(四)光の粒
蜘蛛の横糸のような髪が、耳元に垂れた。
肩口を擦って、まとわりつくように、するりと零れる。いくつも垂れこめたとき、ようやく頭上を
そこには、自分と同じような、真っ黒なふたつの
なによりもちがうのは、黒く濁りきった泥のような目をふちどっている毛色が、白銀である、ということだ。
――私がお前に望むものを与えてあげよう。
男の声は、広く大きく響いて、幾重にも反響する低さと、聴くだけで身がすくむような、不安定な鈍い揺らめきをたずさえている。
それはたとえば、楽団が紡ぐ演奏の中でも、最低音域を奏でる大きな
――おいで。私の大切な妹。たった一人の、大事な家族。
おそらく、優しく微笑んでいるつもりなのだろう。しかし、左右が不ぞろいに吊り上がる笑みは、慈しみなどという、およそ尊いであろう形の微笑みとは、似ても似つかない。
――お前の髪は黒くて美しいね。大切にしなくては。
泥のようなこの髪を、ひどく愛おしそうにすくっては、指に絡め、男は鼻先を近づけた。すぅと
度し難い。
否、理解しようというのが、どだい無理な話だ。
なぜなら、この男は出会う前から、ひどく壊れている。親の愛を知らず、社会からつま弾きにされ、なにもかもから拒絶され――、
――私だけが、お前を愛せるんだよ。
――愛しい妹よ。
愛を語る。
――……。
ふ、とまぶたを開く。どうやらすこし、まどろんでいたらしい。
黒影は大太刀を抱えたまま、寝台に腰かけていた。枯れた細枝のような指先で、前髪をすくってかき上げるようにはらう。
この街での退屈な夜は、これで三日目になる。
だが、じきに戦いは始まる。早ければ今日。あるいは明日。それとも明後日か。パラサイトモスの幼虫が這い出てくるのを、待っている。地面を這うばかり、気味の悪い幼虫の腹の中身に興味はないが、退屈を無為に食いつぶすよりは余程良い。
大太刀の
ふつふつと、衝動が湧く。
焦燥が、内側を掻く。
まだ、もう少し、まだ、もう少し、まだ――おもむろに、四角く切り取られた窓外を見やった。
空には満月が浮かんでいた。
もう、すぐそこだ。
バベットウィアーの宿は、ここから見える都市型集合住宅と同じように、小さく同じ形の部屋が階層ごとにずらりと並び、それが縦に高く――数十階と積み上げられている。その中で一般客用の区画、旅人・冒険者用の区画と分けられ、それにならってラウンジや入口も明確に分けている。
たとえば、一般客用の玄関は大通りに面した間口の広い豪華なもので、冒険者に向けられた入口は、検問所から歩いて来たときに、目に入りやすい、一段低い道路に面した、いわば地下ともいえる場所に設けられている。
高低差に富み、複雑に入り組んだこの街のどこを基準にして地下、地上、あるいは階層をどのように数えるべきかは、
「黒影」
ノックのあとに、室内へ足を運び入れたソウ。彼の、初夏の日差しが似合うような声が、黒影を呼んだ。返事をする前にすこし間をあけ、言葉のつづきを待つ。もし、諸連絡だけなら、ソウはすぐに言うからだ。しかし、つづく言葉はない。だとすると、こちらになにか要望があるのだろう。
ようやく、
「なんだ」
と低い声を返すと、
「これから、酒場に行くんだけど、君も来る?」
ソウは澄んだ蒼色の眼差しに黒影を映して、そんなふうに微笑んだ。
おおかた、パラサイトモスの情報収集だろうが……いちいち見目の
「ん」
ソウはわずかに首をかしげた。こちらのようすをうかがっているらしい。
人の多い酒場に行くのはいささか気が
しぶしぶ客室を出る。鍵をかけて、それはツナギのポケットに入れた。
先に部屋を出たソウは、数歩先のところで待っていた。
こぶしひとつぶんほど背丈が高いその姿は、いつ見ても背筋が美しく伸びている。細身で威圧感こそないものの、妙に泰然としていて、あいかわらず隙がない。ならび歩くのは
ほら見ろ、すれちがった誰もがソウのことを、ほうと見つめ
(
黒影は、長いため息をこぼした。
眉間にシワを寄せたまま、しかたなく、黙々ととなりを歩く。ソウはこちらに歩幅を合わせているらしかった。それもまた、無性に腹が立ってしかたがない。
廊下のつきあたりでナギとおち合い、それから三人そろって自動昇降機に乗った。
ナギが
駆動音はとても小さい。身体にかかる圧力も少なく、それほど不快感がないのは、この街の魔鉱技術が高い証拠だろう。
魔鉱技術――それは、失われた
魔鉱技術が、太古のそれと大きくちがう点は、ふたつある。
ひとつは、魔鉱石を動力源として使用していること。
ふたつめは、特別な才能を必要とせず、特殊な技能もいらず、また使用に際して専門的な知識も不要。ごくごく簡単な操作方法さえ覚えてしまえば、ものによっては子どもでも使える革新的なもの。つまり、比較的安全で、かつ多くの人間があつかえる
先進国ではあたりまえになりつつある魔鉱列車や魔鉱船。この自動昇降機、もっと身近なものを挙げるなら、魔鉱灯が魔鉱技術のいい例だろう。
黒影は、大陸と隔てられた
しかしながら、技術的な面を考慮しても、本来不要なはずの階層案内人がいるのは、自動昇降機がまだそれほど普及していないからだろう。
そこまで考えて、黒影は一度まぶたを閉じた。
自動昇降機がぐんと上がる。魔狩協会本部にも自動昇降機はあるから、いまさら驚くほどの感覚ではない。とはいえ、上昇していくときにかかる圧力は、やはり奇妙なものだった。あとどれほど乗っていればこの退屈は終わるだろうか。黒影はまた、目を開けた。
瞬間、パッと視界がひらけた。
「!」
思わず目を
ガラス張りの分厚い壁の向こうに、密集したバベットウィアーの高い街灯りが広がっている。まるで光を編んだような光景だ。宵闇のなかで、無数の光の粒が高く連なって、向こうから、こちらまで。星空を間近に見ているようだった。
「うわぁ……奇麗だね」
ソウの瞳が大きくひらかれて、夜景のきらめきを映した。
この男は夜景まで似合うのか。なかばあきれながら、その横顔を眺める。
――本当に、文句のつけようもない美形だ。
成人しているかどうかくらいの幼い
「冒険者用のラウンジは地下だろう。なぜ上へあがる」
言及する。対して、答えたのはナギだ。
「バベットウィアーの夜景は、魔幽大陸ではドリミアルに次いで美しいと言われているのですよ。せっかく来たんですから、見ないなんて、もったいないじゃないですか」
ナギは指を立てて、温良と笑った。そのためにわざわざ上がった、というのか。
息をついて、壁ぎわに身を寄せる。
「バベットウィアーの高層建築の多くは、複合型施設となっているのですよ。ひとつの建物で衣食住が揃うことはさながら、なんと地下では、生活廃棄物を利用したエネルギーの生成なども行っているんだとか。これこそまさに、
いつも通り始まったナギのうんちくに耳を傾けているうちに、自動昇降機はゆるやかに停止した。おもむろに扉が開く。
「ついたよ」ソウが微笑んで、こちらに手をさし出してきた。
「なんのまねだ」
彼はこともなげに「ついてきて」と昇降機から降りると、真紅の
今までよりもやや重厚な鉄扉の前で立ち止まると、彼はふりかえった。
「ここだよ」
言葉と共に、扉が開かれる。
夜の匂いがした。
襟足をさらうように大きく
一面の、光の粒。
「空が近い」
思わず手を伸ばすように、足を一歩、二歩と踏みだした。中空廊下の足元はガラス張りになっていて、ずっと下方の
「存外、大きい街だな」
昼間、密集し入り組んだ路地を三人で歩いていたときは、窮屈で
「だよね。昇降機の中から見るよりも、近くて、すごく大きく感じる」
ソウが微笑んだ。
「海のようだ」黒影は言葉をこぼした。
「海?」
「昔、
海を見たのは、その時が初めてだった。暗く吸いこまれそうな波間の上で、美しく揺らめく漁船の灯りを鮮烈に覚えている。当時、それがなんなのかも、なんのために叔父がそれを見せたのかも、わからなかった。今でも、よくわからない。それを訊ねる前に、叔父も両親と同じように、亡くなってしまったからだ。
実際には手が届かないというのに、とても近く感じられた海は、かように美しかった。
――とはいえ、ずいぶんと幼いころの記憶だ。両親の顔さえまともに覚えていないのだから、この記憶さえ、およそ曖昧で、あてにならないだろう。きっと、無意味に美化されていることだろう。
だが、どうしてか、ずっと覚えている。
「すてきな思い出だね」
やわらかなソウの声が、ゆるやかにほどけた。
夜景もほどほどに、黒影はそのまま展望スペースへと連れられた。
展望台専用のラウンジを抜けた先にある、すこし奥まった、静かな窓ぎわの席。うながされ、やわらかなソファへ腰をおちつける。
やや低いガラステーブルは、天板の底が波うっているらしかった。水紋のような光の模様が大理石のタイルへ透過し、魔鉱灯の揺らめきに合わせて繊細に波立っている。
あらかじめ用意されているグラスと、カトラリー。そしてテーブル中央には、釣鐘状のすりガラスでおおい隠された
「なんだこれは」
まぁまぁ、とこちらの
ふわり。
甘い香りが、豊かに広がった。
皿の中央では、精細な彩りが、小さなきらめきをまたたかせていた。ごくごく小さな、しかし繊細で美しいケーキが、宝石のように並び輝いている。ひとつは、ガーネットのように深く燃える幻想的な真紅と、夕暮れの温度を。ひとつはベリーの艶めきをなめらかにたくわえた、花園のごとき色彩を。あるいは――、
「君にとっては、退屈しのぎにもならないかもしれないけど」
彼の瞳のように、
ソウは小さく笑う。彼はナギと視線を合わせうなずいた。
それから二人はこちらを向いて、
「「お誕生日おめでとう」」
と言う。
「……は?」
つい、眉根を寄せてしまった。
この反応に、ソウはややこまったように失笑している。
「誕生日……けっきょく教えてもらえなかったけど、せっかくなら、なにかしたいよねって、ナギさんと話していたんだよ」
「黒影ちゃんはあんまり食べないので、ごちそういっぱいでやったぁ! なんて難しいでしょうし。かといって、本を贈るにも、道中だと荷物になっちゃいますよね、とか」
ひきつぐように言ったナギに、ソウがうなずき返す。
「喜んでもらえるかはさておき、ちょっとは退屈しのぎになるかと思って」
(――……嗚呼、)
黒影は視線を伏せた。
ナギがグラスを持ちあげる。ソウもまた、持ちあげて、わずかにこちらへ傾ける。
黒影は、指先でグラスの
(おそらく、)
やわらかな音をたてて、たがいのグラスは軽く触れた。
(幸福と、呼ぶべきなのだろうな)
芳醇な香りを、
自らの心の機微を、黒影は茫漠と見つめていた。
「もしかして、お祝いされるの、嫌いだった?」
食べ終わったころに、ソウ気遣わしげに、こちらをうかがい見た。
それはおそらく、黒影が大した反応――たとえば、バーカウンターで酒を
「
そして言う。
「……だが」
言いよどむ。
言いよどんでしまった。
息をつく。
告げる。
「ワタシには不要だ。二度としてくれるな」
言いきって、一度、まぶたを閉じる。
脳裏に描かれるのは、香りのよいグラスワインと、繊細に咲き輝いたひと口大のケーキ。
そして、ラウンジよりすこし離れた窓ぎわに用意された、静かな席。
それらの時間と空間は、黒影という個人の好みや性質を
まぶたをひらく。からになった皿を
「
それだけ伝えて、背を向ける。
すこしでも早くこの空間からはなれて、独りになりたかった。
「黒影どうしたの。もしかして具合悪い? 無理させちゃった?」
気遣いが、わずらわしい。
「くろか――、」
「部屋に戻る」食い気味に遮って、なかば強引に話を打ち切った。
嗚呼、不快だ。
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