空中ブランコ乗り:天空蝶々さん
◆第一章:初めての飛翔 ―1年目の蝶々―
夜明け前、私の目は自然と開いた。時計は午前4時30分を指している。私、天空蝶々、20歳。サーカスの空中ブランコ乗りとして働き始めてからもう半年が過ぎようとしていた。
寝袋から抜け出し、キャンピングカーの小さな窓から外を覗く。まだ暗い空に、かすかに朝焼けの気配が見える。深呼吸をして、今日も一日がんばろうと自分に言い聞かせる。
狭い空間で身支度を整える。長い黒髪を丁寧にブラッシングし、きつく結び上げる。化粧は控えめに、ナチュラルメイクを心がける。ショーの時には派手なメイクをするが、練習中はシンプルが一番だ。
「よし、これでOK」
自分に満足したように頷き、トレーニングウェアに着替える。体のラインがはっきりわかる服だ。最初は恥ずかしかったが、今では慣れた。
キャンピングカーを出ると、朝もやに包まれたサーカステントが目に入る。静寂の中、私は軽くジョギングを始める。体を温めながら、今日の練習メニューを頭の中で整理する。
「今日は新しいルーティーン(*1)の練習ね……」
緊張感が走る。まだまだ技術が未熟な私にとって、新しい技に挑戦するのは大きなプレッシャーだ。
ジョギングを終え、テントに向かう。入口で、先輩の鳳凰さんとすれ違う。
「おはよう、蝶々ちゃん。今日も早いね」
「おはようございます、鳳凰さん。はい、新しいルーティーンの練習をしたくて」
私は少し緊張した面持ちで返事をする。鳳凰さんは優しく微笑んだ。
「頑張ってね。でも無理はしないように」
鳳凰さんの言葉に少し安心する。テントに入り、準備を始める。
まずはウォーミングアップ。体を丁寧にほぐしていく。柔軟性は命綱だ。特に、背中と肩、手首の柔軟性には気を使う。
次に、ロープクライミング(*2)の練習。高さ10メートルのロープを、腕の力だけで登っていく。最初の頃は、途中で力尽きてしまったものだ。今では、何とか頂上まで到達できるようになった。
「はぁ……はぁ……」
息を切らしながらも、達成感を感じる。しかし、これはまだ始まりに過ぎない。
いよいよブランコの練習だ。高さ20メートルのプラットフォームに上がる。下を見ると、まだ少し目眩がする。
「大丈夜。私にはできる」
自分に言い聞かせるように呟く。
ブランコを掴み、深呼吸をする。そして、一気に飛び出す。
風を切る感覚。重力との闘い。そして、空中で体を回転させる。
「キャッチ!(*3)」
パートナーの雷鳥さんの声が聞こえる。彼の手に向かって体を伸ばす。
パン!
手と手が確実に繋がる。安堵の気持ちと同時に、喜びが込み上げてくる。
「よくできたぞ、蝶々!」
雷鳥さんの声に、思わず笑みがこぼれる。
午前中の練習が終わり、昼食の時間。サーカスの面々が集まる。多国籍な仲間たちとの会話は、いつも新鮮だ。
「蝶々、今日のあなたの飛びは素晴らしかったわ」
団長の月光さんが声をかけてくれた。
「ありがとうございます。でも、まだまだです」
謙遜しつつも、内心では誇らしい気持ちがあった。
午後の練習では、新しいルーティーンに挑戦する。バック・サマーソルト(*4)からのキャッチ。何度も失敗を繰り返す。
「もう一度!」
自分に鞭打つように、何度も挑戦を続ける。
夕方、ようやく成功。テント中から拍手が沸き起こる。
「やったわ!」
達成感に包まれながら、プラットフォームを降りる。
夜の本番ショーでは、まだ難しい技は披露できない。しかし、観客の歓声を聞くたびに、もっと上手くなりたいという気持ちが強くなる。
ショーが終わり、メイクを落とす。鏡に映る自分の顔に、疲労と充実感が混ざっているのがわかる。
キャンピングカーに戻り、シャワーを浴びる。温かい湯が体を包み込む。明日への期待と不安が入り混じる。
就寝前、スマートフォンで家族とビデオ通話。両親と妹の顔を見ると、少し寂しさがこみ上げる。
「蝶々、がんばってるか?」
「うん、毎日楽しいよ。でも、みんなに会いたいな」
通話を終え、寝袋に潜り込む。体は疲れているのに、興奮で眠れない。
「明日は、もっと上手くなれるかな……」
そんなことを考えながら、私は静かに目を閉じた。天井に投影された月明かりが、まるで舞台の照明のようだった。
◆第二章:高みを目指して ―5年目の蝶々―
目覚めの音楽が流れる前、私の目は自然と開いた。時計は午前4時15分を指している。私、天空蝶々、25歳。サーカスの空中ブランコ乗りとして5年目を迎え、今では主要メンバーの一人として活躍している。
キャンピングカーのベッドから軽やかに飛び降りる。以前は狭さを感じていたこの空間も、今では居心地の良い我が家だ。窓を開けると、朝の冷気が肌を撫でる。深呼吸をして、今日も一日頑張ろうと心に誓う。
鏡の前に立ち、長く伸びた黒髪をブラッシングする。5年前より少し筋肉質になった体を見つめながら、これまでの成長を実感する。化粧は相変わらず控えめだが、少し艶っぽさを意識するようになった。
「今日も最高の舞台にしよう」
自分に言い言い聞かせるように呟き、トレーニングウェアに着替える。
外に出ると、サーカスの仲間たちが次々と目覚めていく音が聞こえる。私は軽くストレッチをしながら、今日のスケジュールを頭の中で整理する。
「今日の夜のショーで、あの技を披露するんだわ……」
少し緊張感が走る。トリプル・ソメルソルト(*5)からのキャッチ。この技を成功させれば、世界でもトップクラスの技術を持つパフォーマーになれる。
テントに向かう途中、若手の燕さんとすれ違う。
「おはようございます、蝶々さん!」
「おはよう、燕ちゃん。今日も頑張りましょう」
後輩の成長を見守ることも、今では私の大切な役割の一つだ。
テントに入ると、もう何人かのメンバーが準備を始めていた。
「おはよう、蝶々。今日の調子はどう?」
パートナーの雷鳥さんが声をかけてくる。
「絶好調よ。今日こそ、あの技を決めてみせるわ」
自信に満ちた返事をする。しかし内心では、まだ少し不安が残っている。
ウォーミングアップを念入りに行う。体の隅々まで意識を向け、筋肉をほぐしていく。5年の経験が、体の扱い方を教えてくれる。
ロープクライミングは、今では余裕を持ってこなせるようになった。しかし、気を抜くことはない。高所での作業は常に危険と隣り合わせだ。
いよいよブランコの練習。プラットフォームに立つと、かつての恐怖は期待に変わっている。
「行くわよ!」
大きく息を吸い、一気に飛び出す。
風を切る感覚が心地よい。体を回転させ、雷鳥さんの手を目指す。
「キャッチ!」
ぴたりと手が合わさる。完璧なタイミングだ。
「素晴らしい、蝶々!」
雷鳥さんの声に、笑顔で応える。
午前中の練習が終わり、昼食の時間。サーカスの面々と談笑しながら、栄養バランスの取れた食事を取る。
「蝶々、今夜のショーが楽しみだよ」
団長の月光さんが、期待の眼差しを向けてくる。
「ありがとうございます。必ず成功させます」
自信を持って答えるが、心の中では緊張が高まっている。
午後の練習では、トリプル・ソメルソルトの最終調整に入る。何度も繰り返し、体に染み込ませていく。
「もう一度!」
限界まで練習を重ねる。汗が滝のように流れる。
夕方、ようやく満足のいく成功率に達した。
「素晴らしいわ、蝶々。きっと観客を魅了できるわ」
鳳凰さんの言葉に、心が軽くなる。
本番のショーの準備に入る。衣装に着替え、メイクを施す。鏡に映る自分は、5年前とは比べ物にならないほど自信に満ちている。
ショーが始まる。観客の歓声が響く中、私は高らかにプラットフォームに上がる。
「さあ、行くわよ」
深呼吸をして、ブランコを掴む。
一気に飛び出す。体を回転させる。一回、二回、三回……。
「キャッチ!」
雷鳥さんの声が聞こえる。手を伸ばす。
しかし、その瞬間だった。
指先がわずかにずれる。
「あ……」
体が宙に浮く。
観客の悲鳴。
そして、激しい衝撃。
防護ネットが……ない?
意識が遠のいていく中、最後に思ったのは、
「ごめんなさい、みんな」
という言葉だった。
そして、世界が闇に包まれた。
◆第三章:再び舞い上がる ―10年目の蝶々―
夜明け前、私の目は静かに開いた。時計は午前4時を指している。私、天空蝶々、30歳。サーカスの空中ブランコ乗りとして10年目を迎え、今では再び主要メンバーとして舞台に立っている。
ベッドから起き上がる時、右足に軽い痛みを感じる。5年前の事故の名残だ。深呼吸をして、痛みを受け入れる。これも私の一部。そう思えるようになるまでに、長い時間がかかった。
窓を開け、朝の空気を胸いっぱいに吸い込む。かつては当たり前だと思っていたこの瞬間が、今は何よりも貴重に感じられる。
「今日も、命を輝かせよう」
鏡の前に立ち、長い黒髪をブラッシングする。髪の間に、わずかに白髪が見える。微笑む。これは経験の証。化粧は以前より丁寧に。舞台上の私は、観客に夢を見せる存在。その責任を感じながら、メイクを施す。
トレーニングウェアに着替える時、右足の傷跡が目に入る。かつては憎んでいたこの傷も、今は私の人生の重要な一部だと受け入れている。
外に出ると、サーカスの仲間たちが次々と目覚めていく。私は軽くストレッチをしながら、今日のスケジュールを頭の中で整理する。
「今日の特別公演、きっと成功させるわ」
緊張感と期待が入り混じる。事故から復帰して5年。ようやく、あの技に再挑戦する日が来た。
テントに向かう途中、かつての後輩、今ではパートナーとなった燕さんと出会う。
「おはようございます、蝶々さん! 今日が来ましたね」
「ええ、燕。一緒に最高の舞台を作りましょう」
彼女の成長を見守ってきた5年間。今では互いに支え合う仲間だ。
テントに入ると、団長の月光さんが待っていた。
「蝶々、無理はするなよ。君の命が何より大切だ」
「ありがとうございます、団長。でも大丈夫です。私は準備ができています」
自信を持って答える。長いリハビリと練習の日々。それらすべてが、今日のために。
ウォーミングアップは、以前より丁寧に、そして時間をかけて行う。体の声に耳を傾けながら、筋肉をほぐしていく。
ロープクライミングは、今でも欠かさない。右足の状態を確認しながら、慎重に、しかし確実に登っていく。
そして、ブランコの練習。プラットフォームに立つと、5年前の記憶が蘇る。恐怖、痛み、そして喪失感。しかし、それらを乗り越えてきた自信も同時に湧き上がる。
「行くわ!」
大きく息を吸い、一気に飛び出す。
風を切る感覚。懐かしくて、新しい。体を回転させる。一回、二回、三回……。
「キャッチ!」
燕の声が聞こえる。手を伸ばす。
パン!
確実に手が合わさる。
「やったわ、蝶々さん!」
燕の喜びの声。テント中から拍手が沸き起こる。
プラットフォームに戻ると、涙が溢れてくる。喜びと安堵の涙。そして、ここまで支えてくれた仲間たちへの感謝の涙。
昼食時、サーカスの面々が集まる。皆の目に、喜びと安堵の色が見える。
「蝶々、本当によく頑張ったな」
月光さんの声に、深く頷く。
午後の練習では、本番に向けての最終調整。体の状態を細かくチェックしながら、慎重に、そして大胆に飛んでいく。
夕方、本番の準備に入る。衣装に着替え、メイクを施す。鏡に映る自分は、10年前とは比べものにならないほど深みのある表情をしている。
ショーが始まる。観客の歓声が響く中、私は颯爽とプラットフォームに上がる。
「さあ、新しい物語の始まりよ」
深呼吸をして、ブランコを掴む。
一気に飛び出す。体を回転させる。一回、二回、三回……。
「キャッチ!」
燕の声が聞こえる。手を伸ばす。
ぴたりと手が合わさる。完璧なタイミング。
観客からの大きな拍手。仲間たちの歓声。
そして、私の心の中で響く声。
「おかえり、蝶々」
プラットフォームに戻り、深々とお辞儀をする。涙が頬を伝う。今度は、純粋な喜びの涙。
ショーが終わり、仲間たちと抱き合う。この瞬間、私は心から思った。
「ここが私の居場所。これが私の人生」
キャンピングカーに戻り、シャワーを浴びる。温かい湯が、10年の歳月を優しく洗い流していく。
就寝前、スマートフォンで家族と話す。両親と妹の誇らしげな表情に、胸が熱くなる。
「蝶々、本当によくがんばったな」
「うん、みんなのおかげよ。ありがとう」
通話を終え、ベッドに横たわる。体は疲れているのに、興奮で眠れない。
「明日からも、空を舞い続けるわ」
そう心に誓いながら、私は静かに目を閉じた。窓から差し込む月明かりが、まるで舞台の照明のよう。そして、それは私のこれからの人生を照らす光のようにも感じられた。
(了)
注釈:
(*1) ルーティーン:決められた一連の演技の流れ
(*2) ロープクライミング:ロープを使って上る訓練
(*3) キャッチ:空中でパートナーに捕まること
(*4) バック・サマーソルト:後方宙返り
(*5) トリプル・ソメルソルト:3回転宙返り
◆蝶々の墜落:光と影の狭間で
・墜落の瞬間 - 風花の視点」
私、風花は、両親と弟と一緒にサーカスを見に来ていた。15歳の誕生日プレゼントとして、ずっと憧れていた「空飛ぶ蝶々のショー」のチケットをもらったのだ。前から2列目の席。ここなら、蝶々さんの表情まではっきり見えるはず。
照明が暗くなり、ドラムロールが鳴り響く。そして、スポットライトが天井を照らし出した瞬間、私の心臓は高鳴った。
「ladies and gentlemen! The moment you've all been waiting for……」
司会者の声が響き渡る。そして、彼女が現れた。蝶々さん。私の憧れの人。キラキラと輝く衣装に身を包み、優雅に、そして力強くプラットフォームに立つ姿。思わず、息を呑んだ。
「風花、あの人があなたの憧れの蝶々さんなの?」
母の声にうなずく。
言葉が出ない。
あまりの美しさに。
蝶々さんがブランコを掴む。
深呼吸をする彼女の仕草まで見える。
そして、一気に飛び出す。
風を切る音。
体が宙を舞う。
一回、二回、そして三回転。
トリプル・ソメルソルト。
解説で聞いていた、世界最高難度の技だ。
「すごい!」
思わず声が漏れる。でも、次の瞬間。
何かがおかしい。蝶々さんの手が、相手の手に届かない。
「あれ?」
違和感を覚えた瞬間、蝶々さんの体が落下し始めた。
「ああっ!」
私の悲鳴が、会場中に響き渡る他の観客の声に埋もれる。
ネットがない。なぜだろう。いつもあるはずのネットが、そこにない。
蝶々さんの体が、まるでスローモーションのように落ちていく。彼女の表情が、恐怖と驚きに歪むのが見えた。
そして、衝撃音。
「蝶々さーん!」
私は叫んでいた。涙が溢れ出す。周りは混乱に陥っている。大人たちが右往左往する。
弟が泣き叫ぶ。母が私を抱きしめる。父が「落ち着くんだ」と言っている。でも、その声も震えている。
舞台の上で、蝶々さんが倒れている。血が見える。動かない。
「嘘だ。嘘だよ。こんなの……」
夢。そう、きっと悪い夢なんだ。目を覚ませば、また素晴らしいショーが始まるはず。そう思いたかった。
でも、現実は容赦なく続いていく。救急隊が到着し、蝶々さんを担架に乗せていく。その姿があまりにも痛々しくて、目を背けてしまった。
帰り道、車の中は重苦しい沈黙に包まれていた。両親は何も言わない。弟はまだ泣いている。
私は窓の外を見つめながら、蝶々さんのことを考えていた。あんなに美しく、強く、輝いていた人が、一瞬にして……。
「蝶々さん、きっと大丈夫。また空を飛べるようになって」
そうつぶやきながら、私は祈るような気持ちで目を閉じた。この日の出来事は、私の中に深く刻み込まれ、そして、思いもよらない形で私の未来を変えていくことになるのだった。
・墜落の瞬間 - 雷鳥の視点
あの瞬間、時が止まったかのように感じた。私、雷鳥は、蝶々のパートナーとして、彼女の飛翔を見守っていた。トリプル・ソメルソルトの美しい回転。そして、伸ばされた手。しかし、その指先が、わずかに、ほんのわずかにずれた。
「蝶々!」
叫び声が、自分の口から出たのか、観客からなのか、判然としなかった。蝶々の体が、まるでスローモーションのように落下していく。防護ネットがないことに、その時初めて気がついた。恐怖と後悔が、一瞬にして全身を貫いた。
地面に激突する音。骨の砕ける音。観客の悲鳴。すべてが混然一体となって、私の耳に殺到した。
「救急車! 誰か救急車を!」
プラットフォームから飛び降り、蝶々の元へ駆け寄る。彼女の体は、不自然な角度で折れ曲がっていた。血が、どこからともなく流れ出ている。
「蝶々、目を開けて! 聞こえる? 私だ、雷鳥だ!」
かすかに開いた蝶々の目。そこに、生命の灯がまだあることを確認して、わずかに安堵する。しかし、次の瞬間、その目は再び閉じてしまった。
・緊急搬送 - 月光団長の視点
サイレンの音が近づいてくる。私、月光は、パニックに陥った観客たちを必死に落ち着かせようとしていた。
「皆様、どうかお静かに。医療チームの邪魔にならないよう、ご協力をお願いします」
声を張り上げながらも、心の中は混乱していた。なぜ防護ネットがなかったのか。誰の責任なのか。しかし今は、そんなことを考えている場合ではない。
救急隊が到着し、蝶々の体を担架に乗せる。その姿は、あまりにも痛々しかった。
「私が同行します」
躊躇することなく、救急車に乗り込む。蝶々の手を握りながら、祈るような気持ちで病院へと向かった。
・手術室前 - 鳳凰の視点
病院の廊下は、重苦しい空気に包まれていた。私、鳳凰は、手術室の前で立ち尽くしていた。蝶々の両親が到着するまでの間、私が彼女の身元引受人となった。
「どうか、無事でいて」
心の中で繰り返し唱える。手術室のランプが赤く光り続ける。時間が、異常なほどゆっくりと過ぎていく。
医師たちが、次々と手術室に入っていく。骨折、内出血、脊髄損傷の可能性。聞くたびに、胸が締め付けられる思いだった。
「鳳凰さん」
振り返ると、蝶々の両親が駆けつけてきた。涙に濡れた顔。私は何と声をかければいいのか、言葉が見つからなかった。
・入院生活 - 燕の視点
手術から一週間が過ぎた。私、燕は、毎日のように蝶々さんの病室を訪れていた。まだ意識が戻らない彼女の顔は、青白く、痩せ細っていた。
「蝶々さん、私です。燕です。聞こえますか?」
機械の音だけが、静かに響く病室。点滴の滴る音が、時間の経過を刻んでいる。
医師の説明によると、蝶々さんの怪我は予想以上に深刻だった。複数箇所の骨折、内臓損傷、そして最も懸念されていた脊髄も、部分的に損傷していたという。
「きっと、目を覚ましてくれる。そして、また一緒に空を舞うんです」
そう信じて、毎日語りかけ続けた。サーカスの様子、みんなの心配、そして、彼女がいない舞台がどれほど寂しいかを。
・リハビリへの道 - 理学療法士・翔太の視点
意識を取り戻してから2ヶ月。私、宮井翔太は、蝶々さんのリハビリを担当することになった。彼女の目には、強い意志が宿っていた。
「翔太先生、今日はどんなことをするんですか?」
車椅子に座った蝶々さんが、期待を込めて尋ねる。その姿は、かつてサーカスで華麗に舞っていた姿からは想像もつかないほど弱々しく見えた。しかし、その目の輝きは健在だった。
「今日は、まず足の筋力トレーニングから始めましょう。そして、立位保持の練習もしてみたいと思います」
一つ一つの動作が、彼女にとっては大きな挑戦だった。汗を流し、時には涙を流しながら、懸命に取り組む姿に、私は心を打たれた。
「痛っ……! でも、これくらい……平気です」
歯を食いしばって、リハビリに取り組む蝶々さん。その姿に、周りのスタッフたちも励まされ、より一層サポートに力を入れた。
・回復への長い道のり - 雷鳥の視点
リハビリが始まって半年が経った。私、雷鳥は、できる限り蝶々の側にいるようにしていた。彼女の回復を、自分の目で見届けたかった。
「雷鳥、見て! 一人で立てるようになったの!」
蝶々の声に振り返ると、彼女が看護師に支えられながらも、自分の足で立っていた。その瞬間、思わず涙がこぼれた。
「すごいじゃないか、蝶々! その調子だ!」
喜びを全身で表現しながら、心の中では複雑な思いが渦巻いていた。あの事故さえなければ。あの時、もう少し注意深く見ていれば。自責の念は、いまだに消えていなかった。
しかし、蝶々の前向きな姿勢に、私も励まされた。彼女は決して諦めなかった。そして、周りの人々も彼女を諦めなかった。
「次は歩けるようになるわ。そして、必ずブランコに戻る」
蝶々の言葉に、私は強くうなずいた。
彼女の夢が、再び空高く舞う日を、心から待ち望んでいた。
リハビリの日々は続く。苦痛と闘い、絶望と向き合い、それでも前に進み続ける蝶々。彼女の姿は、サーカスの仲間たち、病院のスタッフ、そして彼女を知るすべての人々に、生きる勇気と希望を与え続けていた。
墜落した瞬間から、再び空を舞うその日まで。蝶々の物語は、まだ終わっていない。それは、人間の強さと、周囲の支えの力を証明する、感動の物語として、これからも続いていくのだ。
◆新たな蝶の誕生 ―風花、空への誓い―
あれから5年。私、風花は20歳になっていた。大学生活を送りながらも、あの日の光景が頭から離れることはなかった。蝶々さんの墜落。そして、その後の奇跡的な復活。生きているだけでも奇跡だというのに、蝶々さんはまたブランコに戻るために懸命にリハビリを続けているという。
そして大学の掲示板で見つけたポスター。
「天空サーカス、凱旋公演」。
蝶々さんの復帰後初めての、この町での公演だった。迷うことなくチケットを購入した。
公演当日。5年前と同じ会場。しかし、空気が違う。観客の期待と不安が入り混じった独特の緊張感。
そして、あの瞬間が訪れた。
「ladies and gentlemen! The moment you've all been waiting for……」
司会者の声に、会場全体が息を呑む。
スポットライトが天井を照らし、そこに彼女の姿があった。蝶々さん。5年前よりも、さらに凛々しく、そして柔らかな表情で立っている。
私の心臓が高鳴る。
蝶々さんがブランコを掴む。深呼吸をする姿は、5年前と変わらない。しかし、その目に宿る決意の強さは、比べものにならないほど強烈だった。
一気に飛び出す。風を切る音。体が宙を舞う。一回、二回、そして三回転。トリプル・ソメルソルト。
息を呑む。
そして、
パン!
見事なキャッチ。会場が歓声に包まれる。私の目から、涙があふれ出た。
その後のパフォーマンスは、まさに圧巻だった。以前にも増して華麗で、そして力強い。蝶々さんの体の動きの一つ一つに、5年間の苦難と克服の物語が刻まれているようだった。
公演が終わり、観客が次々と帰っていく中、私はその場を動けずにいた。心の中で、ある決意が固まっていくのを感じていた。
「すみません」
スタッフに声をかける。
「……蝶々さんに、お会いできませんか?」
不可能な願いだと思った。しかし、スタッフは意外にも優しく微笑んだ。
「少し待っていてください。確認してみます」
15分後、私は楽屋の前に立っていた。ドキドキする心臓を抑えながら、ノックする。
「どうぞ」
優しい声。ドアを開けると、そこに蝶々さんがいた。近くで見る彼女は、さらに美しく、そして強さに満ちていた。
「あの、私……5年前の公演で、あの事故を目撃したんです」
言葉が詰まる。しかし、蝶々さんは優しく微笑みかけてくれた。
「そうだったの。それは……辛い思いをさせてごめんなさい」
その言葉に、込み上げるものがあった。
「いえ! 私、今日の蝶々さんの演技を見て、決心したんです。私も、サーカスに入りたい。空中ブランコに乗りたいんです!」
思いがけない言葉に、蝶々さんは驚いた表情を見せた。しかし、すぐにその目が温かさで満たされる。
「あなた、名前は?」
「風花です」
「風花さん。サーカスの世界は厳しいわ。毎日が訓練の連続。そして、常に危険と隣り合わせ。それでも、この世界に飛び込みたい?」
迷いなく答えた。
「はい! 蝶々さんの姿を見て、私も空を舞いたいと思ったんです。あの自由さ、美しさ、そして観客を魅了する力。私も、そんな存在になりたい」
蝶々さんは、しばらく黙って私を見つめていた。
そして、ゆっくりと立ち上がると、私の手を取った。
「風花さん。あなたの目に、私は可能性を感じるわ。でも、覚悟はできている? この道は、想像以上に険しいわよ」
「はい! 覚悟はできています。どんな困難があっても、乗り越えてみせます」
蝶々さんは、深く頷いた。
「わかったわ。明日から、基礎トレーニングを始めましょう。でも、最初は地上での訓練からよ。空中に上がるまでには、長い道のりがあるわ」
その言葉に、私は思わず飛び上がって喜んだ。
「ありがとうございます! 必ず、蝶々さんのような素晴らしいパフォーマーになってみせます!」
蝶々さんは優しく笑った。
「風花さん。あなたは、あなたにしかなれないの。私のようになる必要はないわ。あなただけの、風花流の空中ブランコを見つけていけばいいの」
その言葉が、私の心に深く刻まれた。
◆
両親の許可をなんとか得た翌週から、私の新しい人生が始まった。朝5時起床、ストレッチ、筋力トレーニング、柔軟体操。初めは体中が痛みで悲鳴を上げた。でも、めげなかった。蝶々さんの姿を思い出しながら、必死に食らいついた。
1ヶ月が過ぎ、2ヶ月が過ぎ。少しずつだが、体が変わっていくのを感じた。筋肉がつき、柔軟性が増し、そして何より、心が強くなっていった。
3ヶ月目。ついに低空のブランコに挑戦する日が来た。
「怖くない?」と蝶々さんが聞く。
「怖いです。でも、それ以上にワクワクしています」
私の答えに、蝶々さんは満足そうに頷いた。
初めてブランコを掴んだ瞬間、体が震えた。でも、蝶々さんの「大丈夫、あなたならできる」という言葉に勇気をもらい、一歩を踏み出した。
風を切る感覚。重力との戦い。そして、パートナーの手をキャッチする瞬間の喜び。
「やった!」
思わず声が出た。蝶々さんが笑顔で拍手してくれる。
その日から、私の成長は加速した。失敗も多かった。何度も挫折しそうになった。でも、そのたびに蝶々さんや仲間たちが支えてくれた。
1年が経ち、ついに私は本格的な高空のブランコに挑戦することになった。
プラットフォームに立ち、下を見下ろす。高さ20メートル。恐怖で足が震える。
「風花」
蝶々さんの声。振り返ると、彼女が優しく微笑んでいた。
「あなたの名前は風花。風のように自由に、花のように美しく舞うのよ。さあ、行きなさい」
深呼吸をして、ブランコを掴む。
そして、飛び出した。
風を切る感覚。体が宙を舞う。一回転、二回転。
「キャッチ!」
パートナーの声。手を伸ばす。
パン!
見事にキャッチ。
その瞬間、私は感じた。これが、私の居場所なんだと。
プラットフォームに戻ると、蝶々さんが待っていた。
「おめでとう、風花。あなたは立派な空中ブランコ乗りになったわ」
涙があふれる。喜びと感謝の涙。
「ありがとうございます、蝶々さん。私、これからも頑張ります。そして、いつか蝶々さんと一緒に舞台に立ちたいです」
蝶々さんは優しく頷いた。
「その日を楽しみにしているわ。さあ、これからも一緒に空を舞いましょう」
その言葉と共に、私の新しい人生が本格的に始まった。かつての観客だった少女は、今や立派な空中ブランコ乗り。そして、いつか必ず蝶々さんと共に観客を魅了する日が来る。
私、風花は、そう信じて日々の訓練に励んでいる。空高く舞う蝶と、風に乗って舞う花。二人の美しい舞が、いつかきっと観客の心を打つ。その日まで、私は飛び続ける。
(了)
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