第8話


 日が暮れる頃、ミハルは調理場にいた。

 九日前にあの客人が置いて行った食料の入った木箱を覗く。

 あの時はかなりの量だと驚いたが、ライニールの普段の食事の量はそれを凌駕していたようで、食材は残りわずかだった。

 ミハルもこの食材の中から食べ物を頂戴していたわけだが、その量はライニールの半分の半分ほどだ。おそらく毎回数日ほどで、ライニールはこの量の食材を食べ切っていたのだろう。

 あの客人は定期的に食材を運んでくれているような口ぶりだったが、はたして次はいつ来てくれるのだろうかと、ミハルは腕組みしながら中身の寂しい木箱を見下ろした。

 すると不意に城の裏手に続く勝手口の外でガタリと物音がした。

 風の音にしては大きい。ミハルは頸に手をやってから、ゆっくりと戸に歩み寄る。

 脇の小窓から外を覗いたが、すでに薄暗く灯りをつけた室内が反射してよく見えない。ミハルは恐る恐るドアノブに手をかけ、ゆっくりとその戸を押した。蝶番が音を鳴らし、隙間から暮れた外の景色が見える。ミハルはゆっくりと一歩体を前に出し、その隙間を覗き込んだ。

 それとほぼ同時に、ノブを握っていた戸が強い力で開かれた。外にいた誰かが戸を引いたのだ。その反動でミハルは前につんのめり、危うくバランスを崩して倒れ込むところだった。しかし、その前にミハルの体は扉の外にいた人物に当たり、無意識にその衣服を掴んだ。

 黒いマントに身を包む姿はもう少し夜が深ければ暗闇に紛れてしまいそうだ。ミハルが体を預けてもびくともしなかった大きな体躯のその男は、この城の主、ライニールだった。

「ライニール様、おかえりな……ひぃっ!」

 ミハルは息を飲んだ。

 肩に銃を掛けたライニール。その右手と袖口が真っ赤な血で染まっている。左手に持った肉塊から血が僅かに滴るのを横目で捉え、ミハルは後方へ仰け反り目を逸らした。

「あっ……そ、それはっ……お、おぇぇぇ……」

「クソが、吐くなっ!」

 そう言ってライニールは血のついた右手でミハルの顎を掴むようにその口元を抑えた。その手はミハルの顔を覆い隠してしまいそうなほど大きい。

「食材だ。捌いてきた。焼け」

 口を塞がれたまま、ミハルはまた喉奥に恐怖を押し戻し、こくこくと頷いた。

 ライニールはミハルを掴んでいた手を退けると、左手に持っていた肉塊をミハルの胸元に容赦なく投げ渡す。

 ミハルの血のついた手で掴まれた顔も、肉塊を投げつけられたシャツも血塗れだった。

「あの、これは何の肉で……」

「うるせぇ、焼け」

「はっ……はいっ……あ、あれっ?」

「あ?」

「二つあります。どっちも今夜焼きますか? 一つは干します?」

「あ?」

「え?」

「チッ……どっちも焼け」


 ◇


 どうやらライニールは食料が尽きそうになると、こうして狩りに出ていたらしい。城から一歩も外に出ない完全な引き篭もりというわけではないようだ。

 ミハルはその肉をガーリックと粉チーズ、そして香草や玉ねぎと一緒にオリーブオイルで表面をカリッと焼き上げた。ライニールは野菜はいらねぇと言っているが、肉と一緒に濃い味で調理すれば文句を言わずに全て食べた。

 ミハルとしてはもう少し野菜をとった方がいいのではないのかとも思っているが、これまで一人で肉ばかり食べてもあの図体に育ったのだから、野菜を取らなくても平気な体質なのだろう。一応付け合わせにマッシュポテトを添えて、大きな皿を両手で抱えて部屋に入るとライニールは既に着替えてあの丸テーブルについていた。

 ライニールはガーリックの香ばしい香りに鼻をすんすんひくつかせ、ミハルの気配に顔を上げる。大きな皿に乗った肉を見ると、その手はテーブルの上に置いてあったワインボトルとオープナーへと伸びていった。

「あ、ライニール様! ちょっとだけお待ちを!」

「あ?」

 ミハルはライニールの前に料理の乗った皿を置いた。

 ミハルが待てと言わんばかりに、その手をかざすと本当に言われた通りに動きを止めたライニールは、この時ばかりは狼というより大型犬のようにも見える。

 ミハルはその犬を残して、一度調理場に戻るとそれを持ってまた部屋に戻った。

「あ?」

 ミハルが手にしたものを見て、ライニールは眉を上げた。それは一本のワインボトルだ。

「立派なワインセラーがあるんですねぇ? 掃除してたら、みつけましたよこれ」

 それは最初にこの城で作ったシチューにミハルがたっぷりと入れた銘柄のワインだ。あの時ライニールは勝手にワインを使い切ってしまったことに怒り狂っていた。

「お好きな銘柄なんでしょう? お飲みになります?」

「……チッ、開けろ」

「はいはい」

 ミハルはオープナーを手に取って、コルクの先端に捩じ込んだ。しかし、ワインなど飲み慣れないせいでうまくそれを引き上げられずに手こずってしまう。

「クソが、かせ」

 ライニールは乱暴にミハルの手からボトルを奪うと、最も簡単にコルクを引き上げた。空気を弾く小気味のいい音が鳴り、熟成した葡萄の香りがミハルの鼻先まで届いた気がした。

 せめて注ごうと、ミハルはライニールの手にしたボトルに手を伸ばすが、ライニールはそんなミハルの行動を無視して、自らワイングラスになみなみとワインを注いでいる。

「おい」

「はい?」

「皿を持って来い」

「え? 皿? 皿でワイン飲むんです?」

「うるせぇな、持って来い」

「はいはい」

 ミハルはまた調理場に戻り、ワインを注ぐこともできそうなちょっと深さのある皿を手に取り部屋に戻る。そしてテーブルの上にその皿を並べると、ライニールはナイフとフォークを手にして大皿の上の肉を切った。

「座れ」

「はい?」

「座れっつってんだろ。テメェは毎回聞き返すな。うぜぇ」

「はいはい」

 丸テーブルの横にはもう一脚、使われていないような椅子がある。その座面に置かれていた本を床に退け、ミハルはそこに腰をおろした。

 ライニールは切り分けた肉をミハルのもってきた皿の上に乗せている。ミハルはまさか、と思ったがライニールはその取り分けた皿をミハルの前に置いた。

「食え」

「え? あ、は、はい」

 肉は少々乱暴に切り分けられて、ぶすりとフォークが刺さっている。

 ミハルはナイフを貸してくれとも言えず、そのフォークを持ち上げ肉に齧り付いた。香ばしいガーリックと香草の爽やかな香りが口に広がる。

「これは?」

 ライニールはナイフの上にマッシュポテトを掬ってミハルに問う。ミハルは肉を口いっぱいに含んだまま、こくこくと頷いた。

 それを見て、ライニールはマッシュポテトをミハルの皿にペチリと置いた。食えと言うことらしい。

 肉を咀嚼するミハルを見たライニールは何の感情も読み取れない表情のまま、自分はナイフを肉に突き刺し、そのまま齧り付いている。

「行儀が悪いですね」

「あ?」

「でも、美味しいです」

 やっと口に含んだ一口がなくなり、ミハルはもう一度フォークで刺した肉に齧り付いた。また入れすぎた。しかし口内いっぱいに食べ物を含むのはなかなか幸福感がある。

「おまえ、その服どうにかしろよ、汚ねぇ」

 ライニールはそう言って肉を咀嚼しながら、それをガブガブ飲んだワインで流し混んだ。

 ミハルはライニールに言われて、改めて自分のシャツを見下ろし裾を引っ張った。

「拭いたんですけどね、落ちませんでしたね」

 さっきライニールにつけられた血のシミだ。

「それだけじゃねぇ、おまえ、いっつもなんか小汚ねえんだよ」

「仕方ないじゃないですか、シャツ二枚しかないんですよ。あ、でもこれライニール様に汚されてしまったので、一枚だけになってしまいましたね?」

「あ?」

「ところで、ライニール様。罪人を受け入れたと言うことは、少なからず貰っているはずですよね?」

「あ?」

 ライニールが聞き返すので、ミハルは右手の人差し指と親指の先端をくっつけ円をつくるとそれを上向けて見せた。

「おまえを置いてやってることで受ける苦痛に対する慰謝料みたいなもんだ」

「その慰謝料で俺の服買ってくださいよ」

「あ?」

「何でもありません。マッシュポテト美味しいです? ライニール様のお嫌いな野菜ですけど」

「別に嫌いじゃねぇよ」

「サラダ食べないじゃないですか」

「苦いやつが好きじゃないだけだ。ポテトは食える」

「そうですか、ポテトは食えますか」

「おい」

「はい?」

「なんで笑ってんだよ」

「え? あ、いえいえ、決してでかい図体のくせに子供のようだと思ったわけではなくて」

「殺すぞ、クソ兎」

「ご冗談を」

 ライニールは不味いも美味いも言わない。しかし、毎回出されたものは全て食べるのだ。今夜もライニールの皿の上は何も残らず綺麗になっていた。さらには、ミハルが取り分けられた肉を食べきれず四苦八苦していると、ライニールはミハルの皿にナイフを伸ばし、その残りの肉さえも全て平らげた。

「美味しかったですね。テーブルで食事を取ったのは初めてです」

「あ?」

 ライニールはまた並々と注いだワイングラスに口をつけながら眉根を寄せた。

「あ、罪人になってから初めてと言う意味です。前はあったのかもしれませんが、覚えてなくて。ほら、取られちゃうでしょ? 記憶」

「……ああ」

「ライニール様のことは怖いのであんまり好きじゃないですけど、それでも一緒に食べるってのは良いもんですね。片付けもすぐに済みますし」

「お前はよく喋る上に、ずけずけとものを言うな」

 ミハルはまた「うるせぇ、クソ兎」と罵られるかと思ったが、ライニールは意外にも、ふっと鼻から息を漏らし、僅かに口角を上げた。驚いたミハルは彼の表情を凝視したが、ライニールはそんなミハルには気が付いていないようだった。

「酔ってます?」

「あ?」

 ライニールの脇にあるボトルは一本空いて、2本目まで到達していた。

 心なしか薄暗い室内に灯った僅かな光に照らされたライニールの顔は、いつもよりほんの少しだけ血色良く色づいている。

「これくらいじゃ酔わねぇよ」

「そうですか」

「酔わねぇが、まぁ、少しだけ気分がいい」

「美味かったですからね、俺の作った香草焼き」

「俺が狩った肉だ」

「はいはい」

 ライニールはまたガブガブとグラスを傾け、飲み切った。それをテーブルに置いて口元を拭っている。

「美味かったか、肉」

「え? あ、はい。柔らかくて美味しかったです」

「何の肉だと思う?」

「ニワトリとはちょっと違う感じでしたので、鴨? とかですかね」

「トリじゃねぇよ」

「え、じゃあいったい……」

 ミハルが言うと、ライニールは右側の口角だけをグイッと持ち上げた。どうやら笑っているようだが、眉が持ち上がらず低い位置にあるせいで、ミハルはその表情にあまり良い印象は抱かなかった。

「兎だ」

 ライニールの言葉にミハルは瞬く。空になった皿に目を落とし肉を飲み込んだ口元を抑え絶句した。

「なんつぅ顔してんだ。じょうだ……」

「お、おぇぇぇ……」

「おい」

 ミハルは椅子から崩れ落ち、腹を抑えて床に手をついた。その口はだらしなく開き、また粘性のある唾液が糸を引き床に落ちていく。

 吐き出したいのが苦痛なのか、先ほど食べた物なのか、それともその両方なのか、ぐらぐらと揺れ動く意識の中にいるミハルに判断することはできなかった。

「おい、クソ兎! 吐くな、冗談だっつってんだろ」

 視界の隅に歩み寄りミハルの傍に膝をついた大きな体が見えた気がしたが、その声はミハルには届かない。

 腹の奥底が締まる感覚と臓器が収縮する感覚、その後で呼吸が詰まり、喉奥から込み上げたものをようやくミハルは床の上に吐き出した。

 コロコロと硬く小さな物が床に当たって転がる音を聞いた後、その青く丸い形を歪んだ視界でかろうじて捉え、ミハルはその場に崩れ落ちた。


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