西洋将棋
縁側に座布団をふたつ敷いた頃にやかんが湯気を吐き出し始めた。気取った英語の店名が鼻につくものの大層うまいと評判の店で買った菓子は冷蔵庫の中。
風はまだ冷たいが日差しは和らぎ、塀にかかる梅の枝にぽつぽつと膨らむものの見える午後二時。
鳩時計が鳴き、爺は奥の座敷に移る。
昼の番組で健康に良いと宣伝していた通りに、ゆっくり呼吸をする。さすがに気功とやらの真似事をする気は起きない。
呼び鈴が鳴った。二回三回と単調な音が響く。
爺は肉の落ちた両手で頬を叩いた。座敷を出、便所の扉を開ける。用を足すでもなく鏡に向かってしかめ面を作り、扉を閉めた。
玄関。一段低くなったところに突っ掛けがハの字になって放り出されている。それを爪先でこちらに向け、そのまま足に突っ込んだ。
呼び鈴が鳴る。
「聞こえとるわい」
声を落として引き戸を開けた。
「やったら何で早う開けんの?」
近所の婆が手押し車を軽く扉にぶつける。爺はしかめ面で顎をしゃくり、婆は鼻を膨らませながらも玄関の中に手押し車を進めた。小鼻を膨らませるのは婆がまだ小娘だった頃からの癖だ。何十年も前に不細工になるからやめろと忠告してやったのに、とうとう悪癖が治ることはなかった。
婆は台所に向かい、勝手知ったるふうでコーヒーを淹れ始める。妻に先立たれた爺の一人暮らしなのに台所がきれいなのはこの婆と、こいつにだけは醜態を晒したくない爺の意地のおかげだ。
コーヒーの準備が整うと日の当たる縁側に向かい合って座る。爺は市松模様の盤を開いた。婆の淹れたコーヒーをすする。何も注文はつけなかったが好み通り、ミルクだけ入っていた。
「あれ」
「何じゃ」
小走りで婆が菓子を持ってきた。ひとつを爺の前に、もうひとつを自分の傍に置き、小娘のように口元を隠して笑う。
「〝えんふぁんと〟のモンブランやないの」
「孫が土産ちゅうて持って来たんや。わっちは別に好きやない」
爺はそっぽを向いて嘘をついた。婆は一口菓子をかじり、盤に白黒の駒を並べる。
「あたしが先でええな?」
小首を傾げる、いい年をした婆の仕草でもなかろうに。
縁側で二人はチェスをする。時折駒の進め方を間違える。婆に注意されると爺は黙ってコーヒーをすすった。
「うちの孫、もう大学生になるんやに。早いもんやなあ」
婆がぽつりと漏らした。爺の頭の中には手押し車の上でアイスを舐めている洟垂れ娘の姿しか浮かばない。早いもんやなあ、婆が繰り返した。らっきょう頭の白い坊主が進む。
馬面の騎士をつまみ、爺は次の言葉を待った。
「一人暮らしするんやって。……なんや年寄りばっかり置いてけぼりになってってへんかなあ」
「ドたわけ。ほれ王手」
馬面を王の斜向かいに置く。婆は呻き、盤を覗き込んだ。王の駒を黒騎士の上に持っていくが、真っ直ぐ先に城が控えているのを見て元に戻す。
爺は背を伸ばした。梅の蕾はだいぶ膨らんでいる。
もうじき――いつもどおりに花が咲くだろう。
世の中の動きはとかく速くて、年寄りにはそれに追いつく体力も気力もない。お互いに別の人と家庭を作り連れ合いに先立たれ、一緒になるのも今さらすぎて、幼い頃からの腐れ縁は芽を出さないままゆるやかに朽ちていく。
だが。沽券に関わるから口に出す事はないが、こうして婆と西洋将棋をできるなら朽ちていく日常も悪くはない。
「……参りました」
婆が眉根を寄せて土下座する。
顔を見られていないのをいいことに、爺はほんの少しだけ、しかめ面を緩めた。
「チェックメイトじゃ」
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