彼女にまつわる

路地623

第1話  究極を極めよ!



 それは、彼女が熊本県熊本市大江●●に住んでいた頃のこと。


 大江●●のとある商業施設の駐輪場で、薄汚れた身なりのおばさんが、カジュアルな若い男女にぶつかって転んで倒れていた。


「テメェ〜よくもカナにぶつかったな!」


 男が一方的にキレておばさんの腹や背中を蹴っていたが、誰も止めようとしない。むしろ、巻き添えになりたくないとばかりに一定距離を保ってサッサと通過していく。

 ペッ!男が唾を吐き捨て、せせら笑いながら女の肩を抱き寄せると、2人は電車通りへと立ち去った。その間、おばさんはピクリとも動かなかった。

 ボロボロのフードを被って濡れた薄毛をひらひら胸まで垂らし、垢なのか日焼けなのか斑に浅黒い肌、ロングスカートの下につま先の破れた靴を履いていて、見るからに臭そうで小汚いおばさんを誰もが避けて通っている。

 そこにちょうど、彼女が駐輪場にやって来て、「大丈夫ですか?」と駆け寄り、おばさんの背中を支えて助け起こした。


 彼女としては、何の意図もない、ただの親切心だった。


 その日から、彼女とおばさんは、大江の駐輪場付近でよく会うようになって、世間話程度に話をするようになった。


 ある日、彼女がアパレルのバイトを終えて店の外に出ると、なぜか、おばさんが待っていた。彼女は駆け寄って、

「どうしたんですか?」

 と、問いかけた。おばさんは、赤茶けた伸びっぱなしの髪の間から上目遣いで見つめて、「話をたくさん聞いてくれたからお礼がしたいんよ」と言った。

 彼女はそんなつもりなかったので即、断ったが、おばさんが「お礼…お礼……」としつこいので、ジュースでも奢ってくれるのかな……と小さく期待して、おばさんについて行くことにした。


 市街中心部のアーケードから少し外れた通りに、黄色のビルがあった。

 人差し指を立てた金髪欧米人が、こちらに向かってパーフェクトスマイルしているポスターが、風にパタパタ吹かれながら大量に貼られている。

 昔は英会話教室をやっていたらしいが今は廃ビルになっているそのビルに、誘われるまま入って行った。

 ビルの一室は、学校用の一人掛けの机と椅子がバラバラに放置されていて、黒板には走り書きで “究極を究めよ!” と書いてあった。


 おばさんはしばらく下を向いてモジモジしていたが、ふいに口を開いた。


「みーちゃんには感謝しとるんよ! だから、おばさんを一回殺していいよ」


 はじめて真正面から見た、その焦げ茶色の顔は、笑っていた。


「そんなこと出来るわけありませんよ」


 彼女は驚きのあまり半笑いになって変に回りくどいセリフを吐いていた。

 おばさんがいつも持ち歩いている花柄の手提げバッグから、刃渡り30センチはありそうな巨大包丁を取り出した。彼女が受け取らないでいると、無理やり握らせようとしてくる。


「やめて!」


 彼女はおばさんを突き飛ばし、転がるように階段を駆け下りて、ビルの外に停めてあった自転車にまたがって一目散に逃げた。

 漕いでも漕いでも前に進まない。振り返ったら、その反動で一瞬でも足の回転速度が緩んで追いつかれてしまいそうな絶対に油断できない極限の恐怖に駆られて家の玄関を入るなり、道生に電話を掛けた。

「ミッ…ミジンコっ!? あのおば! あそこの、ダイエーのおばばば……っ」

「あ〜? ミジンコって誰?」

 道生はマヌケ声のくせにどうでもいいところで引っかかっている。

「違うって!」

 彼女はやきもきしながらおばさんとの一部始終を話した。「あぁ〜またか」と、道生は言った。

「誰にでも優しくするからだよ」

 溜め息混じりの、既視感のあるそのフレーズは、彼女の胸にブスリと突き刺さった。


 それからおばさんは相変わらず、彼女のまわりをウロチョロしていたが、彼女が無視していると諦めて現れなくなった……。


 なんて安心していたのも束の間、彼女の家に宅配便が届いた。

 送り主の欄に、見知らぬ女性の名前が書いてあった。

 おばさん!

 知りもしないが妙に古臭い名前だったのでピンときた。躊躇したものの、彼女は届いた箱を開けてみた。

 手紙と小さな瓶が入っていた。透明のガラス瓶で、中身は液体だった。


『  みーちゃん

   あなたをうらんでうらんで

   何度ユリの花を折ったでしょう。

   でも私やさしいからゆるしてあげる。

   命の水をあなたにあげます。

   これぜったい飲んでください。   』  


 達筆な字でさらさらと書かれていて、便箋には茶色いシミが数カ所がついていた。だいぶヤバい気がして迷わず捨てた。ガラス瓶の液体は、トイレに流した。ドス黒くて、瓶の蓋を摘んで揺らすと赤が浮かび上がってくる。どう見ても、血だったから……。 



 数カ月後。大江の商業施設の駐輪場で小さな男の子が泣いていた。飢えたネズミのように出っ歯で痩せこけた七、八歳くらいの男の子だ。

 彼女はもう関わり合いになりたくなかった。が、男の子が彼女めがけて駆けてきて、「助けて〜助けて〜」と泣きついてくる。お母さんのところに行きたいが道がわからないと言う。男の子が地図を持っていたので、仕方なく送ってやることにした。


 熊本城の城下町がそのまま市街地となった街は、カクカク四角形に入り組んでいて、曲がって曲がってようやく駅前の高級ホテルに着いた。


 正面玄関には警備員が立っていて、庶民がずかずか入るのも憚られたので、彼女は知り合いの小金持ちの “出川” という男を呼び出してホテルに同行してもらった。

 まんまとホテルに侵入し、出川をラウンジに置いて、男の子と二人、地図の裏に書いてあった部屋へと向かった。


 高層階の一室。部屋の前では、屈強なボディーガードが見張りをしていて、どうやら人の出入りを制限しているようだ。

 彼女が近づくと、「派遣の方ですか?」と質問してきた。何のことだか、返答に困っていると、「早く入ってください」となぜか彼女が叱られた。

「はい……??」

 彼女は促されるまま中に入った。続いて男の子が入ろうとしたが、おい、と首根っこを掴まれて放り出された。


 部屋の中では、数名の男女がゴールドのシャンパンを片手に、ソファや椅子に気だるげに座っていた。ふいにパチパチと手を叩いて騒ぎ出した。

 彼らは、広いリビングの中央に設置されたイリュージョン・ショーで使うような巨大な水槽を鑑賞している。

 観客の中には、アイドルや著名人──そっくりさんなのか、他人のそら似なのか──見知った顔がちらほら紛れている。 彼女は目立たぬよう気配を消して何気なく彼らの後ろに並んだ。


 そのとき、気がついた!

 巨大水槽の中に、あのおばさんが……。

 水位は既におばさんの身長くらいまで達していて、そこから容赦なく上昇していくので、おばさんはつま先立ちになってガラスの天板を仰ぎ、顎をのけ反らせて辛うじて水面から顔を出している。

 やがて天板と水面の隙間は20センチになり、15センチ…10センチ…5センチ……。

 水槽は満水になった。観客から「わあぁ〜〜〜〜〜」と歓声が上がった。皆、かなり喜んでいる。

 おばさんは髪を逆立てて怒り狂ったように水中でもがいてゴボッゴボ…ッと気泡を吐いていたがしばらくして死んでしまった。が、一、二分後、また目を覚ました。

 瞼をカッと見開いて、両手で水槽のガラスを叩いていたがしばらくするとまた泡を吐いて絶命した。が、一、二分後、また目を覚ました。喉を掻き毟って白目を剥いて苦悶の表情を浮かべていたがやがて死んだ。目を開けたまま人形のように硬直して水中を漂っている……。が、一、二分後、また生き返った。

 それを何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も………繰り返している。死んで…生き返って……死んで…生き返って……死んで…生き返って……。いつのまにか彼女の隣にあの男の子が立っていて、泣いているような笑っているような、奇妙な表情で水槽を見つめていた。


 彼女は人間が怖くなった。


 おばさんが不老不死だったことにもようやく気づいた。

 ピュ〜っと誰かが口笛を吹いた。

「サイコー! やっぱ返り血? ヤだったんだよね」「この装置……実に合理的ですね。まさに不老不死の魅力を最大限に引き出すデバイス」「ビューティフル……きれ〜〜」「見ろよぉ、あの顔。アハハハッ、まぢケッサクぅ!」

 観客たちは口々に感想を述べた。

 水槽の横ブースに、ヘッドフォンを首に掛けたDJがやって来てノリのいい音楽を流し始めた。観客たちは踊ったり飲み食いしたりして、テンションは最高潮に達した。

 彼女は派手な外見で派遣のコンパニオンに間違われがちな自分に感謝していいのか悪いのか、とにかく男の子を連れて部屋から逃げ出した!


 路面電車に乗って、ホテルから遠く離れて東の商店街が近くなってきた頃、男の子が話し始めた。ボクたちは、もう何百年も生きている……と。


 男の子とおばさんは、実の親子というわけではなかった。何百年もの生き地獄の中で出会い、やがて不老不死の存在が闇社会で有名になると、刺激欲しさにセレブたちが開く殺人ショーの見世物として、捕獲されるようになった。不老不死が捕まったと聞くと、日本中からセレブが集まってきて生死の芸術を堪能するらしい。彼女は思い出した。

 ある日、おばさんが言っていたことを。

 人はみな、人を殺したがっている、と。

 殺したいという好奇心や願望は、みんなが持っている“本能”だ、と。

 人間はみな醜い───でもおばさん、自分というたった1人の “人” を殺そうとした──あなたも、人間なんですね。


 後日。道生が調べてくれた。不老不死の血を飲むと、不老不死になるのだという。

 彼女は何故か、人殺しのセレブより恨まれてしまって、おばさんと同じ不老不死にさせられてしまうところだった!

 おばさんを探していた、あの男の子のように……。

 ──なぜ?

 あんな殺人ショーを開いておばさんを苦しめた人たちより、恨まれてしまったんだろう……。

 悶々と悩んでいると、ダイエーのカフェで特大パフェを食べていた道生が言った。

「嫌われてたんじゃなくて、好かれてたんじゃね?」

 大っきい顔で綺麗に食べながら道生は続けた。

「だってさ、ずうっと一緒に居たかったんだよ、ミサコと」

 ──純愛……?

 道生は、つぶやきながら頬杖をついて窓の外を眺めていたが、「今日の雲、美味しそうだなぁ〜」と笑った。

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