第3話 偽名・鬼宮

「じゃあ、傷を見せてください」

 部屋に入るとすぐ、私は湯を用意しタオルをそこへ浸した。

「あとで染み抜きをするので、パーカーもこちらへ」

「……」

 大男は呆れたように私を見る。

「あっ、私、中塚なかつか穂南ほなみって言います。あなたの名前は?」

「……もうちっと警戒しろ」

「え?」

 男はガシガシと頭を掻いた。

「本名名乗るな。それに俺みたいなナリの男にラブホへ誘われて、ホイホイついて来んな。アホなのか?」

「えっ。だってここでなら、手当させてくれるって言ったから」

「……」

「さっき助けてくれましたよね? そのお礼がしたいだけなんです」

 男は頭痛を起こしたように、額に手を当てる。

「あの……」

「……鬼宮おにみや

「え?」

「鬼宮と呼べ。本名じゃねぇ」

「あっ、はい。呼ぶ時に名前を知らなければ不便だと思っただけなので、ニックネームで大丈夫です」

「……ニックネーム、て」


 鬼宮さんはパーカーを脱いで私に差し出す。続けてタンクトップも。

(あ……)

 そこに現れたのは、彫像のような見事な逆三角形の体躯。

 だが、その美しい体のあちこちには、いくつもの痛々しい古傷が刻まれていた。

(どんな生き方をしていれば、こんな傷痕が出来るんだろう)

 その場に立ちすくむ私へ、鬼宮さんは皮肉めいた笑いを浮かべる。

「ほらな」

 ずいと私へ近寄ってくると、わき腹を見せてきた。

「大した事ねぇ、って言ったろ」

 パーカーの切れ目の下にあったであろう部分は、既に血が止まっていた。

 まだ鮮やかな赤紫の瘡蓋かさぶたが、傷を覆っている。

 切り裂かれた二枚の布地が、わずかながらもクッションとなったのかもしれない。


 私は洗面所へ走ると、お湯に浸したタオルをきつく絞り彼の元へ戻った。

「じゃあ、そこに座ってください」

 鬼宮さんは気だるい動きでベッドへと腰かける。

 私は彼の側に跪き、怪我へと目を凝らした。

「これは、お湯で拭いたらまた傷が開くかもですね」

「あぁ」

「じゃあ、傷の上を避けて、周りの汚れだけ拭いちゃいます」

 私は瘡蓋をこすり落とさないよう、そっと血の汚れだけを拭き取る。

「んっ……」

「あっ、すみません。痛かったですか?」

「くすぐってぇ」

「ちょっとだけ我慢してくださいね」

 血の汚れを拭き取った後は、手持ちの消毒液とばんそうこうで、簡易的な処置を行う。

「……でも、破傷風なんかになると本当に危険ですから、ちゃんと病院に行った方がいいですよ」

 パーカーの様子からして、これはきっと刃物による傷だ。

 衛生面での期待はできない。

「やっぱり、今からでも救急車呼びませんか?」

「余計な事すんな」

「だけど」

「お望み通り手当させてやっただろうが」

 名に相応しい鬼のような形相で凄まれ、私は言葉を失う。

「……パーカー洗ってきます」

 私はペコリと一礼すると、洗面所へと向かった。


 使えるのは水とアメニティグッズだけだったが、服についた血のシミは思ったよりもきれいに取れた。

 タンクトップとパーカーをよく絞り、乾きそうな場所へ広げて吊るす。

 部屋へ戻ると、鬼宮さんはベッドの上に横たわり目を閉じていた。

(寝てる? このままじゃ、冷えちゃうよね)

 上半身剥き出しのまま掛け布団の上で寝てしまったため、鬼宮さんに布団をかけてあげることが出来ない。

 仕方なく掛け布団の端を引っ張り、くるむように彼の上へ乗せた。

 私は隣へ腰を下ろし、彼の顔を見つめる。

(思っていたより幼な顔かも……)

 2mはあろうかと言う長身から見下ろされ、眉根にしわを寄せた険しい顔ばかり向けられていたから、これまで気づいていなかったけれど。

(鬼宮さんって同い年? もしかして、年下?)

 軽くウェーブのかかった髪に触れれば思いがけず柔らかな感触が指先に伝わってくる。

 あどけない印象のその髪は触れているだけで心地よく、ついつい何度も撫でてしまった。

(睫毛、長いなぁ……)

 顔立ちが整っていることに今更ながら気づかされる。

 この人が優しく笑ったらどんなに魅力的だろう、そんなことも考えた。

(傷痕いくつあるんだろう……)

 布団からはみ出た褐色の肌に浮かび上がる、白々としたいくつもの傷痕。

 どうしてもそこへ目が行ってしまう。

(痛くないのかな)

 そんなことを思いながら、傷痕にそっと指を這わせた時だった。

 節くれだった指が、私の手首を捕らえた。

「あっ」

「さっきから、くすぐってぇんだよ」

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