烙印と勲章

第16話

 小さなベッドで力尽き、身を寄せあって眠った朝に、ミハルはライニールの胸元に抱え込まれたまま目を覚ました。

 二人してベットの中で微睡みながら眠りと覚醒を何度か繰り返し、やっと起き上がった時にはもう昼時を過ぎていた。

 日は一番高く登りきって、すでに沈む方向へと向かっている。

 昼食というにも夕食というにも中途半端な時間だったため、ミハルは買ってもらったばかりのレシピを頼りに、少し古くなった林檎でアップルパイを焼いた。

「今思えばライニール様のナニのデカさにも驚きましたが、何よりそれを受け入れた自分の尻のポテンシャルに驚いています」

「だからてめえは恥じらいとかそういうのねぇのか!」

 そんな会話を交わしながら、ミハルがテーブルに置いた木製のプレートの上で、丸く焼いたパイを切り分けていくと、そのそばからライニールが手づかみで齧り付いていく。

 ライニールの口では一ピース二口ほどで食べ切ってしまうので、ミハルは慌てて自分の皿に二ピースほどを確保した。

 ライニールの前のティーカップに蒸らしていた紅茶を注ぎ、温めたミルクを足した。それもライニールは注ぎ終わったそばから口に運んでいく。よっぽどお腹が空いていて、喉も乾いていたのだろう。

「おい」

 ライニールは油で汚れた指をぺろりと舐めながら、向かいに座ってフォークを握るミハルに声をかけてきた。

「昨日のは吐き出せ」

「ふぁい? どふしてでふか」

 問い返したミハルの頬は、アップルパイで膨らんでいる。

「そのために貰った慈悲だろ」

 ミハルが魔女にもらった慈悲。そのひとつが苦痛や恐怖を追蹤玉にして吐き出すことができる力だ。

 昨日自身の身に起こったことから察するに、罪人として押されたΩの烙印は、本人の意思とは関係なく性的に疼く体でαを求めてしまうという物だったようだ。

 烙印を押されるとαからは逃げられないというのは、一人では疼く体を鎮めるのが困難だからで、それを利用され、虐待のような扱いを受ける烙印持ちもいるのだろう。だからきっと魔女は食物連鎖の下位にいるような獣人には時折慈悲を与えるのだ。

 そうまでして魔女がαの勲章を与えた者ににΩをあてがうのは、それだけ勲章持ちの能力を重要視しているからなのだろう。

 戦いで負ってしまった精神的な負債をΩで好きに発散しろ、その代わり魔女のためのαであれと言うことだ。

「ライニール様は、俺が苦痛を感じているように見えましたか?」

 頬張っていたアップルパイを飲み込んで、ミハルは言った。

「恐怖を感じているように、見えましたか?」

 その問いに、ライニールは口元を窄めて眉間に皺を寄せた。ミハルが初めてみる表情だった。

「前にも言いましたけど、俺忘れたくないんです。できるだけ」

 ミハルはティーカップに手を伸ばした。持ち手をつまんで顔を寄せると、ダージリンの穏やかな香りの湯気が鼻先に触れた。

「お前は、正気じゃなかった。烙印なんて魔女の趣味の悪い施しだ」

 ライニールの言葉にミハルは静かに頷いた。ゆっくりとカップに口をつけて、紅茶を啜る。

「人によっては、そうですねきっと」

「だから、忘れろ」

「嫌ですよ」

「あ?」

 ライニールは目を細めた。その表情はミハルの次の言葉を待っているようだ。

「悪くなかったんで、嫌です。忘れるのは」

「チッ、酔狂なやつだ」

「そうですかね?」

 ライニールはフンと鼻を鳴らし眉間に皺を寄せたまま、アップルパイのなくなった皿に目を落とした。

「なかなかいい気分でしたよ。なんて言うか、ライニール様に愛されているみたいでした」

 ミハルはそう続けて栗色の瞳をはらんだ目を細めて、口角を穏やかに持ち上げた。

「……チッ、クソが」

 ライニールはゴクリと喉を鳴らして呟きながら、皿の上で視線を泳がせていた。


 ◇


 古城のあるウェル国の西の外れのこの場所は、春から秋まで穏やかに季節が過ぎていく。しかし、冬の季節だけは森の木々まで深い眠りにつくほどに冷え、雪が周囲を覆い尽くすのだそうだ。この部屋の暖炉はその頃に灯る。

 ミハルがここに来て少しの時間が流れた。冬を迎えるのはまだ先だが、森の木々は深緑から徐々にうっすらと紅く色づき始めていた。

 城は相変わらず陰鬱な雰囲気をはらんでいるし、ライニールも引き籠ったままだったが、それでもミハルはここに来た頃よりも随分と暮らしに慣れていた。

 しかし相変わらず外に出ることは許されないままだ。街に行ったのもあの一度きりで、今はかろうじて城の周囲を散歩する程度が許されている。そのためミハルにとっての世界はこの城と、引き篭もりの狼獣人のライニールただ一人だけだった。


 ライニールが中空を見つめ鼻を僅かに動かすあの仕草をしたのは朝食を終えてすぐのことだった。ミハルはそれをみて、客の来訪を知る。

 前回ヒリスが来てから十日ほどが経ったらしい。相変わらずライニールはミハルをヒリスに会わせるつもりはないようで、ミハルもそれを承知していた。

 ライニールは席を立ち、玄関の方へと向かう。

 ミハルがテーブルの上の空いた皿を集めていると、向こうのほうでノッカーを鳴らす音がした。

 ライニールがいつものように扉を開けている。ミハルは暖炉の部屋の戸の前に足音を立てないように歩み寄り、そっと扉の隙間からその様子を覗き込んだ。

「やあ、ライニール、いつものやつ持ってきたよ」

 そう言いながら、ヒリスは木箱を重たそうに玄関内に運び込んだ。

 ミハルはヒリスの姿をあの物置の窓越しに遠くからみたことがあっだが、顔つきがわかるほどの距離で見るのは今が初めてだ。

 ヒリスは獣人ではなく人間だ。

 獣人の要素は遺伝する。つまり、ヒリスはライニールの血縁者ではないと言うことだろう。

 ヒリスは男性にしては少し高めの声から想像できる通り、ブラウンの瞳に目鼻立ちの整った中性的な顔立ちをしていた。その表情は向かい合ったライニールとの対比で、いっそう穏やかな笑顔に見える。

「次はこれも頼む」

 ライニールは手にしていたメモ書きをヒリスに手渡した。ヒリスはそれを受け取り目を落とす。内容を読んだ後で顔を上げ、何か意味ありげに少し眉を下げて笑った。

「ライニール、最近料理にでもめざめたの?」

「あ?」

「ほら、手を加えないと食べられない食材を欲しがることが増えたから。前は切って焼けば食えるやつにしてくれ、なんて言ってたのに」

「まあ、そうだな。そういう気分なだけだ」

 ライニールは視線を床に滑らせながら、後頭部を右手でかいた。

 ヒリスは「ふうん」といいながら、受け取ったメモ書きを上着のポケットにしまっている。

「そういえば、ネズミはどうしたの?」

「あ?」

「でるっていってたじゃん、まだいるなら今度罠でも持ってこようか?」

「いや、もういい」

 ヒリスはライニールの様子が変わったことを何か訝しんでいるようだった。ヒリスの視線がその手がかりを探すかのように動き、ミハルは戸の隙間から少しだけ体を離して身をかがめた。

「誰だ!」

 ライニールの声がした。

 覗いていたのがバレたのかと、ミハルは驚き肩を揺らしたが、そうではなかったらしい。玄関先からもう一人、別の人物の声がする。

「やあ、どうもどうも! お久しぶりです英雄ライニール様! 調子はどうです?」

 その軽薄な口ぶりと声にミハルは覚えがあった。また戸の隙間からのぞくと、思った通りそこにはレネの姿がある。

 レネは魔女の遣いの末端で、ミハルをこの城に連れてきた男だ。

 ちなみに、ミハルは記憶を奪われ目覚めてから暫くレネと行動を共にしていたせいで、その喋り方が少し彼に影響されてしまったようだと、自分でも気がついていた。

「ライニール、どちら様?」

 黙ったままレネに視線を落としていたライニールにヒリスが尋ねる。

「ああ、どうもこんにちは。私はレネと申します。先日こちらに罪人の……」

「何の用だ」

 レネの言葉を遮るように、ライニールは少し強い語気で言った。

 レネはそれで何かを察したようだ。チラリとヒリスに視線を向けた後で、ライニールを見上げると「へへっ」と喉を震わすような声で愛想笑いを浮かべた。そして無意識なのか、胸元に上げた手の指を擦り合わせる仕草をしている。

「えぇっと、様子を見に来たのと、あと魔女からの司令をお預かりしています」

「司令?」

 問いかけたのはヒリスだ。ライニールはヒリスに向き直った。

「ヒリス、今日はもう帰ってくれないか」

「え、でも。ライニール、魔女の司令ってことは……それに、さっき罪人って言わなかった?」

「ヒリス」

 これ以上問うなと、ライニールはヒリスの名を呼び言葉を止めた。

 ヒリスは口元を結び、言葉を飲み込むように喉を上下させてから静かに頷いた。そしてまたベルベットの黒い袋をライニールに手渡すと「じゃあ、また来る」とだけ言い残し、扉の外へと出ていった。

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