軍医:霜月真澄さん

## 第1章:魂の誕生


 暗闇の中で、誰かが泣いていた。


 霜月真澄は、医療テントの奥で横たわる若い兵士の顔を見つめていた。二十歳にも満たない少年は、腹部に深い裂傷を負い、今にも命が消えそうだった。


「ま、まだ……死にたくない……」


 かすれた声が、テントの中に響く。真澄は無言で手術用の器具を取り上げた。


「黙っていろ。話すと傷が広がる」


 その声は、まるで氷のように冷たかった。


 テントの外では、砲撃の音が遠くに鳴り響いている。この戦場で、もう何人の命を見送っただろう。真澄は数えるのをやめていた。


 彼女の手は的確に動く。メスが肉を切り裂き、針が血管を縫い合わせる。その動きには一切の迷いがない。まるで機械のように、感情を押し殺して。


「あ、痛い!」


「当たり前だ。生きているんだから痛いのは当然だろう」


 真澄の言葉は荒々しく、その態度は冷徹だった。しかし、その手は決して乱暴ではない。むしろ優しさに満ちていた。


 それは二十年前、彼女がまだ駆け出しの軍医だった頃から変わらない姿勢だった。


---


 真澄が軍医になることを決めたのは、あの日の出来事がきっかけだった。


 幼い頃の真澄は、山奥の寺で育った。父は住職で、母は尼僧だった。毎日、読経の声を聞きながら、彼女は仏の教えを学んでいった。


「真澄、命というものはね、輪廻の環の中で永遠に続いているんだよ」


 母の言葉を、真澄は今でも覚えている。


「でも、お母さん。みんな死ぬのが怖いって言うよ?」


「そうね。死ぬのは怖いことかもしれない。でも、それは次の命へ向かう一歩なの」


 母は真澄の頭を優しく撫でながら、ほほえんだ。


「命は、大きな海みたいなものよ。私たちはその海から生まれ、また海に戻っていく。だから、一つ一つの命は、みんな尊いの」


 その教えは、真澄の心に深く刻み込まれた。しかし、それは同時に彼女に大きな疑問を投げかけることにもなった。


 十歳の時、真澄は初めて人の死を目の当たりにした。村で暮らす弟のような存在だった少年が、病に倒れたのだ。


「お願い! 誰か助けて!」


 少年の母親が叫ぶ声が、今でも耳に残っている。しかし、山奥の村には医者がいなかった。祈ることしかできない。それが現実だった。


 少年は三日後に息を引き取った。


 その夜、真澄は母に尋ねた。


「どうして助けられなかったの? 命は尊いんでしょう?」


 母は黙って真澄を抱きしめた。


「そうね。命は尊い。だからこそ、守らなければならないの」


 その言葉が、真澄の人生を決定づけた。


「私は医者になる」


 真澄はそう宣言した。両親は最初、驚いた様子を見せた。山奥の寺の娘が医者になるなど、当時としては考えられないことだった。


「本当にそれでいいの?」


「はい。私は、命を守る人になりたいんです」


 父は長い間黙っていたが、やがてゆっくりとうなずいた。


「そうか。ならば、行きなさい」


 その日から、真澄の新しい人生が始まった。


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 医学校での日々は、想像以上に過酷だった。


 女性の医学生など珍しく、周囲の視線は冷ややかだった。しかし、真澄はそんな視線など気にしなかった。ただひたすらに、医学の道を突き進んだ。


「霜月さん、あなたの解剖の技術は素晴らしい」


 教授の言葉に、真澄は黙ってうなずいた。彼女の手の確かさは、誰もが認めるところだった。


 しかし、その一方で。


「霜月さんは冷たすぎる。患者への共感が足りない」


 そんな声も、よく耳にした。


 真澄は答えなかった。命を救うためには、感情に流されてはいけない。それが彼女の信念だった。


 そして、戦争が始まった。


 真澄は迷わず、軍医としての道を選んだ。最前線で、最も命が危険にさらされる場所で、自分の技術を活かしたいと考えたからだ。


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「……助かりますか?」


 現在の医療テントに戻る。若い兵士の声が、かすかに響く。


 真澄は黙々と縫合を続けながら、答えた。


「それは、お前の命の力次第だ」


「え?」


「私にできるのは、傷を縫い、出血を止めることだけだ。命を繋ぐかどうかは、お前自身が決めることだ」


 兵士は真澄の言葉に、わずかに目を見開いた。


「そうですか……」


「黙って、じっとしていろ」


 真澄の手が動き続ける。一針、また一針。命を繋ぐための作業が、静かに続いていく。


 テントの外では、また新たな砲撃の音が響いた。新たな傷付いた命が、この場所に運ばれてくるのだろう。


 真澄の心の中で、母の言葉が響く。


「命は海のようなもの」


 そう。だからこそ、一つ一つの命を大切にしなければならない。たとえそれが、戦場という地獄の中であっても。


 真澄の手は、決して止まることはなかった。


## 第2章:戦場の灯火


 夜が明けると、医療テントには新たな負傷者が運び込まれた。


「霜月先生! この兵士、至急の処置が必要です!」


 衛生兵の声に、真澄は即座に対応する。担架に横たわる兵士は、砲撃で右腕を失っていた。大量の出血で、顔は蒼白。


「止血帯はいつ施した?」


「約30分前です」


「血圧は?」


「80/50です。急激に低下しています」


 真澄は素早く状況を判断する。このままでは失血死は避けられない。即座に手術が必要だ。


「手術室を準備しろ。輸血も用意だ」


 真澄の声は冷静さを保っていた。しかし、その内側では激しい焦りが渦巻いていた。若すぎる。この兵士はまだ若すぎる。


 手術が始まる。真澄の手が的確に動く。壊死した組織を切除し、血管を結紮し、神経を修復する。その作業は、まるで舞うように美しかった。


「霜月先生、すごいです……」


 若い衛生兵が感嘆の声を上げる。


「黙って見てろ。手術中に余計な言葉を発するな」


 真澄の言葉は厳しい。しかし、その目は手術に集中したままだった。


 三時間後、手術は終わった。兵士の命は取り留めた。しかし、これで終わりではない。むしろ、始まりに過ぎない。


「これからが本当の戦いだ」


 真澄は疲れた表情で、そうつぶやいた。


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 その夜、真澄は自分の簡易ベッドで横になっていた。しかし、眠ることはできない。


 目を閉じると、これまでに見てきた無数の傷ついた命が、まぶたの裏に浮かび上がる。成功した手術も、失敗した手術も。救えた命も、救えなかった命も。


「ああ……」


 思わず、ため息が漏れる。


 ふと、真澄は胸ポケットから一冊の手帳を取り出した。それは、彼女が軍医になって以来、ずっと携帯している物だった。


 手帳には、一人一人の患者の名前が記されている。生きた者も、死んだ者も、すべてがそこに刻まれていた。


 ページをめくると、最新の患者の名前が目に入る。


「神崎竜二。18歳……」


 真澄は静かにその名前を読み上げた。今日の手術で命を救った兵士の名前だ。


「まだ子供じゃないか……」


 思わず、その言葉が漏れる。しかし、すぐに真澄は首を振った。


 この戦場に来る前から、彼女は決意していた。感情に流されてはいけない。それが、命を救う者の責務だと。


 しかし、時として。


「お母さん……私は、正しいことをしているのでしょうか?」


 真澄は暗闇の中で、そっとつぶやいた。


 返事はない。あるはずもない。しかし、真澄の心の中で、母の言葉が響く。


「命は、大きな海のようなもの」


 そう。だからこそ、一つ一つの命に向き合わなければならない。


 真澄は静かに手帳を閉じた。明日も、新たな命との戦いが始まる。


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 翌朝、真澄は早くから回診を始めた。


「神崎君、調子はどうだ?」


 昨日手術をした兵士は、まだ意識が朦朧としている様子だった。しかし、バイタルは安定していた。


「先生……私の腕は……」


 神崎は不安そうな表情を浮かべた。


「失った物は戻らない。それが現実だ」


 真澄の言葉は容赦なかった。


「で、でも……」


「しかし、お前は生きている。それが重要なんだ」


 真澄はそう言いながら、神崎の包帯を交換し始めた。その手つきは、昨日の手術の時とは違い、驚くほど優しかった。


「痛いか?」


「い、いえ……先生の手、とても優しいです」


 神崎は少し驚いたような表情を浮かべた。


「当たり前だ。傷口は優しく扱わなければならない」


 真澄は淡々と答えた。しかし、その声には微かな温もりが感じられた。


 その時、突然の爆発音が響いた。地面が揺れ、医療テントの中が騒然となる。


「敵の攻撃です! この区域に砲撃が……」


 衛生兵の声が響く前に、真澄は即座に行動を開始していた。


「重症患者を地下壕へ! 移動できる者は自力で避難!」


 真澄の声が響く。その声には迷いがない。


「先生、私は……」


 神崎が不安そうに呟く。


「心配するな。私が必ず守る」


 真澄はそう言って、神崎のベッドを押し始めた。


 砲撃は続く。しかし、真澄の動きは止まらない。一人、また一人と、患者たちを安全な場所へと移動させていく。


 その姿は、まさに「鬼軍医」の異名にふさわしかった。しかし、それは決して恐ろしい鬼ではない。命を守るための、慈悲深き鬼なのだ。


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 避難が終わった後、真澄は再び手帳を開いた。


 そこには新たな名前が加えられていた。今日も、命は続いていく。


 真澄は静かにペンを走らせる。


「生きているということは、奇跡なのかもしれない」


 そう書き記しながら、真澄は思った。


 この戦場で、彼女にできることは限られている。しかし、それでも。


「一つでも多くの命を。一つでも多くの灯火を」


幕間一:月光の手術室


 満月の光が、静かに手術室を照らしていた。

 霜月真澄は一人、使い古された手術道具を片付けていた。深夜、誰もいない手術室には、消毒薬の匂いだけが漂っている。


「もう、十年になるのか……」


 真澄は古びたメスを手に取った。その刃には、無数の命の重みが刻まれているように見える。

 十年前。彼女がまだ駆け出しの軍医だった頃の記憶が、月明かりの中で蘇る。

 最初の手術。震える手で握ったメス。先輩軍医の的確な指示。そして、かろうじて救った命。


「霜月さん、その手の震えは、命への畏れよ。決して悪いことじゃない」


 当時の看護師長、中原さくらの言葉が、今でも耳に残っている。

 さくらさんは、真澄にとって母親のような存在だった。厳しくも優しい指導。時には叱り、時には励まし、未熟な軍医を支え続けてくれた人。


「命は、必ずしも救えるとは限らない。でも、その悔しさを忘れちゃいけないよ」

 初めて患者を失った日。手術台の前で呆然と立ち尽くす真澄の肩を、さくらさんは優しく抱いてくれた。


「泣いていいのよ。今日だけは」


 その言葉に、真澄は初めて涙を見せた。

 しかし、それが最後だった。

 その一週間後、病院が空襲を受けた。さくらさんは、患者の避難誘導中に被弾。真澄の目の前で息を引き取った。


「先生……私の分まで……命を……」


 それが、さくらさんの最期の言葉だった。

 その日から、真澄は変わった。

 泣かなくなった。感情を表に出さなくなった。

 そして、患者に対しても厳しい態度を取るようになった。


「優しさは、時として人を殺す」


 真澄はそう信じるようになった。命を救うためには、時として非情にならなければならない。


「私は、鬼になる」


 月明かりの中で、真澄は古いメスを磨きながら、その日の決意を思い出していた。

 鬼となることで、人の心を守る。

 冷徹な態度の中に、深い慈悲を秘める。

 それが、さくらさんへの彼女なりの報いだった。

 時計が深夜を指す。

 真澄は静かに立ち上がり、月に向かって深く礼をした。


「さくらさん、見ていてください。私は、必ず命を守り続けます」


 その言葉は、誓いであり、祈りでもあった。


## 第3章:鬼となりて


 「鬼軍医」。


 その異名が真澄についたのは、ある日の出来事がきっかけだった。


 大規模な戦闘の後、医療テントには次々と負傷者が運び込まれていた。医療スタッフは疲労困憊。物資も底をつきかけていた。


「霜月先生! もう処置室が足りません!」


「簡易ベッドも残り僅かです!」


 混乱の声が飛び交う中、真澄は冷静に状況を判断していた。


「軽傷は後回しだ。重症を優先する」


 その声は氷のように冷たかった。


「でも、先生! 将校の方々が……」


「関係ない。今ここにいる命の重さに、階級の違いはない」


 真澄の目は鋭く光っていた。


 その時、一人の将校が怒鳴り込んでいた。


「何だと? 私の部下の治療を後回しにするというのか!」


 将校の声は威圧的だった。しかし、真澄は一歩も引かなかった。


「ええ、そうです。あなたの部下は軽傷。今、私の前には腹部を撃たれて命が危ない一般兵士がいる。どちらを先に治療すべきか、分かりますよね?」


「貴様!」


「おや? 医療判断に口を出すなら、あなたも医者になられたらいかがです?」


 真澄の言葉は皮肉に満ちていた。その態度は尊大で、まるで人を見下すような雰囲気があった。


 将校は真っ赤な顔で怒りを爆発させようとしたが、その時。


「うっ……痛い……」


 担架の上の兵士が呻き声を上げた。


「話している暇はありません。どいてください」


 真澄は将校を押しのけ、即座に処置を開始した。その手つきは正確で、一切の迷いがなかった。


 周囲で見ていた者たちは、その光景に息を呑んだ。


 その日から、「鬼軍医」という異名が広まっていった。


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「先生、また新しい患者です」


 若い衛生兵が声をかける。真澄は無言で頷いた。


 担架の上には、両足を失った兵士が横たわっていた。意識はあるものの、大量出血で顔色は青ざめている。


「私は……もう、戦えないんですよね……」


 兵士の声は震えていた。


 真澄は黙って診察を始めた。脈を確認し、瞳孔を見る。そして。


「ふん。情けない顔をするな」


「え?」


「足がないからって、命までなくなったわけじゃないだろう」


 真澄の声は厳しかった。


「でも……」


「黙れ。お前の命は、まだ終わっていない。これからが本当の戦いだ」


 真澄は手際よく包帯を巻きながら、続けた。


「生きることは、戦うことより遥かに難しい。それを、これから学ぶんだ」


 兵士は驚いたような表情を浮かべた。その目には、僅かな希望の光が宿っていた。


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 その夜、真澄は一人で書類を整理していた。


 医療記録。処方箋。死亡診断書。


 一枚一枚のペーパーワークの向こうに、無数の命が存在している。


「霜月先生」


 突然、声をかけられた。振り向くと、若い衛生兵が立っていた。


「なんだ?」


「あの……私、先生のことを尊敬しています」


 突然の告白に、真澄は手を止めた。


「何を言っているんだ?」


「先生は確かに厳しい。でも、その厳しさの中に、深い愛情があるんです」


 衛生兵は真剣な表情で言った。


「たわけ」


 真澄は短く言い放った。


「私は、ただ目の前の命を救っているだけだ。それ以上でも、以下でもない」


 しかし、衛生兵は諦めなかった。


「でも、先生が厳しく接するのは、患者さんに生きる意志を持ってほしいからですよね?」


 真澄は黙った。


 若い衛生兵は続けた。


「先生が『鬼軍医』と呼ばれているのは、命への執着が強すぎるからだと、私は思います」


 その言葉に、真澄は微かにため息をついた。


「帰れ。仕事の邪魔だ」


 しかし、その声には普段の厳しさがなかった。


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 翌朝、真澄は早くから回診を始めた。


 両足を失った兵士のベッドに近づくと、彼は弱々しく微笑んだ。


「先生……昨日は、ありがとうございました」


「何が?」


「私に、生きる希望をくれて」


 真澄は黙って診察を続けた。


「私、決めたんです。生きます。たとえ足がなくても、私にできることを見つけて生きていく」


 その言葉に、真澄は微かに目を細めた。


「ふん。当たり前だ」


 その返事は素っ気なかったが、その手つきは優しかった。


 そう。これが「鬼軍医」の本質なのだ。


 厳しさの中に隠された慈愛。冷徹さの奥に秘められた祈り。


 真澄は黙々と包帯を巻き続けた。その手の中に、無数の命が託されている。


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 その日の夕方、真澄は再び手帳を開いた。


「生きるということは、時として死ぬより難しい」


 そう書き記しながら、真澄は思った。


 自分は本当に「鬼」なのだろうか?


 いや、それは違う。


 彼女は命を救うために、自ら「鬼」を演じているのだ。


 その覚悟が、彼女を支えていた。


幕間二:祈りの刻


 古びた山寺の境内に、線香の香りが漂っていた。

 霜月真澄は、本堂の前で静かに手を合わせている。戦場から少し離れたこの寺は、彼女にとって心の安らぎの場所となっていた。


「よくいらしてくださいましたね、霜月先生」


 住職の澄明和尚が、静かに声をかけてきた。白髪交じりの髭をたくわえた老僧は、いつも穏やかな笑みを浮かべている。


「ご無沙汰しております」


 真澄は深々と頭を下げた。


「また、助けられない命がありました」


 その言葉に、和尚は静かにうなずいた。


「お茶でもいかがですか」


 本堂の縁側に腰を下ろし、二人は湯呑を手に取った。


「和尚様、医療と仏教は、似ているのでしょうか」


 真澄が突然、問いかけた。


「ほう? どうしてそう思われました?」

「どちらも、人の魂に向き合うものだと思うのです」


 和尚は微笑んだ。


「確かに。医は体を癒し、仏は心を癒す。しかし、そこに境界線はありません」


 真澄は黙って聞いていた。


「先日、母からの手紙が届きました」


 真澄はそっと懐から一通の手紙を取り出した。


「母は、もう長くないそうです」


 和尚は静かに目を閉じた。

 手紙には、母の最期の言葉が記されていた。


『真澄、あなたは立派な医者になりました。

 時々、村人から噂を聞きます。

 鬼のように厳しい軍医だと。

 でも、私は知っています。

 その厳しさの中に、深い慈悲があることを。

 私の教えた「命は海のようなもの」という言葉を、

 あなたは医療という形で実践してくれている。

 それが、この母の何よりの誇りです』


 読み終えると、真澄の目に涙が光った。


「先生」


 和尚が静かに言った。


「生かすことも、看取ることも、同じ慈悲の形なのです」


 その時、境内の隅で誰かが読経を始めた。


 若い僧侶の姿。よく見ると、片腕のない軍服姿だった。


「あれは、先月運ばれてきた兵士です」


 和尚が説明する。


「重傷で、もう戦場には戻れない。それで、ここで修行を始めたのです」


 読経の声が、静かに境内に響く。

 真澄は思った。

 命は、様々な形で続いていく。

 医療で救われる命もあれば、

 祈りによって救われる命もある。

 線香の煙が、夕暮れの空へとまっすぐに昇っていった。


## 第4章:命の重み


 真夏の陽射しが医療テントを照らしつける中、真澄は黙々と手術を続けていた。


 目の前の患者は、わずか十六歳の少年兵だった。急性虫垂炎を発症し、既に穿孔している。腹膜炎の危険が高い。


「バイタル、安定していません」


 看護師の声が響く。


「分かっている」


 真澄の声は低く、集中力に満ちていた。


 メスが動く。膿を排出し、壊死した組織を切除する。その作業は、まるで時間との戦いだった。


「先生、血圧が下がっています」


「輸液を増やせ。抗生剤も追加だ」


 真澄の指示は的確だった。しかし、その心の中では、ある思いが渦巻いていた。


 なぜ、こんな若い命が戦場にいるのか。


 しかし、そんな感情を表に出すことは許されない。今、彼女にできることは、ただ目の前の命を救うことだけだ。


 二時間後、手術は終わった。少年の命は取り留めた。


 真澄は疲れた表情で手術室を出た。そこには、少年の上官が待っていた。


「もう、戦えますか?」


 その質問に、真澄は氷のような視線を向けた。


「命があっただけでも奇跡です。一ヶ月は絶対安静が必要」


「しかし、我々には一人でも多くの……」


「命は代替できません」


 真澄は上官の言葉を遮った。


「もし無理をさせて死なせたら、その責任は私が取りますか? それとも、あなたが取りますか?」


 上官は言葉を失った。


 真澄は静かに続けた。


「私の仕事は、命を救うこと。それ以外のことは、あなた方にお任せします」


 その言葉には、揺るぎない意志が込められていた。


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 その夜、真澄は久しぶりに手紙を書いていた。


 宛先は、山奥の寺に住む両親。


「お父様、お母様


 私は元気です。相変わらず、多くの命と向き合う日々を送っています」


 ペンを走らせながら、真澄は思い出していた。


 医者になると決意した日のこと。両親の心配そうな表情。そして、父の最後の言葉。


「命を救うということは、その重みを背負うということだ」


 その言葉の意味を、真澄は今、深く理解していた。


 手紙を書き終えると、真澄は窓の外を見た。


 月明かりが、静かに戦場を照らしていた。


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 翌朝、真澄は少年の回診に向かった。


 少年は幸い、順調に回復していた。


「先生……ありがとうございます」


 少年の声は弱々しかったが、確かな生命力を感じさせた。


「礼を言うのは早い。これからが本当の戦いだ」


 真澄は普段通りの厳しい口調で言った。


「はい。でも、先生がいてくれて本当に良かった」


 その言葉に、真澄は微かに目を細めた。


 医療テントの外では、また新たな砲撃の音が響いていた。


 しかし、この瞬間、この命が助かったことは、確かな事実として存在している。


 真澄は静かに包帯を交換し始めた。


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 その日の午後、新たな負傷者が運び込まれてきた。


 大量出血。複数の銃創。致命的な状態だった。


 真澄は即座に行動を開始する。


 しかし、時として医療には限界がある。


 どれだけ必死に処置を施しても、その命は静かに消えていった。


「くっ……」


 真澄は歯を食いしばった。


 死を看取ることは、医者として避けられない現実だ。


 しかし、それは決して慣れることのない痛みでもある。


 真澄は静かに時刻を記録した。


 そして、その夜。


 真澄は再び手帳を開いた。


「今日も、一つの命が海に還っていった」


 そう書き記しながら、真澄は思った。


 命の重さは、決して軽くならない。


 むしろ、経験を重ねるほどに、その重みは増していく。


 それでも、だからこそ。


 真澄は明日も、命と向き合い続けることを決意した。


 それが、「鬼軍医」としての、そして一人の医者としての、彼女の使命なのだから。


幕間三:海からの手紙


 霜月真澄の机の上に、一束の手紙が置かれていた。

 差出人の欄には、見覚えのある名前が並んでいる。かつて彼女が執刀した患者たちからの便りだった。

 真澄は静かに一通目を開いた。


『霜月先生へ

 あの日、先生に救っていただいた命のおかげで、私は今、教師として生きています。

 生徒たちに、命の大切さを教えています。

 先生の厳しさが、今になって心に染みます。

                神崎竜二』


 次の手紙。


『鬼軍医様

 私の息子が生まれました。

 両足はありませんが、義足の研究者として、前を向いて生きています。

 先生に教えていただいた「生きる意味」を、今、実感しています。

                 山田一郎』


 手紙を読むたびに、一人一人の顔が蘇る。

 手術台の上で、必死に生きようとした彼らの姿。

 そして、ある一通の手紙に目が留まった。


『霜月先生

 私の息子、藤堂清明は、先生の手術台の上で息を引き取りました。

 しかし、最期まで懸命に治療してくださったことを、今でも感謝しています。

 息子の命は、確かに先生の中で生き続けているのだと信じています。

                 藤堂みどり』


 真澄の手が、わずかに震えた。

 初めて失った命。決して忘れることのできない患者。

 その時、若い衛生兵が部屋に駆け込んできた。


「霜月先生! 中西君が……中西君が戦死しました!」


 真澄の胸が凍る。

 中西。弟のような存在だった若い衛生兵。

 その命が、また一つ、海に還ってしまった。

 しかし、真澄は冷静さを保った。


「そうか……」


 彼女は静かに立ち上がり、窓の外を見た。

 夕陽が沈もうとしている。

 その赤い光の中で、真澄は思った。

 命は確かに、大きな海のようなもの。

 波のように寄せては返し、

 時に荒れ狂い、時に静かに凪ぐ。

 しかし、その海は決して枯れることがない。

 新しい命が、また生まれてくる。

 真澄は机に向かい、手帳を開いた。

 そこに、新たな言葉を記す。


「命は、人から人へと受け継がれていく。

 私たちは皆、その大きな環の中にいるのだ」


 夕陽は静かに沈み、

 新しい夜が始まろうとしていた。


## 第5章:輪廻の海


 霜月真澄が軍医として過ごした時間は、気がつけば二十年を超えていた。


 その間、彼女は無数の命と向き合ってきた。

 

 救えた命。救えなかった命。


 すべての記憶が、彼女の中に深く刻み込まれていた。


 五十歳を迎えた真澄は、今では後方の大きな軍事病院で働いている。若い頃のように前線に出ることは少なくなったが、その存在は依然として医療部隊の中で大きな影響力を持っていた。


「霜月先生、手術をお願いします」


 若い軍医が真澄に頭を下げる。


「どんな症例だ?」


「複雑性骨折です。血管も損傷しています」


 真澄は無言で手術室に向かった。


 その背中には、相変わらず威厳が漂っていた。


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 手術は長時間に及んだ。


 しかし、真澄の手は一切揺るがなかった。


 むしろ、年を重ねるごとに、その技術は磨きがかかっているように見えた。


「素晴らしい手術でした」


 若い軍医が感嘆の声を上げる。


「当たり前だ。二十年以上やっているんだからな」


 真澄の返事は相変わらず素っ気なかった。


 しかし、その声の中に、かすかな温もりが感じられた。


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 その夜、真澄は一人で診療記録を書いていた。


 ふと、デスクの引き出しから、古びた手帳を取り出す。


二十年分の記録が、その手帳には刻まれていた。


 ページをめくると、懐かしい名前が目に飛び込んでくる。


「神崎竜二……あの時の若い兵士か」


 真澄は静かに微笑んだ。彼は生還後、教師になったという話を聞いていた。


 次のページには、両足を失った兵士の名前。彼は今、義足の研究開発に携わっているらしい。


 そして、救えなかった命の名前も、たくさん並んでいる。


「結局、私は何人の命を救えたのだろう。そして、何人の命を救えなかったのだろう」


 真澄は静かにつぶやいた。


 その時、ノックの音が響いた。


「失礼します。霜月先生」


 入ってきたのは、若い女性の軍医だった。


「私、先生のような軍医になりたいんです」


 突然の告白に、真澄は眉をひそめた。


「私のような? 鬼のような医者になりたいというのか?」


「違います」


 若い軍医は真剣な表情で言った。


「先生は決して鬼なんかじゃない。先生は……命の守り人です」


 その言葉に、真澄は少し驚いた表情を見せた。


「面白いことを言うな」


「本当です。先生の手術を見て、私は確信しました。先生の中には、深い慈悲の心があるんです」


 真澄は黙って若い軍医を見つめた。


 そして、ふと母の言葉を思い出した。


「命は、大きな海のようなもの」


 真澄はゆっくりと立ち上がった。


「お前、名前は?」


「月見里かおるです」


「月見里か……。明日、私の手術を見学しろ。教えられることがあれば教えよう」


 かおるの目が輝いた。


「ありがとうございます!」


「ただし、甘くはないぞ」


「はい。覚悟はできています」


 真澄は密かに微笑んだ。


 自分が積み重ねてきた経験を、次の世代に伝えていく。それも、また命を守る一つの形なのかもしれない。


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 それから数ヶ月が過ぎた。


 真澄は相変わらず、厳しい指導を続けていた。


「なっていない! その程度の縫合で、患者の命が救えると思うのか!」


 手術室では、相変わらず真澄の怒鳴り声が響いていた。


 しかし、その陰で。


「よく頑張った。その調子だ」


 そんな言葉をかけることも、少しずつ増えていった。


 ある日、かおるが真澄に尋ねた。


「先生、なぜ軍医になったんですか?」


 真澄は少し考えてから答えた。


「命を守りたかったからだ。それ以外の理由はない」


「でも、軍医は、戦争という命を奪い合う場所にいるわけですよね?」


「そうだな。矛盾しているように見えるかもしれない」


 真澄は窓の外を見つめながら続けた。


「しかし、だからこそだ。戦場という、最も命が軽んじられる場所だからこそ、命の重さを知る者が必要なんだ」


 かおるは真剣な表情で聞いていた。


「先生の手帳、見せていただけませんか?」


 その質問に、真澄は少し驚いた表情を見せた。


 しかし、じきに静かにうなずいた。


「いいだろう」


 真澄は古びた手帳を取り出した。


 その中には、二十年分の記録。命との戦いの記録が、びっしりと書き込まれていた。


 かおるは一つ一つの名前を、真剣な表情で読んでいった。


「これが、先生の歩んできた道なんですね」


「ああ。私の誇りであり、懺悔の記録でもある」


 真澄はそう言って、ふと空を見上げた。


 そこには、夕暮れの空が広がっていた。


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 その年の冬、真澄は一つの決断をした。


「私は、山に帰ることにした」


 病院長に告げると、彼は驚いた表情を見せた。


「まだまだ現役で活躍できるのに、なぜ?」


「次の世代に、バトンを渡す時期だと思うんです」


 真澄はそう答えて、静かに微笑んだ。


 最後の日。


 真澄が病院を出ようとすると、大勢のスタッフが見送りに集まっていた。


「先生、ありがとうございました!」


「鬼軍医の教えは、決して忘れません!」


 真澄は少し困ったような表情を見せたが、しっかりと頭を下げた。


「私から教わることがあったとすれば、それは命の重さだ。それを忘れずに、これからも多くの命を救ってくれ」


 そう言って、真澄は歩き出した。


 その背中は、いつもと変わらず凛としていた。


---


 山寺に戻った真澄は、両親の墓前に手を合わせた。


「ただいま、お父様、お母様」


 静かに線香を上げながら、真澄は思い返していた。


 あの日、医者になると決意した時のこと。

 戦場で無数の命と向き合った日々のこと。

 そして、多くの人々との出会いと別れ。


 すべては、大きな命の環の中の一部なのだ。


 真澄は静かに手帳を取り出した。


 最後のページに、こう記した。


「命は、確かに海のようだった。

 私はその一部を、ほんの少しだけ、守ることができただろうか。

 しかし、これからもこの環は続いていく。

 新たな命が生まれ、また海に還っていく。

 私は、その営みの証人となれたことを、誇りに思う」


 真澄は静かに手帳を閉じた。


 山の風が、優しく彼女の髪を撫でていった。


(了)





●霜月真澄の手帳 ―二十年の記録―


## 第一頁:赴任初日


 昭和19年8月15日

 本日、第三野戦病院に赴任。

 最初の患者は胸部銃創の兵士。

 佐伯正道(22歳)。手術は成功したが、まだ予断を許さない。

 母の言葉を思い出す。

 「命は海のようなもの」

 その海の前で、私はまだあまりに無力だ。


## 初年度の記録


 昭和19年9月3日

 本日の手術:4件

 救えた命:3

 救えなかった命:1

 藤堂清明(19歳)。止血が間に合わなかった。

 申し訳ない。次は必ず。


 昭和19年10月15日

 加藤少尉(27歳)が亡くなった。

 感染症との戦いに敗れた。

 彼の最期の言葉「家族に、ありがとうと」

 伝えきれなかった言葉を、この手帳に記しておく。


## 二年目の記録


 昭和20年4月8日

 神崎竜二(18歳)。右腕切断手術。

 「もう戦えない」と泣いていた彼に告げた。

 「命があるだけで、奇跡なんだ」

 その言葉が、私自身への戒めでもある。


 昭和20年6月21日

 本日、初めて「鬼軍医」と呼ばれた。

 将校との衝突が原因らしい。

 だが、後悔はしない。

 命の前では、階級など関係ないのだから。


## 転機となった記録


 昭和23年8月3日

 山本航平(16歳)。虫垂炎手術成功。

 戦後も苦しみは続く。

 こんな若い命が、なぜここにいるのか。

 答えは見つからない。ただ、目の前の命を救うことしかできない。


 昭和25年12月25日

 クリスマスの夜。

 緊急手術3件。

 すべて成功。

 小さな奇跡に感謝する夜。


## 中堅期の記録


 昭和30年5月17日

 今日で医師10年目。

 これまでの手術件数:2,741件

 生還率:76.3%

 数字では表せない重みを感じる。

 一つ一つの命に、物語がある。


 昭和35年9月4日

 若い軍医が増えてきた。

 彼らに何を伝えられるだろう。

 技術か、心構えか。

 それとも、命への敬意か。


## 後期の記録


 昭和40年3月1日

 月見里かおる。新しい研修医。

 彼女の目に、かつての自分を見た。

 命を救いたいという、純粋な願い。

 それは、決して色褪せることのない思いだ。


 昭和42年7月15日

 最後の前線手術となるだろう。

 戦時中の記憶が、今でも鮮明に蘇る。

 あの日々は、私の中で永遠に続いている。


## 最終頁


 昭和43年12月31日

 この手帳も、ついに最後のページとなった。

 二十年間。

 無数の命との出会いと別れ。

 喜びも、悲しみも、すべては輪廻の環の中にある。

 

 私は何を成し得たのだろう。

 ただ、目の前の命に向き合い続けた。

 それだけのことかもしれない。

 

 しかし、その営みの中で、確かに学んだ。

 命とは、愛とは、そして人間とは何かを。

 

 この記録は、私の誇りであり、懺悔であり、祈りである。

 すべての命に、深い感謝を込めて。


 ―鬼軍医 霜月真澄―


## 統計記録(最終集計)


- 総手術件数:5,927件

- 救命成功:4,583件

- 戦死・病死:1,344件

- 緊急手術:2,891件

- 一般手術:3,036件

- 最年少患者:14歳

- 最高齢患者:68歳


## 特記事項


- 昭和19年-20年:戦時中の記録が最も多い

- 昭和20年-25年:戦後の混乱期の記録

- 昭和25年-35年:医療技術の発展期

- 昭和35年-43年:後進の指導期


## 付記された言葉たち


- 「命は海のようなもの」(母の言葉)

- 「生きているだけで、奇跡」

- 「医者は、時として死神より強くなければならない」

- 「鬼と呼ばれても、命を救う。それが私の誇り」

- 「すべての命には、輝きがある」

- 「死を看取ることは、生を祝福すること」

- 「技術は冷静に、心は熱く」

- 「明日も、どこかで命が生まれる」


【手帳の特徴】

- 簡潔な文体ながら、深い思索が込められている

- 数値的記録と感情的記録が混在

- 時代の変遷とともに、記録の性質も変化

- 個々の患者への深い共感が読み取れる

- 医療者としての成長過程が克明に記されている

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