海辺の街で
第34話
◇
魔馬車は速度を緩め、不自然だった車窓が周囲の景色を写し始めた。馬の蹄の音が聞こえたところで、ミハルは馬車の窓を開く。
「頭出すんじゃねぇぞ」
「通常運転モードだし、大丈夫ですよ」
ライニールは向かいの席で腕組みしたまま、ミハルの答えにフンと鼻を鳴らした。ミハルは一瞬戯けるような表情を彼に向けた後で、座席から腰を浮かせて窓台に手を置いた。
頭を窓枠に捩じ込むと、緩やかに走る馬車を撫でる風がミハルの髪を揺らす。少しベタつき、潮の香りを含むそれに、ミハルはすんすんと鼻先を動かした。
程なくして馬車は起伏を上り切り、緩やかな下り坂に差し掛かる。ミハルは進行方向の少し先に目を向けた。馬車が下るその先に水平線が姿を見せる。
「ライニール様! 見えましたよ! 海です海!」
ミハルは窓の縁に頭を打ちつけながらも、馬車の中に顔を向け、ライニールに窓の外を差し示した。
「チッ、騒ぐんじゃねぇよ。海に向かってんだからついて当然だろ」
「カッコつけてないで見てくださいよ! 今日は天気がいいし、水平線が煌めいて綺麗ですよ! この磯の香りってやつも気分が上がっていいですねぇ、貝で出汁をとったスープと同じ香りがします! ほらほら、ライニール様も、こっちにいらっしゃっわぶっ!」
車輪が石を踏んだようだ。ミハルの体が弾み、意図せず上下の歯がガチリとぶつかった。
「クソ兎、子供じゃねぇんだ、座ってろ」
ライニールはミハルの手を引いた。隣に座らせると、「大人しくしてろ」とミハルの顎を引っ掴む。ミハルは不機嫌に口元を尖らせ唸ったが、当然兎の唸り声は狼に対して効果はない。
ライニールは「チッ」といつものように舌打ちすると、ミハルの顎を離し、また腕組みして窓の外に視線を移した。
ミハルもそのライニールの視線の先に目を上げる。馬車は進行方向を変え、海沿いの街道を進んでいた。
窓一面に水平線が映っている。向こうの空をカモメが飛び交い、いくつかの船舶が白波を立てていた。
ミハルはライニールの膝に手を置き、体を乗り出し窓ガラスに頬と鼻を押し当てた。
今のミハルにとっては、これが初めての海だ。
程なくして、蹄の音が鳴り止んだ。
青毛の牝馬が嘶き、目的地に到着した事を知らせている。
ミハルは立ちあがろうとしていたライニールの体の横をすり抜けるように、開いた馬車の扉から外へと飛び出した。
ここは南東の街ナルバだ。海沿いにあるこの街には、最近次々とリゾート施設が建てられていて、馬車が到着したのもそのうちの一つだ。
暖色の磁器質タイルがあしらわれた平屋の建物で、ここはこの宿泊施設のロビーにあたる。客室はそれぞれ海が見えるコテージだ。
引きこもりのはずのライニールが突然、旅行に行こうと言い出したのは七日前。ミハルはその時彼の正気を疑い、その額に手のひらを当て熱を測り、下瞼を引き下げ色を確かめ、眼前でヒラヒラと手を振ってみたが、ライニールの意識は正常だった。
「ライニール様、またいらして頂き光栄です」
入り口でにこやかにこちらを迎え入れたのは、ミハルと同じ兎の獣人の男だった。南国の花があしらわれたラフなシャツにハーフパンツを合わせたその姿は、まさに海沿いのこの施設にぴったりの装いだ。
どうやら彼はここのオーナーのようだ。にこやかに笑うとライニールの手から荷物を受け取り、その重みに一瞬ふらついたが、腰を落として踏ん張り、なんとか落とすことは避けられたようだった。
「この方が仰っていたお連れ様ですか?」
兎獣人の男がミハルに目を向けライニールに尋ねると、ライニールはただ黙ってフンと鼻を鳴らした。
オーナーはライニールのふてぶてしい態度にも動じず、それが肯定の意であることを理解しているようだった。
「そうですか、この方が……」
ミハルの姿を繁々と眺めた男は、最後に瞳の色を覗き込んだ後、うんと頷き一層にこやかに笑んで見せた。ミハルは彼の行動の意図が分からず首を捻る。
結局、特に説明をもらえないまま、ミハルは客室に案内された。
広々としたコテージは、白とブルーを基調にした家具で揃えられており、大理石張りの床は素足で踏むと冷たくて心地が良かった。普段は陰気な城で過ごすミハルにはこの内装はより一層眩しく映る。心なしか足元を弾ませながら、ありとあらゆる扉を開いて室内を探索した。
「わわっ! ライニール様! 見てくださいよ! ベッドルームがオーシャンビューですよ!」
ミハルは向こうの部屋でのそのそと荷物を広げているライニールに声をかけた。
真っ白なシーツのかけられた大きなベッドが二つ横に並び、その足元一面が窓になっている。そしてその先はウッドデッキにパラソルとビーチチェアが並べられており、寝そべればナルバの砂浜が一望できる配置になっていた。
ミハルは窓をめいっぱい開いてから、シーツの上にダイブした。寝そべりながら海を眺めていると、打ち寄せる波の音と、どこかではしゃぐ子供達の声がする。
「ライニールさまぁ! 何してるんです! はやく!」
「チッ、うっせぇな」
ライニールが舌打ちしながらようやくベッドルームに現れる。ミハルはベッドの上から乗り出して、ライニールの手を引いた。
ミハルの力など、ライニールにとってはなんの影響力もない。しかし、ライニールは素直にミハルの手に引かれ、そのままベッドに腰を下ろして窓の外に目を向けた。
ミハルは体の半分をライニールにくっつけて同じようにベッドに座った。ライニールの横顔を見上げると、いつもより穏やかな表情を浮かべている。
「この匂い嗅いでると貝のワイン蒸し思い出しますねぇ」
「チッ」
ライニールがまた徐にミハルの顎を掴む。
「お前は食い物のことばっかりだな」
「ライニール様、砂浜で貝殻でも拾いましょう。貝殻拾うライニール様……ブフッ、ちょっと面白いですねぇ」
「クソが」
ライニールはミハルの肩を押し、その体をふかふかのベッドの上に押し倒した。ミハルの視界にライニールが覆い被さっている。
「嬉しいのかよ、クソ兎」
ライニールは尋ねた。その鼻先はミハルの頬に近づき、ミハルは顎を抑えられたままライニールの瞳を見上げた。
「はい、嬉しいです」
ミハルはその栗色の瞳を細め、ライニールの手の中で口角を上げた。
「ライニール様」
「あ?」
「最近、俺の顎をよく掴みますね?」
「……ああ」
「キスしたいからですか?」
「ちげぇ、お前がうるせぇからだろ」
「そうですか」
ライニールは手を離し、体を起こした。ミハルはそれを追いかけるように、ライニールの袖を掴む。そして、体を起こしライニールの口元に一瞬だけ自らの唇を押し当てた。ライニールは驚きその瞳を見開いている。
「お腹すきましたねぇ」
「おい」
「到着した時にレストランが見えましたから、そこに行きましょう」
「クソ兎」
「はて?」
ミハルが首を傾げると、今度はライニールがミハルの腕を引き寄せた。もっと深くその唇が重なって、ライニールの熱い手のひらがミハルの首筋を撫でる。
「てめえ、夜覚悟しとけよ」
ライニールはそう言ってベッドから立ち上がった。
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