第17話 にちじょう(勝真)
「もう、もう!」
ただこれだけのことで照れて怒り出す葵衣は、昔と変わらずとても可愛い。
目が覚めた時に漂うコーヒーの香り。
最初にコーヒーのドリップに挑戦したのは、この家で二人でだった。
缶コーヒーや甘いコーヒー飲料よりも、コンビニやカフェのブラックコーヒーを好んでいた勝真に、葵衣がふと思い立って家でも
試行錯誤の研究でしばらくはコーヒー三昧の日々が続いた。
ここの店の豆が美味しいだとか、こんな時はこの種類を選ぶだとか。一通りのパターンが出来上がった頃には、葵衣は当たり前のように勝真にコーヒーを淹れてくれるようになっていた。
課題に追われた夜中に目を
就職してからは、遅くまで仕事をしている勝真が少しでも長く眠れるようにと、毎朝せっせと朝食を作ってくれた。
朝起きた時に漂うコーヒーの香りは、いつだって葵衣が勝真を想う気持ちの表れで。
幸福な一日が始まる合図のようだった。
そこにあるのがありがたくて。
気が付けば抱きしめていた。
葵衣の毎日が幸せだったというのなら、最後まで。
残り少ない時間の最後までずっと、幸せでいて欲しい。
勝真にできることは他には何もない。
葵衣は勝真のためにここに戻ってきてくれるほど優しくて、頑固で、芯が強い。
ある日突然葵衣を失ったことで悲しみに暮れていた勝真の前で、ある日突然全てを失った自分を
本当は、悲しいのも、やりきれないのも、葵衣のほうなはずなのに。
故意ではなく不注意や体調不良なんかだとしても。
どうして何の関係もない葵衣が事故に巻き込まれなくてはならないのかという怒りはあった。
誰に向けていいかもわからない怒りだった。
事故を起こした当人たちも怪我を負っていた。決してそんなことになりたくはなかっただろう。誰かのせいだと言いきれてしまう過失があったならば、その人を責めることができたかもしれない。だが、決定打はない。
本当のことは、多分わからない。司法が入ればなおさら、真実は丸く収まる方向にしか動かないだろう。
それに、その場に葵衣がいたことは、誰の責任だっただろうか。
葵衣の責任でもあり、おそらく勝真の責任でもあった。
そんな中で勝真が確実に恨めるのは、自分しかいなかった。
だけど、葵衣は誰も恨んではいない。
やりたかったこともたくさんあっただろう。楽しみにしていたこれからもきっとあったはずなのに。理不尽に何もかもを失ったのだというのに、恨み言ひとつ言わなかった。
幸せに終わりたいのだ。
なくなってしまったこれからを惜しむのではなく、今まで手に入れたものを大事に抱えて。自分は幸せだったと笑っていたいのだろう。
だったら、勝真にできるのは、せめてそれを叶えることくらいだ。
時が来るまで。最後まで。葵衣が幸せだったと笑えるような
「俺はね、花が好きな訳じゃないんだ。いや、嬉しいよ?嬉しいけどさ」
付き合い始めた頃は気を引くのに必死で、花を見に行くのが好きな葵衣に何度か花束を贈った。
葵衣は頬をにやけさせながらも、少し言いにくそうに視線をもじもじとさまよわせてから眉を下げた。
「俺はどんくさいから、のどかな場所が落ち着くんだよ。ゆったりと時間が流れてる感じが、俺にはちょうどいいの。
だからね、花束は嬉しいんだけど、こんなにしてくれなくていいよ。花はどこかで咲いて、枯れて、また来年も咲いてくれればそれでいいから。
それで、また一緒に見に行けたら……うれしい」
ちょっとばかり不安そうに様子を
あの頃の葵衣は、自信がなくてすぐにオロオロして、いつも言いたい事を飲み込んで困ったように笑っていた。
勝真に心の内をあかせるようになると、頻繁に俺なんかといいながら泣きぐずった。
他人に無関心だった勝真の心にいつの間にか住み着いていて、それに気づいた頃からずっと、勝真にとって葵衣は可愛くて守りたい存在だった。
生き生きと
葵衣が守りたいのは、きっとそういうものなのだろう。
だから、勝真はそれを守ろうと思った。
この優しい日常が葵衣の望むものだから。
はからずも、自分もそれを望んでしまっているのだけれど。
最後に葵衣にしてやれることは、もうそれだけしかないのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます