第29話
――十年前。
あの日も、空は高かった。
あの日も、海は青かった。
吹き抜ける風は心地よく、今年、海で泳ぐのはこれが最後になるかもしれない、と思う心を躍らせた。
「こないだよりも人、少ないね」
「そろそろクラゲが出る時期だからじゃない?」
レイチェルはそう言うと、砂浜の上にレジャーシートを広げはじめた。
「クラゲ? うげー」
「刺されたら死ぬんだっけ?」
「死なないよ。じいちゃんが昔、海で刺されたけど、水ぶくれができて具合が悪くなったぐらいで、平気だったって」
「どっちにしろやだよ」
シュウやジンパチ、タカキを中心とした男子組が言い合っているうちに、レイチェルはリンネの手を借りながらもシートを敷き終わり、日傘を広げると、シートの上に座り込んだ。
「レイチェル、今日は泳がないの?」
「うん。これ以上日焼け、したくないから」
一応水着は着てきたようだが、上にはしっかりラッシュガードを着込んでいる。
「レイチェルは美人だから、真っ黒でもカッコいいのに」
リンネがそう言うと、レイチェルは軽く睨んでくる。
去年のレイチェルは、今年よりも黒かった。綺麗に日焼けしやすい肌質なのだ。
日に当たっても肌が一時的に赤くなるだけであまり焼けないリンネの肌とは、大違い。
「……リンネにはあたしの気持ちなんか、わかんないよ」
ぼそりと告げられたのは、意図の読めない拒絶の言葉だった。
五年生になったあたりから、レイチェルはおかしい。
前のレイチェルは、もっとなんでも気軽に話してくれたはずなのに。最近は、なにか他にも言いたいことがありそうなのに口ごもったり、別の言葉でごまかしたりすることが多い。
「じゃあ、わかるように教えてよ!」
「な……」
リンネが直球でぶつかると、ぷいと顔を背けられてしまった。
どうやら、余計に怒らせてしまったらしい。
「リンネ、そんなやつほっといて行こうぜ」
浮き輪に空気を入れていたシュウがやってきて、リンネの手首を掴んでぐいと引っ張ってきた。
「シュウちゃん……」
「具合、悪いのかもしれねーし」
レイチェルの方をチラリと見ながら、シュウが言う。
「そ、そっか……」
確かによく見るとレイチェルの顔色は悪い。暑さのせいだろうと思っていたが、もし、具合が悪いのに無理してついてきてくれたのなら、わがままは言うべきではない。
「ごめんね、レイチェル。あとで、砂遊びなら一緒にやってくれる?」
レイチェルは複雑そうな表情で頷いた。
「見て……リンネ」
アヤが寄ってきて、小声で囁いてくる。
「貝?」
小さいが形の整った巻き貝が、リンネの目線の高さまで掲げられていた。
「うん。綺麗な貝、見つけた……!」
アヤの掌の上には、同じような貝が十個ぐらい乗っていた。
ちなみに、囁くような声なのは、他の人に聞かれないようにするためではなく、アヤの声が常に小さいからだ。
「すごいね、アヤ。たくさん見つけたんだ!?」
「こういうの、自分だけの宝物感あっていいよね」
浜辺に着いて早々一人でどこかに行ってしまったと思ったら、貝を拾っていたらしい。
マイペースだけどアヤらしくて、リンネは屈託なく笑う。
「いっこ、リンネにあげるね」
「ほんと? いいの!?」
「小さいから、落とさないように気をつけて」
リンネの掌の上に転がった貝は、一センチにも満たないサイズで、色は白と茶色がまじったもの。珍しい貝とかでは全然なかったけど、不思議とキラキラして見えた。
「ありがとう、アヤ!」
リンネはそれをハンカチに包んで、大事にリュックの中にしまいこんだ。
「クラゲ、大丈夫そうだぞ」
先に海にもぐって様子を見てきたらしいタカキが、頭を振って髪の水滴を飛ばしながら言った。
タカキは泳ぎが得意なのだ。
「よかったぁ!」
「あれ? この浮き輪、この間と同じやつだよな? なんか、小さくなってね?」
シュウが膨らませた浮き輪を腰に装着したジンパチが、シュウに聞いている。
「おまえの腹が出たからだろ」
ふっくらと丸いジンパチの腹を、シュウが軽くぺちりと叩く。
「確かに。ジンパチ……また太った?」
アヤが控えめに聞く。
「あー……そういや、そうめんとアイスが美味しくて、最近すごい食べてるからかな?」
「アイスはわかるけど、そうめん?」
「おう! おちゅーげん? でよくもらうから、家にいっぱいあるんだよ。たくさん食べてくれると助かるってかーちゃんが言うから、つい、毎回三人分ぐらい……?」
「そりゃ食い過ぎだろ」
タカキが呆れた顔で言う。
「だってよぉ……! とーちゃんは仕事行ってるから家であんまり食べないし、かーちゃんはそうめんはもう飽きたっていうから、おれが全部食べなきゃ! と思って!」
「ジンパチ、茹でてないそうめんの賞味期限は確か一年以上あるはずだし、冬はあったかいにゅうめんにするとおいしいよ」
リンネはにっこり笑って言う。
「ああ、にゅうめんも美味いよなぁ! おれ、かきたまが入ったやつ好きなんだ!」
「私も~!」
「なんか、食い物の話してたら腹減ってきたな。先にあそこの海の家で焼きそばでも……」
「えー?」
「まだ昼には早いだろ。あとにしろ」
お腹をさすりだしたジンパチに、リンネとアヤはくすくす笑ったが、タカキはムッとしている。
「あたし、かき氷がいい。ブルーハワイ」
みんなの輪から少し離れたところで座り込んでいたレイチェルがおもむろに言い出した。
「おまえなぁ……」
「かき氷もいいな! よし、一緒に食べようぜ! レイチェルの分もまとめて買ってきてやるよ!」
呆れ顔で眉をひそめるタカキの隣で、ジンパチが身を乗り出した。
「いいの? 悪いわね」
そう言いながらもレイチェルは自分の分のかき氷代をジンパチに渡していて、買ってきてもらう気満々だ。
「リンネ、今日はスイカのボールを持ってきたんだ。あっちの浅い方で、ボール遊びしないか?」
「えー、私、ボール遊び苦手なんだけど」
「だからこそだ。練習になっていいだろ。海なら、転んでも痛くないし」
「そっか、それもそうだね! シュウちゃん、いこ!」
シュウに誘われてあっさりついていったリンネの後ろ姿に、声をかけそこねたタカキは呆然と立ち尽くしていた。
そんなタカキの顔を、アヤが不敵な表情で見上げてきた。
「私が一緒に泳いであげようか?」
タカキは不満げに言い返そうとして……結局、言葉を飲み込んで、ため息をついた。
「どこまで泳げるか、勝負するか?」
本当は、運動神経が悪くて泳ぐのも苦手なリンネに泳ぎを教えてあげるつもりだった。しかしそのリンネは、シュウが連れて行ってしまった。
アヤはどう見ても文系で運動とは無縁そうだが、実は運動神経は悪くない。それを知っているタカキは、勝負を仕掛けてみた。
「私が勝ったら、レイムくんのガチャガチャ一回分買ってよ」
「なんだそれ」
「スーパーに置いてあるでしょ? この間、七回引いたんだけど、好きなキャラだけ出なかったんだよね」
「なにやってるんだ、おまえは」
呆れながらもタカキは準備体操をしはじめていて、勝つ気満々だ。
「もし、あんたが勝ったら、リンネとデートする約束取り付けるの、手伝ってあげるよ」
「な……」
アヤは軽く腕を伸ばしてストレッチしただけで、走り出した。
「もうスタートでいいよね?」
「ちょっと待て!」
タカキは慌てて追いかける。
六人で海まで来たというのに、結局、二人ずつの三組に分かれてしまった。
でも、そんなのはいつものことだ。組み合わせは毎回違うけど。
今年の夏休みはもうすぐ終わるけど、学校でまた会えるし、放課後や土日に遊べる。
冬休みも春休みもあるし、来年の夏になればまたこうして六人で海に来ることだってできる。
誰もが、そう信じていた。
成長していくごとに、友達に対する意識が変わることはあっても、取り返しのつかないことなんてなにもないと。
夏の日差しが、絶え間なく寄せては返す水面に弾かれて、キラキラと輝く。
しかし、あまりにも美しいその光景に目を奪われる者は、少なくともリンネたちの中には誰一人いなかった。
当たり前のようにそこにある光景だと、誰もが気にとめなかった。
「……今日、ほんとは一緒に図書館に行く約束だったのに、ごめんな」
波打ち際でスイカのボールをリンネに投げながら、シュウは小声で言い出した。
他の友人たちが近くにいないことを確認してから。
リンネはよたよたと左に一歩ずれて、ボールをキャッチする。
「私はいいけど……シュウちゃん、宿題、間に合いそう?」
「う……なんとかする」
夏休みの宿題の読書感想文を忘れていたので一緒に本を選んでくれないか、とリンネを誘ったのはシュウの方だった。
時間がもうないので、さくっと読めてさくっと感想を書けそうな本を選ぶ必要があったのだが、普段あまり本を読まないシュウにはどれがいいのかさっぱりわからなかった。
だから、普段からよく図書館に行って本を借りているリンネにアドバイスを求めた方が早いだろう、と判断したためだ。
「でも、明日は図書館、お休みだよね? あっ、そうだ! よかったら、私が持ってる本貸してあげるよ!」
リンネが投げたボールはシュウが立つ場所からは大きく外れたが、運動神経のいいシュウはすぐに反応して、難なくキャッチする。
「ごめん、シュウちゃん!」
「へーきへーき。いつものことだろ?」
「えへへ」
「それより、リンネの本ってどんな? まさか、いつも机の上に飾ってある、あの分厚い本じゃないよな?」
「あれだよ!」
「……まじかよ」
「でも、すっごくおもしろいから、シュウちゃんにも読んでほしい!」
まっすぐに返ってきたボールを、今度はまっすぐにシュウに投げることができた。
言葉と眼差しまでまっすぐなリンネに、シュウが困った顔をする。
「……おれ、本を読むのはあんまり得意じゃないからさ……どういう内容なのか、リンネが先に説明してくれるなら、がんばって読むよ」
「それはダメだよ!」
シュウにしては精一杯の譲歩案を、リンネは即答で切り捨てた。
「なんでだよ!」
「ネタバレになっちゃうじゃん! あ、でも、読み終わったあとにわかんないとこあったら、いくらでも聞いて! 私、もう、百回ぐらい読み返してるから!」
少しだけ膨らみはじめた薄い胸を力強くどーんと叩くリンネに、シュウはため息をつく。
そして、手元のボールを投げることなく、リンネの方に歩み寄った。
「じゃあ今日、帰るときにリンネんち寄るから」
「う、うん……!」
いきなり頬に触れてきたシュウの指先に、リンネはドキドキしながら頷く。
「顔が赤い」
「へっ!?」
「熱中症じゃないよな? 水を飲みにいったん戻るか?」
「あ、ちが……っ、まって、へいきだから! ちょ、ちょっと泳げば落ち着くはずだから……っ」
「それなら浮き輪が必要だから、やっぱりいったん戻った方がいいだろ」
「大丈夫だよ。そんな深いところにいかなければ」
戻ればきっと、レイチェルとか誰かがいる。誰かに声をかけられて、シュウちゃんはそっちに行ってしまうかもしれない、と考えたリンネは、慌ててシュウを引き留めた。
まだ、二人きりでいたかったから。
「それに、スイカのボールだってあるし」
「……ま、タカキとアヤは、浮き輪なしで足がつかないところまで泳いでるしな」
さっき、沖の近くまで競争している二人の姿を見た。
僅差でアヤの勝利だった。
きっと今頃、タカキは悔しがっていることだろう。
いきなりあの二人の真似はできないまでも、それなりに対抗心があるらしいシュウは「よし」と呟く。
「ちょっと、泳いでみるか」
「うん!」
深いところに行くほど海水が冷たく感じられて、不思議な感じだ。
「水、きもちいいね、シュウちゃん」
「うん」
少し気恥ずかしそうに、シュウが頷く。
波打ち際は人がたくさんいたけど、少し奥に進むだけでも、人の密集度は薄くなる。
ちょっとだけ、二人きりで海に来たような錯覚を覚える。
「リンネ……! おれ、前より泳げるようになったんだ! 見てくれるか?」
「ほんと? 見せて!」
走るのはとても速くて球技も得意なシュウだけど、泳ぐのは下手くそで、水泳の授業の時、先生にびっくりされたり、同じクラスの子たちにからかわれたりしていた。
それが悔しくて、市民プールでこっそり特訓していることを、リンネだけは知っている。
学校のプールと同じぐらいの水深のところまできたあたりで、シュウが泳ぎだした。
あっという間に向こうまで行って、あっという間に戻ってくる。
腕のフォームはやっぱり少し不格好だったけど、懸命に泳ぐ姿はカッコよかった。
「シュウちゃんすごい! カッコいいね!」
こみあげてきた気持ちのまま、全力で褒めると、シュウは頭のうしろを搔きながら、照れたように笑う。
その顔がすごく、好きだった。
昔からずっとずっと。
「よぉーし! 私もがんばっちゃうぞ!」
抱えていたスイカのボールをシュウに渡して、リンネも水面の中に飛び込んでみた。
プールとは違う、ベタベタする海水が髪に絡みついてくる。
そういえば、学校のプールではいつも水泳帽をつけているけど、今日はつけていないので、波にゆらゆら揺られる髪が少し邪魔だ。
プールにはない波も、リンネの行く手を阻んで、思ったよりもあんまり進まなかった。
「やっぱり私はだめだぁ~!」
「ていうか波が強くなってきていないか? そろそろ戻った方がいいかも」
「う~……もうちょっと!」
空の太陽は、いつの間にか頭上近くまできていた。
お昼が近くなっていることは明らか。それでも二人は時計を持っていないから、今が何時なのかはわからない。
いつまでもこうしていたい気さえした。たぶん、リンネもシュウも。
「リンネ、そこに白いなにかが……」
「えっ、もしかしてクラゲ!?」
ちょうど水面から顔を出したところだったリンネは『白いなにか』を確かめる前に、慌ててシュウに飛びついていた。
「いや、ごめん。ビニール袋だったかも……」
すると、シュウが言いづらそうに修正する。
振り返ると、確かに小さな白いビニール袋が、ぷかぷかと浮いていた。
「もー! びっくりしたじゃん!」
頬を膨らませて怒りながら、リンネは、シュウとの距離が普段よりも近くなってしまっていることに気づいた。
よく見ると、シュウの腕にリンネの胸のあたりが密着している。
「ご、ごめん……!」
「おれも、ごめん」
すぐに謝って体を離したが、シュウは気まずそうに視線を泳がせている。
幼稚園生だった頃は一緒にお風呂に入ったり、目の前で着替えたこともあったけど、最近はなんだか勝手が違う。
体が成長してしまったし、恥ずかしいという気持ちを覚えてしまったからだ。
ずっとずっと一緒でも、ずっとずっと昔と同じままではいられないのだ。
「……ねぇ、あのね、この間の夏祭りで同じクラスのユズハちゃんにバッタリ会った時、『シュウくんとリンネちゃんって付き合ってるの?』って聞かれたんだけど、付き合ってる、ってどういう意味……?」
「えっ!?」
よくわからなくて、シュウに聞きたかったけど、他の友達の前ではなんとなく聞きづらくて、今日までずっと黙っていた。
二人きりの今なら、ようやく聞けると思ったのだ。
「ええと……その、好きなやつと好きなやつ同士が、付き合うってことじゃないのか……?」
シュウは明らかに動揺していて、さっきよりも落ちつかなさげにリンネから視線をはずそうとしている。
「だから、付き合うって?」
それじゃ、説明になっていない。リンネは聞き直した。
「こ、コイビトになることだろ!?」
「コイビトって?」
「い、いずれ結婚したりとか……」
「結婚? お父さんとお母さんになるの!?」
「ま、ままままだそれは早い! まずは、ちゅーしたりとか!」
「ちゅーなら、幼稚園の時のおままごとでしたことあるよね!?」
「うるさい! あれはノーカンだ!」
「ノーカンってなに!?」
「ノーカウント……ちゅーのうちに入らないから、さっさと忘れろ、ってことだ!」
広い海の上で、幼稚な言い合いが繰り広げられる。
幸いにも、昼近くなったことで周囲の人が減ったことと、波の音が賑やかだったことで、二人の会話に注目する人は誰一人いなかった。
「……そっか、忘れた方がいいんだ……」
リンネは俯き、小さい声で呟いた。
お遊びだったのはわかっていた。それでも、思い出すたびに胸のあたりがじんわりとあたたかくなる、特別な記憶だった。
「ごめん! 忘れられないかも……!」
「な……」
忘れられるかといったら絶対無理なので、リンネは先に宣言することにした。
「でも、私が忘れたくないだけだから、シュウちゃんは忘れてもいいよ」
へにゃっと笑いながら言うと、シュウは複雑そうな顔でリンネを見て、ため息をつく。
「おまえなー」
濡れた髪がぐちゃぐちゃになって頬に張りついていたのをシュウの手がそっと直してくれる。
その手が優しくて、なんだかドキドキした。
「シュウちゃん、あのね……」
私はシュウちゃんのことが好きだけど、シュウちゃんは私のことが好き……? そう聞くつもりだった。
「リンネー! シュウー! そろそろお昼にするぞ!」
ためらって、言い出せずにいる間に、遠くから呼びかける声が聞こえていた。
振り返ると、波打ち際のあたりに立つタカキが手を振っている。
「いまもどるーっ!」
シュウも大声を張りあげて、手を振り返した。
「リンネ、行くか」
「うん……」
まぁ、さっきの質問は、いつでもいいか、そう思い直して、リンネはシュウとともに歩き出した。
数歩歩いたところで、すぐに脚に違和感を覚えた。
「いっ、た……っ」
「どうした?」
「あし、つっちゃったみたい」
右のふくらはぎのあたりが、ものすごく痛い。
「歩けるか?」
「すぐには無理だから、シュウちゃん、先、戻ってて」
「バカ、置いていけるわけがあるか」
おんぶを促すように背中を差し出された瞬間、シュウが抱えていたスイカのボールが、手元から離れた。
あっ、と二人同時に声をあげる。
一瞬だけ波打ち際に連れて行かれたスイカが引き波によってさらわれるまで、そう時間はかからなかった。
「待って!」
リンネが手を伸ばしたが、当然、届かない。
「リンネ、無理だ。諦めよう」
「でも、シュウちゃんの大事なスイカが……。ダメだよ、諦めちゃ」
ちょっとがんばれば追いかけられる気がした。
痛む脚を動かして、リンネはスイカを追いかける。
「……っ、おれが取りにいく。リンネはここで待ってろ」
シュウはさっき見せてくれた泳ぎよりも速く、綺麗なフォームでスイカのもとにたどり着いたが、あともう少しで指先が届くというところで、またスイカは波にもてあそばれ、流されていってしまう。
波が荒くなっているとシュウが言っていたのは、本当みたいだった。
風が強い。
そういえば、夜から雨が降るかもしれないとママが言っていた。海の先の方では、一足早く嵐がきているのかもしれなかった。
「シュウちゃ……」
スイカを追いかけているうちに、シュウはだいぶ沖の方まで行ってしまっている。
スイカのボールは、なくなってしまってもまたお店で買い直せばいい。でも、シュウが戻ってこなくなったら、取り返しがつかない。
急に怖くなったリンネは、いてもたってもいられずに、シュウを追いかけていた。
「シュウちゃん! 戻って!」
せいいっぱい声を張り上げた瞬間、足元になにか絡みついて、リンネは大きく体のバランスを崩した。
どうやら、水草が巻きついてしまったらしい。
「やだ……やだっ!」
パニックになったリンネは、がむしゃらに水草を引っ張る。
なんとかほどけてほっと息をついた時、不意に体から力が抜けた。
急に大きい波が押し寄せてきたのはその時で、気づいたら、自分がどこにいるのかもわからなくなった。
流されながら、シュウがこちらに向かって手を伸ばしている姿が、スローモーションのようにゆっくりと見えた。
シュウの口元が動いていて、なにか叫んでいるようにも見えるが、不思議と声は耳に届かない。
変だな。
波の音も、なにも聞こえない。
伸ばされた手に、自分の手を伸ばしてみたけど、どうしてだか、どんどん遠ざかっていく。
『もしもじぶんがひとりぼっちだとかんじることがあったら、そらをみあげて。きっとわたしはそこにいるから。いつまでもいっしょにいるよ。きみがかなしいときはかぜのようにきみのあたまをなで、きみがうれしいときはたいりんのはなをさかせ、きみがまえにすすみたくなったときは、しろいつばさをあげる』
パパにもらった大事な本の最後の文章が、不意に歌のように頭の中に流れてきた。
永遠の命を持つ孤独な王様に寄り添うために、何度も死んでは生まれ変わる女の子の話だった。
パパが日本にきたばかりの頃に本屋さんで出会ったという、不思議な空想のお話。
ああ、私は死んじゃうんだ、と唐突に理解した。
海のなかでもみくちゃにされながら、水面の向こうの空を探した。
水の檻の縁から、空から降る光がキラキラ差し込んでいるのが見えた。
――泣かないで、シュウちゃん。
声は出せなかったから、かわりに心の中で呟く。
溢れ出した涙が、波にさらわれてとけていった。
『ま た ね』
最後に残った酸素もまた、波に呑み込まれて海の彼方へと消えていく。
タカキに引きずられるようにして無理やり砂場に引き上げられたシュウは、呆然と空を見上げていた。
「いま、リンネの声が聞こえなかったか?」
隣に立つレイチェルに聞いてみたが、レイチェルは重い表情で、無言で首を横に振るだけだった。
「またね、って聞こえた気がした……」
シュウの呟きに、アヤがすすり泣きを始めた。
空は高く、海は青く、夏の日差しはこんなにも綺麗なのに――どうしてリンネだけが、ここにいないのだろう。
誰も理解できないまま、いや理解しようとしないまま、夏は終わりを迎えようとしていた。
みんなでリンネのお墓を作ったその日、ようやく凛音は、最後の日のことをすべて思い出した。
目が覚めてから、少しだけ泣いた。
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