第17話 雷獣疾風

 退魔局魅雲支局ビルの二十階――最上階の廊下に気忙しい足音が響いた。革靴の底がリノリウムの床を踏み砕かんばかりに踏みつけ、一つ目小僧と座敷童のハーフである美原春子は、思わず大人の姿に変化するのも手間だとばかりに童女の姿で支局長室をノックする。


「入れ」


 久留米の野太い声がした。声色は、低く、硬い。

 美原は無礼を承知でドアノブに飛びついて開け、中に入った。


「支局長、至急会議室に。緊急を要する案件です」

「わかっている。たった今警ら隊の報告に目を通したところだ。急ぐぞ」


 久留米はキュッとネクタイを締め、歩幅が違いすぎる美原を小脇に抱えて歩き出した。

 そうして十四階の第一会議室に入り、揃った面々を見渡す。

 各部署のトップと、村の顔役たちが揃っていた。久留米が入ってくるなり、彼らは一糸乱れぬタイミングで立ち上がり、左胸に右拳を当てる退魔師流の敬礼を行う。


「直れ。座ってくれ。集まってくれて感謝する。積もる話もあるが、警ら隊長、まずは君から報告を」

「はっ」


 立ち上がったのは、千疋狼せんびきおおかみという種族の妖怪だった。リヘンオオカミ系の妖怪であり、警ら隊をまとめ上げる若い男であるが、実年齢は五百を超える。五尾に違わぬ妖力と信頼を持ち、退魔局発足以前から独自に部下を率い、村の安全を担う自警団を取りまとめていた男だ。


「第四隊が村の最北西、霊山山麓の道祖神……祖龍像が破損しているのを確認しました。現地で調査を行い、付着していた苔に不自然な血痕を確認し組織サンプルを回収。即座に解析に回しました。血痕のDNAパターンは、稲尾椿姫二等退魔師と一致。周囲の残滓濃度、瘴気濃度は四度まで低下していましたが、それでもこれは……邪龍の上澄みが発生したものと断定していい数値だと、科学調査部から報告が上がりました」


 周囲がどよめく。美原が咳払いすると、しんと静まり返った。


「ご苦労。座ってくれ。……邪龍ヤオロズ。その忌まわしい名は、忘れたくても忘れられるものではないだろう。人間の私でさえ底冷えする名だ。妖怪であれば、なおのことだろう」


 貞観八年――西暦八六六年、平安時代。

 その七月六日のこと、裡辺の空が赤黒く染まった。現れたのは魍魎の王、邪龍ヤオロズ。

 五千の将兵と一千の術師が挑み、敗れた。数万の命を喰らい尽くし、最終的にこの魅雲の地で稲尾柊、稲尾善三、そして狭真という異界の半神がヤオロズを食い止め、封印したという。

 ヤオロズは、この魅雲の土地に封じられているのである。その上澄みが、わずかとはいえ溢れたのだ。

 これは、村の存続――いや、日本の存続に関わる問題である。


「内閣総理大臣から、現場指揮を任されたことは先ほど確認した。もっとも妖怪がらみの問題は我ら退魔局が行うより他ないが、――諸君、しばらく家には帰れないものと思ってくれ。申し訳ないが、不眠不休で働いてもらうことになる」


 その言葉に不平不満を漏らすような者はどこにもいない。

 久留米は満足げに頷き、


「この一件に関わる呪術師を洗い出す。勾留中の呪術師への尋問も行え。司法取引にも応じる構えを見せろ。それから村に来た観光客をリストアップしてくれ。その上で警察と連携して経歴を洗い出すんだ。警ら隊の面々は村の警備を強化。偵察隊を各方面に出して、敵の拠点と思われる地点をマークしろ。いいか、この仕事に失敗は許されんぞ」


 己に言い聞かせるようにして、久留米は言った。集まった面々は力強く頷き、そしてその日から退魔局は戦場のような様相を呈するのだった。


×


 九月十日の火曜日。六限目の体育は、長距離走だった。大半の生徒が「一日の終わりにマラソンかよ」という顔をしていたが、体力に優れる妖怪にとってはあまり嫌がる授業ではない。数少ない人間の生徒である雄途はわかりやすくうんざりしていたが、燈真は頭を使うよりはマシだな、と開き直っていた。

 走るコースは、生徒たちからはお墓参りと言われている。

 高校を出て西に進み、霊園手前の枝垂れ桜のところで引き返すルートであるためそう言われている。

 かの柳田國男は枝垂れ桜には霊的な力が宿るという持論を持っていたそうだが、それは後世妖怪によって事実だと明かされた。ひょっとしたら、妖怪が柳田國男に接触してそのような話をしたのかもしれない。

 何はともあれ神聖な枝垂れ桜を折り返し地点に、生徒たちは学校へ戻ってくるというルートを取るのが開校以来ずっと続いていた。


「ひぃ、ふぅ……」


 雄途は、折り返しのずっと前からそんな調子で息が上がっていた。

 彼は少しぽっちゃり気味の体型であり、運動が苦手なのだ。決して肥満というほど肥っているわけではないが、平均体重よりわずかに重く、ちょっとふっくらした印象がある。お世辞にも運動好きとは思いにくい外見なのは、事実だった。


「もうちょいで桜だぜ。ペース落とすか?」


 光希が問いかけると、雄途は首を横に振った。強がりなのは確かだが、しかしその意気に水を差す真似は、光希も燈真もしなかった。

 フォームをしっかりさせていれば、意外と体力の消耗は少ない。運動は、そういうものである。疲れやすい、上手くいかないというのは往々にして基礎的なフォームができていないことに起因する。燈真はそれを、修行を始めてから強く実感していた。

 他の生徒たちはさっさと終わらせて一休みしたいらしく、ペースを上げてすでに折り返していた。燈真たちは別段急ぐ理由もないので、雄途のペースに合わせて走る。


「先、行っても、いいぞ……」


 雄途が、息も絶え絶えにそう言った。光希が「ダチ置いていけるかよ」となんでもないように言う。燈真も同感だった。一週間やそこらの付き合いだが、雄途は燈真とよく話してくれるし、気のいいやつだ。一緒に走るくらい、なんでもない。

 やがて枝垂れ桜が見えてきた。桜の花は散っており、というか、もはや緑もつかない老木だが枝は残っている。さながら、肉がこそげ落ちた骨のような佇まいで、神秘的でもあるが同時にどこか不気味な印象も漂っている。

 そこを折り返し、燈真たちは学校へ向かって走り出した。

 雄途は汗をタオルで拭い、足を動かす。決して歩こうとしないのは、彼なりの強い意地のように思えた。

 最後まで付き合って、共にゴールしようと燈真も無言でペースを合わせる。

 と、


「やべ、タオル落とした! お前ら先行け!」

「あ、おい……しゃあねえ、行こうぜ、雄途」


 こくりと雄途は頷き、ちらと光希を振り返ったが、すぐに前を見て走り出す。

 燈真は何か不穏なものを感じた。

 一瞬、妖気を感じたのだ。光希がそれに気づかなかったとは思えないし、偶然そのタイミングでタオルを落としたのも考えづらい。

 ここでとやかくいえば、雄途の不安を煽る。燈真と光希が退魔師なのは知っているが、あくまでも彼は一般人で、妖怪に比べずっと繊細な人間だ。巻き込むわけにはいかない。

 燈真は光希の安全を祈り、平静を装って走るのだった。


×


 昔から絵を描くのが好きだった。工作するのが好きだった。理由なんてない。好きだから好きなのだ。誰の指示でもなく、何のノルマもなく、自由に創作することが好きで好きで仕方なかった。

 姉も、そんな光希の作品を誉めてくれた。似顔絵をプレゼントした時、姉は普段むっつりと押し黙った顔に満面の笑顔を浮かべて、受け取ってくれた。

 だが実家が、そんな「遊び」を許すはずがなかった。


「お前には長男の自覚がたらん!」


 尾張家は愛知県は名古屋市に屋敷を構える雷獣一族の名門である。

 敏達天皇の御世、尾張国おわりこく阿育知郡あいちぐん片輪里かたわのさとのとある寺の付近に落雷があった。

 そのいかずちは雷神であり、農夫に杖で殺されそうになった際力強い子を授けるので見逃してほしいと懇願した。

 のちにその子供は奈良に渡るのだが、その血筋の雷獣こそが尾張一族の始祖であったとされた。

 歴史で言えば、稲尾の狐よりずっと古いのだ。


 けれども光希には心底どうでもいいことだった。一族が存続のためにしてきたことは、中には血生臭い殺し合いもあったことを知っている。実際父も、家督のために親殺しをし、兄や弟を謀殺してのし上がったような血濡れの男だ。恐れ忌み嫌いこそすれ、尊敬できる妖怪ではない。

 十五年前、光希は父と一際ひどい大喧嘩をした。

 八尾の雷獣である父は、力ずくで光希を従わせようとした。つまり、無理にでも嫁を取らせ、子を作らせようとしたのである。

 光希はそれに反発し、殺し合いにまでなった。

 それを止めに入ったのは母と姉で、光希は父の暴虐っぷりに呆れ返り、「こんな小汚ねえ血なんざ俺の代で潰えればいいんだよ!」と捨て台詞を吐き、家を飛び出した。


 野良妖怪は、血筋や家柄を羨むという。

 だが、思うにままならない、呪縛で飼い殺され夢も満足に見れないような家など、光希は呪うことはあっても誇ることなどなかった。

 俺はただ、芸術家として清貧に甘んずる暮らしをしていればそれで満足なんだ。

 半端な力も、退魔師の才能もいらなかった。ただ、自由が欲しいだけだ。


 皮肉にも、退魔師になることがその自由への一歩だっただけだ。でなければ自分は、今頃安月給で働きながら、黙々と作品作りをして、実家からの連れ戻しに怯える日々を送っていただろう――。


 妖気を辿っていくと、廃れた自動販売店が建っていた。

 こんなところに店を構えるなんて、と思ったが、今と昔では村の立地も異なっていたのかもしれない。ときどき、そのような痕跡が見受けられ、不釣り合いな場所にビルやホテル、工場なんかの廃墟が見られる。

 光希はジャージの内側に貼り付けていた式符を起動し、戦衣いくさごろもに衣替えする。

 山吹色と黒色の、いわゆる警戒色のツートンカラーのパーカーになった彼は、左手に髭削ぎを逆手に構えた。


「誘いに乗ってやったぜ。出てこいよ」


 光希はガレージに踏み込んだ。妖気が散漫に散っており、出所を特定できない。

 と、微かに風の流れが変わった。

 光希はバック転でその場を退き、風の斬撃を回避する。コンクリートの地面が削れ、堆積した埃が舞い上がった。

 差し込む陽光がチンダル現象を起こし、埃がキラキラと舞う。


「誘ったのは、白髪頭の方だったが……まあいいさ」


 梁の上から降りてきたのは一人の女。

 両手にダガーを構え、焦茶色のショートヘアを揺らす。イタチのような尾が二本、揺れていた。


「私はクー。のうのうと甘い汁を啜るだけの貴様らに天誅を降しにきた」

「いいね。やってみろよ、腐れ呪術師風情が」


 両者の間に、明確な対立の火花が散った。

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