第32話
日が落ちて、店の中は薄暗い。
厨房の小さな灯りだけをつけて、ミハルはひとり立っていた。
見下ろすのは火にかけた銅鍋だ。黄金色のスープは食欲をそそる香りを立てながら、弱火で沸々と音を鳴らしている。
静かな夜だ。しかし、胸が騒めく。こんな時、あの影は必ず現れるのだ。
鼓膜が圧迫されるような感覚にミハルは顔を上げた。厨房の僅かな灯りに照らされた床を、揺ら揺らと影が這っている。まるで蛇のようだとミハルは顔を顰めた。
影は徐々にミハルに近づき、床から壁に這い上がる。実体を持たないそれは容易くその形を変えるが、そのどれもが曖昧だ。蛇のようだったその形は壁に映った途端に手足頭をはやして人形を模しているが輪郭は曖昧なまま、まるで水面に揺れているかのようだ。
ミハルは体ごと振り返った。影はその口元(と思われる場所)をイヤらしく歪めると、激しい風に煽られる旗のような笑い声を上げた。
「この街を出てくの、うさぎちゃん」
影はわざとらしい高い声で言った。
女の声に近いが、人が出すにしては違和感がある。コウモリ、いや、ガラスを引っ掻いたように不快な声だ。影は長く続く戦いの敵である東の魔女がミハルの元に送った遣いだった。
「いいの? うさぎちゃん、ここから離れていいの?」
影はしつこくミハルに問う。
ミハルは俯き、下唇を噛んだ。ポケットに手を入れ、それを取り出す。黒々とした丸いガラス玉だ。人差し指と親指で摘んだそれを、ミハルはそっと調理台の上に置いた。
「英雄を殺したうさぎちゃんは、自分だけお山に逃げるつもりなの?」
影は喋り続ける。
ミハルは黒いガラス玉を見下ろした。
これは、ガラス玉ではない。追蹤玉だ。真黒の追蹤玉。それは、死よりも辛い悪夢のような記憶だ。人はこれを毒薬として使う。
飲み込めば心が闇に包まれ、正気ではいられなくなる。そして、飲み込んだものの多くはその闇に耐えられなくなり死を選ぶ。
「ねぇ、どうなの? うさぎちゃん、うさぎちゃんってばあ」
ミハルは拳を握り目を閉じた。影は笑う。高い声でミハルを呼び続けた後で、プツリと一瞬声を止めてその後で言うのだ。
--助けて、お兄ちゃん!
ミハルは黒い追蹤玉を握りしめる。時折り影が発するのは、ミハルの妹、サラの声だ。それは東の魔女がサラの声を奪った証拠。東の魔女の元に彼女がいると言う証拠だった。
「もう五人だ」
「ん、なぁに? うさぎちゃん」
「五人も殺した」
ライニールのために開いた大切な店で、ミハルは英雄たちに黒い追蹤玉を飲ませた。
「いつサラに会わせてくれるんだ! あの子はどこにいるんだ、本当に生きてるのか?」
ミハルの言葉に、影は黙った。曖昧にゆらゆらとその形を揺らしている。
「あと一人だよ」
再び影が言葉を発する。ミハルは奥歯を噛み締め、表情を歪めたまま息を飲んだ。
「あと一人、ライニール・クライグ、うさぎちゃん、あとそいつだけ、狼、ライニール」
ミハルは首を振った。しかし、影は追い打ちをかける。
「助けて、うさぎちゃん、助けて」
--お兄ちゃん! 怖い! 助けて!
ミハルは近くにあったグラスを握り、影に向かって投げつけた。影は相変わらずゆらゆらと揺れているだけで、グラスだけが硬い音を立てて床に転がった。
「戦争が終わるって思ってるの? 終わったら、妹が戻ってくるって? そう思ってる?」
ミハルは顔を上げた。
ライニールが言っていた。「もうすぐ戦争が終わる」そうすれば、サラは東の魔女の元から救い出されるのではないかという期待がミハルの中に浮かんだのは確かだ。
「ダメだよ、うさぎちゃん、戦争終わっても、ダメ」
影は続ける。
「それ、どうやって作るか知ってる?」
影はゆらりと指差した。ミハルはその黒い追蹤玉に目を落とす。
「拷問、拷問、痛めつけて、暗いとこに閉じ込めて、絶望、絶望、何度も与える、でも、死ねないようにする、そうすると吐く」
黒い追蹤玉が出回ることはほとんどない。それは影が言う通り、それができる過程があまりにも非人道的だからだ。ただそれは、ミハルが今まで明るいところを生きてきたからと言うだけのことかもしれない。
おそらく裏では違法に取引されたりしているのだろう。ミハルは英雄を殺すため、影からこの黒い追蹤玉を幾つも与えられた。
「ねぇねぇ、うさぎちゃん、知ってた? ねえ、知ってた?」
影はしつこい。ミハルは眉を顰め「知ってた」とだけ短く返す。
「ねぇねぇ、うさぎちゃん、知ってた?」
影はまだミハルに問う。ミハルの手元にある追蹤玉は、その中に黒く蠢く何かをはらんでいる。
「うさぎちゃん、それさぁ、誰の、だと思う?」
影が笑った。
ミハルは息を呑む。
その言葉を聞いて体が凍りついたように動かなくなった。
栗色の双眸が見開き、掌の中の追蹤玉を凝視する。喉奥が締まり、押し出した声は震えていた。
「そんな……まさか、サラ……」
ミハルは膝から崩れ落ちた。
握りしめた黒い追蹤玉を胸元に寄せる。荒い呼吸がミハルの肩を揺らした。
影はミハルを見て笑っている。
「大丈夫、あと一人だけ、ライニール、狼、助けて、お兄ちゃん」
--お兄ちゃん!
また影はサラの声で言った。
ミハルは床に拳を打ち、額を擦り付けた。影が発さずとも何度も脳裏にサラの声が浮かぶ。そしてそれと同じだけ、ライニールの姿が浮かぶのだ。
--助けて、お兄ちゃん
--ミハル、愛してる
言葉が交互にミハルの胸を引き裂いていく。
「あ、来た」
影が言った。ミハルは顔を上げる。
「狼きた、ライニール、きた、うさぎちゃん、助けて、お兄ちゃん」
そう言うと影は大きく歪み、渦を巻くようにして壁の中に溶けていった。直後、店のドアが二度ノックされた。
ミハルは床に落ちたグラスを拾う。砕けはしていないがヒビが入っていた。
扉に歩み寄り、鍵を開けるとゆっくりとドアノブが降りて、ライニールの大きな体が現れる。今晩、店で食事を取ろうと約束していたのだ。
「やあ、ライニール」
ミハルは見上げたライニールに笑いかけた。ライニールはミハルに視線を落とすと怪訝な様子で眉を顰める。
「顔色が悪りぃな」
「そ? 暗いからそう見えるんじゃないかな」
言いながら、ミハルは店内の電気をつけた。そしてライニールには顔を向けないまま厨房に入る。握りしめていた追蹤玉は下穿きのポケットに入れた。
「適当に座ってて、もうちょっと支度に時間がかかるから、何か飲む?」
「……ああ、適当に頼む」
ライニールはまだミハルの様子を気にしているようだったが、深くは尋ねてこなかった。促されるまま隅のテーブル席に座ると、出されたジュースに口をつけている。
「明日は早くに出るの?」
「夜明けには出る」
「そっか」
ライニールが戦線から戻り五日目の夜だ。彼の休息は終わる。戦場に戻ればまた暫くこの街には戻らないだろう。ミハルは厨房に立ちながらポケットの中を握った。
--もうすぐ、戦争は終わる
戦争が終わったら、東の魔女にとって英雄を殺すことに意味がなくなってしまう。
今夜やらなければ、サラは戻らない。早く助けてあげなければ、サラにはミハルしかいないのだ。
ミハルはボールにひき肉を入れた。微塵切りにした玉ねぎをフライパンで炒めていく。飴色にじっくり焦がせば焦がすほど、この料理は美味くなる。その時間がミハルに与えられた猶予だ。
ミハルは深く息を吸った。
追蹤玉は魔女に特殊な魔法をかけられているのか、食材に入れ込むとドロリと解けるようになっていた。今までもそうして料理に混ぜていた。
ミハルは食材の入ったボールを前にして、黒い追蹤玉を摘み、エプロンの刺繍に目を落とした。ライニールの為の食卓で、ミハルは彼の好物を作り、それで彼を殺すのだ。
手が震えた。唾を飲み込むのがやっとなほどに、喉が閉まる。サラの声が頭に響く。
--怖い、お兄ちゃん
やるしかない。
しかし、ミハルの手は躊躇い、震えた。
「ミハル、どうした」
呼ばれて、ミハルはびくりと顔を上げた。その拍子に、手元から追蹤玉が調理台の上に転がった。ライニールがいつの間にか席を立ち、調理場にいるミハルの様子を伺いに来たようだった。
しかし今、ライニールの視線はミハルの手から溢れて転がる黒い追蹤玉を見つけていた。
空気が止まった。
ライニールはそれが何か知っているはずだ。ミハルの背中は緊張からか熱を失い冷たい皮膚に脂汗が伝った。
「これは……なんだ……」
ライニールは絞り出すように、ミハルに聞いた。ミハルはその声を合図にしたかのように慌てて追蹤玉を握りしめる。
そのまま厨房の奥の裏口から逃げてしまおうと咄嗟に思った。しかし、それより早くライニールの手がカウンター越しにミハルの腕を掴む。調理台の上に載っていたボールが床に落ちて、食材が散らばった。
「ミハル、どういうことだ。何をしようとしてた? これが何か、わかってんのか?」
ライニールの表情は戸惑いを浮かべている。しかし、ミハルが何も答えないまま目を逸らすと、そこには徐々に怒りの感情が色濃くなっていった。
「答えろ、ミハル!」
「ライニール……」
「お前は、俺を殺そうとしたのか!」
ミハルは黙った。
怒りを浮かべる狼に、兎の本能が怯えている。ミハルのその態度をライニールは肯定と捉えたようだ。
「何故だ……まさか、他のやつらも……」
その時だった。
入り口の扉が乱暴に叩かれる。その音で、ミハルもライニールも言葉を止めてそちらを振り返った。
「西の魔女の遣いのものだ、ここを開けろっ!」
男の声がする。ミハルは肩を振るわせた。
「おい! 開けろっ!」
もう一度、扉が乱暴に叩かれる。
「居ないんですかね?」
「いや、灯りがついてる、それに、人の気配がする」
「無理やり開けますか?」
複数の話し声と息遣いが聞こえる。少なくとも三人、もしかしたら五人はいるかもしれない。ミハルのこめかみを汗が伝った。
ライニールがミハルを見下ろす。その表情にミハルは息を止めた。
また扉を叩く音がする。しかし、今度の音はノックではない。強く扉を蹴り、無理やり押し入ろうとしている。ミハルは咄嗟にライニールの手を振りといた。
「ミハル!」
背後でライニールの声がした。しかし、ミハルは振り返らず、狭い厨房をすり抜ける。通りすがりに鍋の手持ちに体があたり、背後でスープが飛び散る音がした。
裏口のノブを掴み、扉を押し開け外に飛び出した。手にはサラの追蹤玉を握りしめている。
「こっちです! 裏から逃げました!」
表の入り口から回り込んだらしき西の魔女の遣いの声がした。ミハルは裏手の細い路地を駆け抜ける。背後でミハルを追う声と、複数の足音がしている。
このままいけばあちらの通りから回り込まれて挟み討ちにされてしまう。ミハルは道の脇の段差に足をかけ、植え込みの中に潜り込み、手をつき這いつくばるようにして急な坂道を上る。
背後で草を掻き分ける音がした。どこへ逃げればいいのか、頭の中でミハルは必死に考えた。ここで自分が捕まれば、サラは助けられない。それにミハルが捕まり陰謀がバレたら、ミハルが裏切ったと思った東の魔女が、サラを殺してしまうかもしれない。
捕まるくらいならいっそ死んだほうがいい?それならもともと、誰のことも殺さずに死んで仕舞えばよかったのか。でも、それじゃあ誰が……誰がサラを助けるんだ‼︎
ーーどうすればいい⁈ どうすれば、サラを助けられる⁈
あらゆる思考が分裂し、ミハルは混乱したまま、ただただ追っ手から逃れようと走り続けた。
ミハルは地面を掴み、必死に斜面を登った。ちぎれた草の匂いがする。喉は痛むほどに乾いて張り付き、呼吸をするたびに胸が痛んだ。
ミハルの爪先が小石を踏んで、その足が滑る。そしてその足首を背後の追っ手が掴んだ。
「捕まえたぞっ!」
ミハルは足を引っ張られ、体ごと斜面に倒れ込んだ。土がミハルの衣服を汚し、手をついた瞬間離してしまった追蹤玉が転がった。
ミハルの体を押さえつけようとしていた男がそれを掴み上げる。ミハルは咄嗟にその腹を蹴り上げ、男の腕に掴み掛かった。
「うぉっ! くそっ! 離せっ!」
ミハルが爪を立てると男は慌ててミハルの肩を掴み上げる。ミハルは男の手からサラの追蹤玉を奪い返した。
「おい! こっちだ! 手を貸せ! 押さえつけろ!」
「こいつ、黒い追蹤玉なんてもってるぞ!」
「これで英雄を殺したのか!」
次々に足音が斜面の草を分け、這い上がってくる。ミハルは地面に体を押さえつけられ、追蹤玉を持つ手を掴まれた。
「離して、離してください!」
「黙れ、人殺し!」
男の言葉がミハルに降り注いだ。その瞬間から周囲の音がくぐもり、どこか遠くなっていく。ミハルは渾身の力で身を捩り、握りしめたサラの追蹤玉を口に含み、そして、飲み込んだ。
「なっ! おまえっ! 証拠品を!」
「どうしたっ⁈」
「こいつ、黒い追蹤玉飲み込みやがった!」
ミハルの体が大きく跳ね上がり、男たちは驚き押し黙った。黒々とした追蹤玉がミハルの中で溢れ出し身体中をじわじわと重く染めていく。顔色が青ざめ、全身を嫌な汗が流れる。臓器の全てが収縮した。
経験したことのない漠然とした恐怖がミハルを包み込んでいく。頭が白んだ次の瞬間、ミハルは耐えきれず叫び声を上げた。
夜のハイデの街に、その戦慄の声が響き渡る。
「おい、どうすりゃいいんだこれ!」
男の一人が慌ててミハルの口を塞ぐが、ミハルは我を失い体を捩り胸を掻きむしりながら叫び続ける。目には涙が溢れて、鼻水には血が混ざっていた。
「ダメだ、舌噛むぞ! 死なせるな!」
誰かが言った直後、ミハルの口に布が押し込められる。その異物感にミハルはさらに暴れて爪を立てた。
身体中をどす黒い恐怖が包み、ミハルの視界にはこちらを押さえつける男たちと、その背後の木々の間に浮かぶ下弦の月が映っている。
「吐き出させるしかない! 全部だ!」
「えっ⁈ 全部⁈」
「黒いやつを飲んだらそうするしかない! 死ぬ前にやらないと、証拠品を失うぞ!」
「おい、頼む!」
後方にいた一人の男がミハルに歩み寄り膝をついた。手のひらを、押さえつけられたままぶるぶると体を震わすミハルの胸元に当てる。その手元が白く光を放った瞬間、ミハルの中をまた別の苦痛が駆け巡った。
無理やり体の中を掴まれ搾り出されるような感覚に、ミハルは背筋をのけぞらせた。
「おぇ、おぇぇぇ」
その様子に、押さえつけていた男は手を緩める。
ミハルは仰向けていた体を返し、その手を地面についた。喉奥から異物感と共に、押し込められた布地を吐き出すと追蹤玉がこぼれ落ちる。様々な色が混ざり合っていた。
背後からまた体を抱えられ、さらに追い打ちをかけるように胸元に手を当てられる。
「全部出させろ!」
その言葉と同時に、また胸元に当てられた手元が光った。
ミハルの中からこぼれ落ちていく。もう体を動かす力すら残っていないというのに、臓器の収縮に無理やり体がのけぞっていく。また吐き出した。ミハルの中から無くなっていく。
「サラ……」
可愛いサラ。幼いサラ。自分とそっくりな瞳が、笑顔でミハルを見上げて、そしてそれが霞んで遠のいて行った。
そしてまた、ミハルは吐き出した。
「ヒリス……」
同じ街で家族を失ったヒリス。背伸びして振る舞っているけど、本当は甘えたがりなのを隠している。戦火の夜に一緒に涙を流し、握り返してくれた手の温もりが少しずつ冷えて、また消えていく。
ミハルの体はほとんど力を失っていた。朦朧とする意識の中、その瞳が焦点の合わないまま中空を見上げている。
「ライニール」
口に出せたのかどうか、定かではなかった。
大きくて、不器用で、優しい狼の姿が、ミハルの中から遠ざかっていく。
あの夜に貰った言葉を失いたくないとミハルは手を伸ばした。しかし、それは何にも届かずに、ただ中空を掻く。
「ごめん、ごめんね……」
--ライニール、愛してる
ミハルの記憶はそこで途絶えた。
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