第18話 でもその弱さが、僕の心を救ってくれたんだ

 「……わかったよ。五花お姉ちゃん?」


 僕がそう冗談を返すように微笑むと、五花も再び僕に可愛らしい微笑みを返してくれた。


 途方もない幸せを、その微笑みに感じた。


……」


「……どうしたんですか?」


「なんか、これだけで良かったんだなって。僕が本当に求めていたのは、こういうものだったんだ……急にそれが分かったよ」


「そうなんですか?」


「僕は今、途方もない安心感を、君との会話に感じている。本当に、幼い男の子がお姉ちゃんに甘えているような感覚かもしれない」


「ふぅん? まあ、良い事なんじゃないですか? わたしは嬉しいですよ?」


 僕は、この安らぎを与えてくれる五花という少女の事を、やっぱり好きだなと改めて感じたが、もちろん今となっては叶わぬ話である。


 しかし僕は不思議と、その事を悔しいとも感じていなかった。


 この目の前にいる五花という才能は、様々な不幸がその心を、その行動を歪めていたとしても、なおその奥底にある輝きは、僕が子供の頃に五花の絵に感じたように、果てしなく広く、深い。


 僕はそんな才能を僕だけで独占するなんて事は、許されていいはずがないと素直に思えていた。


 こういうものは、恋人だの、結婚だのと、約束や形式、契約などといったくだらないもので束縛していい存在ではないんだ。

 

 もっと尊いんだ。


 本当に尊い何かというのは、ただ自分の所にその尊さが舞い降りる幸運を、神に感謝する事しかできない。そういうものなんだ。


 それを捕まえようとしたり、自分のものにしようとしたりする試みは、すべて無駄で、愚かな行為だ。


 それとずっと共にある何かがあるとするなら……


 それは、それと同じくらい、尊く、気高い存在だけだ。


 死期が近づくにつれ、なんだか僕はこういう事がすっと直感で分かるようになっていた。


 人間的成長というのは、どうやら死と密接な関係があるらしい。


 それはたぶん、死と生があまりにも密接な、両輪の関係にあるからだと思う。


 僕は死を恐れる恐怖を徐々に克服しつつあるのだろう。


 この五花と、卓という輝きに触れる事によって。


 それが、僕の人間的成長に繋がって――


 こういう世の中の真理といってもいいだろう何かに、気付けるようになってきた。


 こういう事が分かっている今なら、きっと生を、もっとよりよく、もっと豊かに生きる事が出来るはずだった。


 もっと生きたい。


 もっと色々なものを味わいたい。


 素直にそう思う一面もある。


 だが、それが叶わないのも、また生というものの奥深さの一部なのだろう。


 そういう意味で、僕はある意味今までで一番生を満喫していた。


「――だから今、こうしてやっと、五花に話す事ができる……この僕の、どうしようもない過去を。途方もなく恥ずかしい、くだらない、人に話したくない、そんな暗部を」


「……聞かせてください」


「最初に話さないといけないのは、僕が4歳のときのエピソードだ」


「はい」


「僕は、幼稚園で絵を描く時間があって、その時に描いた紫色をしたお魚の絵が、幼稚園で金賞という賞を取ったんだ。僕はもちろん4歳だから、4歳児が無我夢中で描いただけの作品なんだけど、僕がその賞を取ったと知ったとき、僕の母親はこう言った。さすが海斗ね。海斗はいい子だから、いい絵が描けるのね。これからもいい子でいないとダメよ。そう言われたんだ」


「……はい」


「母親は、いい子であるという言葉をよく使う人だった。子供むけのヒーローアニメなんかをすすんで観させて、海斗もこういういい子にならないとダメよって言うのが常だった。これ自体は、世間一般の家庭でもよくある範囲の、普通の教育の範囲だと思う」


「……はい」


「だけどその絵は、僕にとってもとってもお気に入りの、とっても楽しい作品だったから、それが僕がいい子だから描けたと言われたとき、僕の心の中に急になんだかぽっかり穴が空いたような闇が生まれたのを幼心に感じたんだ。もちろん、そんな風に言語化なんてできなかったけど、ただ、不安を感じていたんだ」


「……はい」


「この時の言葉は、幼い僕の心に何度も反響して、何度も僕を苦しめる事になる。いい子にならないといけない。いい子でないとダメ。いい子じゃないと、いい絵が描けない。それは有り体にいって、僕の恐怖だった。幼い僕が初めて感じた恐怖。それがこの、いい子という単語に詰まっていた。だって絵を描くのはあんなに楽しくて、いい絵ができるのはあんなに嬉しいのに、それがいい子でなくなった瞬間全部台無しになっちゃうんだ。それは幼い僕にとって途方もない恐怖で、いつしか僕は、いい子でなくなる事を強く恐れるようになっていた」


「……はい」


「僕は幼稚園での一挙一動が、いい子に見えるのかを気にするようになった。砂場で泣いている子供がいたら、手を貸し、何があったのかを聞く。それがいい子に見える行動だから。いい子でないのは怖いから。僕はそんな、幼い歪みを、徐々に抱えるようになっていったんだ」


「……はい」


「母親は、僕に絵の才能があるらしいと聞いて、近所の絵画教室に僕を通わせるようになった。僕はそこで、幼い子供にしては凄いとあちこちで言われるくらいには、メキメキと実力をつけていったよ。でもそれは、いい子でいるために過ぎなかった。母親の思ういい子は、絵も上手に描ける子だから、いい子でいるために、絵も上手に描けないといけない。僕を動かしていたのは、そんな黒い強迫観念だった」


「……はい」


「本当に恐ろしいのは、僕が、まるでいい子でいたいとは思えていないのに、周囲からいい子だ、素晴らしい子だと扱われだしてしまう事だった。僕はそれを見て、なんて簡単なんだろう、と思ったよ。いい子でいる事は、どうやら僕にとって難しい事ではないらしい。それは、周囲への嘲りとか見下しとなって、僕の心に残っていった。そうなんだ。僕は普段はいい子のフリをしているのに、心の奥底では周囲みんなを見下しているような、そんなどうしようもない子供だったんだよ」


「……はい」


「たとえば僕は、小学校で授業があるとき、率先して手を上げて、毎回のように正解を答えていた。そのためだけに、僕は教科書を先に読んで、先生が聞きそうな質問に対する答えをあらかじめ用意していた。それで、見事にこたえた僕の心の中にあるものといったら、ただ、こんな事も答えられない周囲の子供たちへの見下し、こんな簡単な事をわざわざ質問する先生への見下し、そんなものばかりだったんだ。僕はそんな、どうしようもなく歪んだ子供として育っていた」


「……はい」


「そうして、僕が表面だけのいい子として、表面だけの上っ面に過ぎない絵を描いて過ごして、数年が経った。僕はそれなりに成長して、小さなコンクールなどでは賞も取れるようになっていたが、全国的なコンクールなどではまだまだ遠く力が及んでいなかった。だが僕は、そこまで難しいコンクールは自分には必要ないと思っていた。いい子でいるため、という目的には過分な賞だと思っていたんだ。そんなある日、僕は市役所のホールで飾られていた、ある絵に出会った」


「……わたしの絵、ですね」


「そうだ。一目見て、何か途轍もないものと出会ってしまったと思った。僕はただ無我夢中で、そこに描かれた美に、自由に、自由への渇望に、ひれ伏す事しかできなかった。その絵の中にいたのは、僕だと感じた。僕が心の奥の奥でずっとずっと感じていたもの。それはこの、自由になりたいという強烈な願望だったんだと、全てを理解した気持ちになった。同時に、絵が凄すぎて、美しすぎて、わけが分からなかった。見ると、これを描いたのはわずか10歳の、僕と同い年の女の子で、この絵は全国的なコンクールで見事賞を取ったのだという。僕は、本当に才能がある子供という存在の凄さと恐ろしさを、本当にすごい絵というものが持つパワーを、人生で初めて、まざまざと体感した」


「……そうですか」


「僕は絵というものに関する認識を根本から悔い改めたよ。絵は、絵だけは、いい子でいるための道具なんかじゃない。もっと崇高で、気高い何かがそこにはある。だからこそ僕は、僕自身、全力で取り組んでみたい。そこにある崇高な何かを、手元に引き寄せてみたい。そう思った」


「……はい」


「それからは中学2年で卓に会った事と、中学3年で君と出会った事。その二つくらいだね。そこから先の事は、君も知っての通りさ。僕は愚かにも君の誘惑にメロメロになってしまって、性欲を晴らす事しか考えられない獣に成り下がっていたね。そんな僕が、獣に先祖帰りしてしまう奇病にかかったのは、ある意味皮肉かもしれない」


「……」


「僕はこれでも君の事が好きだと思っていた。そう思おうとしていた。だけど、違ったよ。結局僕はただ、君のその身体で、僕の醜い欲望を、晴らしたいだけだったんだ。僕はキミの本当の崇高な部分を、気高い気質を、まるで理解すらしていなかった。こんなの、彼氏なんて呼べるはずもない。僕は、彼氏失格、いや、人間失格かもしれない」


「……それは違うと思います」


「……え?」


「海斗くんの、わたしの絵を見たときの憧れは、わたしがいうのもあれな話ですが、本当に強烈な、鮮烈なものだったはずです。その感動は、わたしの誘惑ごときで消えてしまうほど、浅いものだったのですか?」


「……」


「海斗くんは、わたしがこないだ公園で泣きついたとき、泣いているわたしを慰めるのもそこそこに、絵の話ばかりしていました。本当にわたしとセックスがしたいだけなら、泣いているわたしをよしよしと慰めて、適当に表面だけの心の慰めを口にし続けていればよかったはずです。もしかすると、それに絆されたわたしが、海斗くんとエッチな事をしてくれるかもしれないんですから」


「それは……」


「違います? 違いませんよね? だって、普段海斗くんの家でデートしてるとき、海斗くんはわたしに対しても、いい子でいる以上の事は何も出来ていませんでした。それは、その時の海斗くんが、わたしに誘惑されて、性欲を炙られて、その事しか考えられなくなって、海斗くんの本質的な部分しか心に残っていなかったからだと思います……いい子でいれば、わたしが認めて、エッチしてくれるかもしれない。そんな幼い、どうしようもない感情で動いていた事は、今のわたしなら一瞬で分かります」


「うっ……それは……そうだ……そうだね……そうなんだよ……僕は本当にそれだけの、どうしようもない奴で……」


「だからこそ、海斗くんが、わたしが公園で泣きついたときという、ある意味恋愛的にいえばチャンスな場面で、絵の話ばかりしていた事には意味があると思います。海斗くんが、わたしの絵に感じた感動は、きっと本当に聖なるものでした。それは、どんなに誘惑されて、どんなに歪められたとしても、抑えきれない熱情として、海斗くんの中に残っていた。だからこそ、海斗くんはあの場面で、計算づくのいい子としてわたしを慰めるのではなく、心の赴くがままに、わたしに絵を描かせようとする事を選んだんです。それは無意識的にだったかもしれませんが、だからこそ、海斗くんの本質が出ていると、わたしは感じました」


「……!」


「そんな海斗くんだから……そんな海斗くん相手だからこそ、わたしは、今、心から海斗くんを憐れんで、海斗くんを救える絵を描きたいと思っています。海斗くんは、どうしようもない人間だと、自分の事をそう思っているかもしれませんが……それは幼い頃の小さな歪みが、やがて大きな歪みとなって、海斗くんの心の成長を、幼い頃のまま止めてしまったからに過ぎないと思います。海斗くんの中には、今もまだ、幼稚園で金賞を取ったときの、3歳児の海斗くんがいるんだと思います。そして、わたしの絵に海斗くんが感動したのは、その3歳児の海斗くんが、心から自由を求めていたからだと思います。だって、わたし自身が、そうだったんですから……!」


「……五花も、そうだったんだね……!」


「そうです! そうに決まってるじゃないですか! わたしは散々お母さんにコンクールで受ける絵だの大人が喜ぶ絵だのを強制されて、絵の方向性を歪まされて、怒っていた! 不満だった! 全てを壊したかった! それでもわたしは、お母さんにいい子だねって、愛してるよって一言、一言だけでも言って欲しくて……! それであの絵を描いたんです! あの絵には、わたしの自由への渇望が込められていました。本当に強い、心からの渇望です。この鳥みたいに、この鳥に乗る子供みたいに、自由に空を飛び回りたい。それが心からの本心だったからこそ、見た海斗くんの心を打ったのでしょう……思えば、わたしの絵の中でも、一番わたしの心が、わたしの心象風景が強く出ていた絵でした。それが海斗くんを感動させて、こうしてわたしに海斗くんのための絵を描かせるべく運命が動いたのは、それこそ、神様の思し召しという奴かもしれませんね……」


 気づけば、僕は両目から涙が零れるのを抑えきれなくなっていた。


 幼い五花の、怒りを、不満を、全てを壊したいという心を想像して、泣いてしまっていた。


「そうか……五花は……五花も……辛かったのに……それでも五花はあの絵を描いたんだなぁ……五花は、強いなぁ……」


「強くなんてありません! 事実わたしはボロボロで、あの絵を描いてちょっとした頃には、例の彫刻刀で絵の数々を引き裂いて回る事件を起こしたんですから……わたしは本当に弱くて……ありもしない母の愛を求めているだけの、どうしようもない、弱い子供でした……」


「でもその弱さが、僕の心を救ってくれたんだ。僕はキミに、やっぱり深く感謝しないといけない」


「そんなのは……そんなのは、海斗くんの中に、元々救われる種子があったからに過ぎません……」


「種子?」


「ええ……3歳の頃の、無我夢中で紫色のお魚を描いていた海斗くん。そんな海斗くんの自由で、喜びに満ちた絵を描ける健やかな心こそ、海斗くんの種子です。海斗くんは、その種子のまま、成長が止まっちゃってるんですよ」


「……!」


「だからわたしが、もう一度、その種子を芽吹かせる絵を、描いてみせようと思います。それが死にゆく海斗くんにとって、何よりも救いになると信じて」


「……っ!」


「だから、海斗くん。安心してくださいね? 五花お姉ちゃんが、可愛い海斗くんのために、ステキなお絵描きを見せてあげます」


「……っ! ううっ……! ううううううっ……! 君は、なんて……! ありがとう……! 本当にありがとう……! ううううううっ……!」


 僕は泣いていた。


 涙が止まらなかった。


 それはずっと僕の心の奥の奥で抑圧されてきた、3歳の頃の僕の、喜びの涙だったのかもしれない……


「うううううっ……! ううううううううっ……!」


 すべて浄化するような涙が、五花の優しさが、ゆっくりと、僕の心に溜まった澱を、洗い流してくれているかのようだった。

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