームと同じで中央の仕切りはない。艦の右舷と左舷の舷側までの幅があり、奥行きはあまりない。ドアは背後と前に一か所だけ。部屋の真ん中にはパイプが露出し、バルブがいくつか組み合わさっていた。キングストンバルブだ。


 万が一、敵のミカサ強奪計画を妨害するのに失敗した場合。

 この帝国の最新鋭の主力艦をみすみす敵の手に渡すわけにはいかない。あのチナ街の近くのリヨン中尉のアジトで受け取った爆薬のセット。最後の手段として、どうしても設置しておく必要があった。

 起爆は、受信機がある特定の周波数による信号を受信すると回路が完成し、信管が作動する。その周波数の電波はブリッジの通信機かヤヨイの背嚢に残った送信機から発信する。赤のボタンを押してきっかり十秒後に起爆するようにセットされていた。

 ミカサはキングストン弁を破壊され、かつ、エンジンルーム側の壁の、フックに掛けた爆薬が壁の一番薄い部分に穴を開け、およそ3時間も経てば流れ込んだ海水で正常な浮力を失い、沈没する。

 さらに。

 石炭で真っ赤に灼けた釜室に大量の海水が流れ込めば、水はほとんど瞬時に水蒸気となり、それが急速に膨張して巨大な圧力を生じ水蒸気爆発を起こす。5000トンの艦体は真っ二つになって海の藻屑となり、ミカサは深海に沈む。

 バイタルパートである機関部は外からの攻撃には頑丈な装甲に守られているが、こうした艦内のサボタージュ(破壊工作)には意外なほど弱い・・・。

 あらかじめミカサ級の建造に携わった技術者から得た情報をリヨン中尉から聞いていた。

「ただし、」

 と、リヨン中尉は言った。

「水深の浅い所では沈没させないように。最低でも50メートルは確保し起爆すること。これが何より重要だ。わかったな? 岸に近い所では絶対に沈没させるな」

「サルベージさせないようにするためですね。でも、どうしても水深が取れなければ?」

 ヤヨイの質問に、彼はこう答えた。

「弾薬庫を爆破して艦全てを木っ端みじんにするか、他の3隻でミカサを撃沈、完全に破壊する。万が一のために西のマルセイユにも第三艦隊の駆逐隊を待機させている。主砲で航行能力と攻撃力を奪い、水雷でとどめを刺す」

 リヨン中尉は冷徹に言ってのけた。

 その場合は自分の生還は元より、乗員たちの生命もその大部分を犠牲にしなければならなくなるだろう。ヤヨイはあらためて静かで悲愴な覚悟をした。


 背後のドアを閉めようと振り返ろうとして気配に気づいた。

「そこで何をなさっているのですか、少尉」

 あの大男の先任士官が立っていた。

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